黒川 智生 4
――なんで俺がここまでしなくちゃならないのか、全然わからない。
「これをしないと、生活できないから」
――なんでこれをしないと生活できないのか、全然わからない。
「お金がないから、暮らしていけない」
――なんでお金がないのか、全然わからない。
「バイト代を取られたから。食わせてくれる親がいないから」
――なんでバイト代を取られたのか。どうして親がいないのかわからない。
「あのビッチの母親が、ろくでもない連中に金を借りてるから。父親が誰かもわからないし、ガキなんて鬱陶しいだけだからいらなくなったんだよ」
――親戚が養ってくれない理由が、全然わからない。
「親戚ってだけで、ほとんど他人みたいなもんだ。花菜のことだって知らなかったんだぞ」
――花菜とは全然、血が繋がってない。だから当たり前だ。
シャワーを止めた。それと同時に、頭の中で響く声も止んだ。別に難しい話ではなく、単純に、俺が俺自身に質問し、言い聞かせ、納得しているだけだ。二重人格の類ではない。
お金をもらってオヤジとやるのは、今日で三度目だった。もちろんどのときも違う相手だ。クリスマスイブの日もやった。最低な誕生日だった。最低な誕生日だったけど、花菜と樹がお祝いしてくれたことだけは嬉しかった。ただ、あの日の樹は、なんとなくいつもと違う様子だったことは気にかかっている。樹は、ちょくちょくバイトが終わる時間を聞いてくる。あの日のバイト終了時刻は嘘を教えていたから、もしかしたら、それがばれた上でこれも樹にわかっているのかも。なんて考え始めるときりがないので、俺は頭を振って思念を追い払った。生活の手段なのだから仕方がないと自分に言い聞かせても、性と金を交換する行為には引け目を感じるし、どうしようもない屈辱感とそれを凌駕する諦念がある。
着る必要はないと思いつつ、服を着て室内に戻った。相手はもう、準備万端でベッドで待機していた。瞬間的な嘔吐が込み上げたが堪えた。今日の相手は、軽く会話した分には厭味も感じなかったし、値踏みするような目で俺を見なかった。今までのふたりよりは理性的そうだ。そんなに変態的なことはやらされないですむかもしれない。
行為はすぐに始まった。少しずつ服を脱がされている中で、思考がだんだん過去へと戻る。なんで俺がここまでしなくちゃならないのか、全然わからない。一番最初の疑問に意識の核が移ったとき、頭の中で記憶が蘇った。俺はもう十七歳になっているから、七年前だ。母親の親戚を盥回しにされ、最終的に叔父夫婦に引き取られた頃のことだ。あの日も俺は、学校をこっそり抜け出して家に帰っていた。たくさん転校していたし、父親が誰かもわからない上に母親は蒸発しているし、妹が少しほかの子どもと違うということもあって、俺は学校で酷いいじめを受けていた。単純にそれも辛かったし、花菜のことも心配だった。
『花菜、これ。今日の給食、パンだったから持って帰った』
幸いなことに、叔父さんは合鍵だけは持たせてくれた。だから、いつもそれを使って、昼間に家に帰っていた。叔父さんは当然一日仕事で、叔母さんは専業主婦のはずなのに、何故か家にいなかった。家ではいつも花菜ひとりだった。本当は花菜も学校に行かなければならなかったが、叔父さんは、花菜を無理矢理普通学級に入れた。もちろん、花菜は辛い思いをして通わなくなった。花菜が不登校になってしまったことに対して、叔父さんは、特になんの感想も抱いていないようだった。
給食のパンをまるごと持ち帰って、半分に割いてふたりで食べること。ときどきゼリーやデザートがメニューにあれば、それも持って帰ってふたりで分けた。そのときの俺の唯一の楽しみと言えば、それだけだった。
叔父は、明らかに嫌々俺たちを引き取っていた。ろくでもない妹の尻拭いをさせられている、そんなふうにはっきり言われたこともあった。ご飯を出してもらえないことだって珍しくなかった。だからこそ、給食のパンが命綱だった。俺が昼間食べずに残しておいて、半分に割いたものをさらにニ等分した夜もあった。
学校が終わった後は、花菜と一緒に部屋に閉じ篭った。学校に行かない休日は、朝早くから夕方まで、花菜を連れて外に出た。お小遣いなんて当然もらえないから、なにも買えなかった。でも、花菜と手を繋いでいろいろなお店を廻ったり、ペットショップを覗いたりするのは楽しかった。そんな生活は、叔父夫婦のもとに辿り着く前から続いていた。血の繋がりのある誰もが、俺たち兄妹に優しくしてくれなかった。あの母親の血縁者なのだから当たり前だ。甘いものなんて食べたことのなかった俺たちに、初めてお菓子をくれたのが樹だった。それがキャラメルだった。
現実と記憶を、朦朧とした意識が行き来する。なにがどうなって、今こうなっているのかわからない。わからないほうが無意識でいられる。要求に無心に応じていれば、そのうち終わる。精神と身体が、まるで別の世界で動く。頭の奥が、勝手に昔の世界に縋る。
『そんなとこでなにしてんの?』
いきなり話しかけてきたその男の子を一目見ただけで、明らかに自分とは違う世界に住む人間だとわかった。綺麗な服を着ていたし、その子の数歩後ろには、きっちりしたスーツにネクタイを結んだおじいさんが控えていた。最初見ただけでは、このふたりの関係はわからなかった。とりあえず、祖父と孫という微笑ましい感じではないことだけは、雰囲気で理解した。
『ねえ、木村。この子たちなにしてるの? 滑り台もブランコもあるのに、なんでこの子たちは砂場で黙って座ってるの?』
『座っていたいから、じゃないでしょうか。お訊ねしてみてはいかがです?』
おじいさんは、男の子にいやに丁寧な言葉を返した。とても穏やかな口調だった。男の子は、興味なさげに「ふーん」とぼやいた。
その日は、よく晴れていた。雲ひとつない晴天の空の下、俺と花菜は、公園の砂場に腰を下ろしていた。本当は滑り台やブランコで遊びたかったけど、既にほかの子どもたちがグループで占領していた。話しかけて輪に加わる勇気はなく、そうかと言って、もう行くあてはひとつもなかった。知らない男の子が声をかけてきたことで、花菜はとても驚いたらしい。俺の服を強く掴んで、頭をぴったりと俺の背中にくっつけていた。
突然、男の子は俺の隣に座り込んだ。人見知りの花菜の身体は、瞬時に飛び上がった。男の子がそれを横目で確認したのを、俺は確かに見た。
男の子は言った。とても不貞腐れた口調だった。明らかに不機嫌なのに、声はものすごく澄んでいた。
『俺もここ、座ってていい?』
――なんで俺がここまでしなくちゃならないのか、全然わからない。
最低な行為はどんどん進み、快楽の代わりに吐き気を催す。痛い。どこが。全部痛い。目に見えるところも、見えないところも痛い。涙が落ちそうになるのを堪えた。幸い部屋は暗いから、少しくらい目が赤くなっても、相手に悟られることはない。
『それ、なに持ってんの』
『それ?』
『食べれるの、それ』
幼い樹が指差したのは、花菜が持っていたアメの袋だった。どこにでも普通に売っている、至って普通のアメだった。ずっと俺にしがみついていた花菜の手の力が、少しだけ和らいだ。樹は一切笑わなかったけど、他意がないことは確実だった。自分と違って擦れた服を着て、人の輪の中にも交ざれずに大人しく座っている俺と花菜を、バカにしているような感じでは決してなかった。まるで本当にアメというお菓子を知らないような、樹は、そんなオーラさえも醸していた。
ひとつあげようか、と俺が持ち出したのは、至って自然な流れだった。そうだというのに、樹は大袈裟に目を丸くした。どうしたらいいのかわからないとばかりに、樹はおじいさんを見つめていた。なんでこの子は、こんなにも変わった反応ばかりをするのだろうか。不思議だった俺も、つられておじいさんを見た。おじいさんは、優しく微笑んで頷いた。その瞬間、樹の頬が綻んだ。ずっと不機嫌にぶっきらぼうな口調だったくせに、突然、樹の声は高くなった。ますます綺麗で、通りのいい特徴的な声だった。
『ありがとう。じゃ、俺もこれあげる。交換っこ』
上機嫌になった樹は、ポケットからキャラメルの箱を取り出した。花菜からアメをひとつ受け取り、樹に渡すと、樹はキャラメルをニ粒を差し出してきた。『そっちの子の分。妹だよね』。
ずっと、人からものをもらったことなんてなかった。お小遣いも持っていなかった俺たち兄妹がアメを買えたのは、俺が叔父夫婦の目を盗んで、財布からちょくちょく小銭をくすねていたからだ。あいつらは、まともにご飯もくれなかった。小さな子どもだった俺には、腹持ちのする食べものがなにかわからなかった。精一杯考えた結果、空腹を凌ぐために、長い時間、口に入れていられるアメが妥当という結論を出した。
自分の分ももらえたことに、花菜は戸惑っていた。言い出したのは自分のくせに、俺も戸惑っていた。キャラメルというお菓子に憧れはしたけど食べたことはなかったし、アメをひとつ分けたくらいで、相当嬉しそうにする樹が不思議だったということもある。戸惑いながらも、花菜の分ももらったから、という理由で、俺はもうひとつアメを樹に手渡した。樹は、また不思議そうな顔をした。あっちのおじいさんの分、と俺が教えると、樹は今にも手放しで歓声を上げるのではないかと思うくらいに喜んだ。
『俺、有塚樹。十一歳。あっちのおじいちゃんは木村って言って、うちの使用人なんだ。ふたりの名前も教えて』
――すぐにキャラメルを食べて、予想以上に甘くて美味しくて、すごく感激した。でも、俺は上手く感情を表せなかった。花菜はあからさまに声をあげて、笑顔になった。その日のうちに、花菜は樹に懐いた。そんなに喜んでもらえるならと、樹は、結局一箱分のキャラメルすべて、花菜にくれた。花菜は、それを俺に渡した。俺と花菜にくれた二つ分、重さが抜けているのは、その僅かなグラム数だけだった。
全部もらっていいのか、と一応確認した。樹は言った。『別にいいよ。それを欲しがったのはただの反抗で、食べたかったわけじゃないんだもん。そんなことより、アメ、ありがとう』
痛烈な痛みが全身を貫いた。生温くて心地の悪い温度が内側に浸透したら、ここでようやく終わりのサインだ。身体にかかる重みが抜けた。今日も長かった。長かったけど、予想した通り、そこまで常識の範疇を超越した、変態的な行為はしなくて済んだ。今日の報酬を受け取ったら、次の給料日までは生活できる。朝起きて、朝と昼のご飯を用意して、バイトに行って、ときどきチンピラを撃退しながら帰って、足りないものは買い足して、夕飯を作って。花菜を風呂に入れて、話をして、一緒に寝る。今日受け取る金額で、それまで通りの普通の生活が、とりあえずは保障される。しばらくは、汚いオヤジと寝なくていい。
ベッドを出て、電気を点けた。相手は昇天した顔で天井を見上げている。やっぱりこいつも変態か。唾を吐きかけたくなるのを堪えて、散らばった服を集めて回る。本当はシャワーを浴びたいところだが、石鹸の匂いを漂わせて帰宅というのは、どう考えてもおかしい。花菜だけならなんとか誤魔化せるだろうが、樹は騙せない。イブの夜、身体を洗いたい衝動を必死に抑えて正解だった。深夜に家を訪ねてくるような非常識な真似はさすがにしないが、花菜は、樹なら躊躇うことなく部屋に入れてしまう。もし、樹が家に来ていたら。それを思うと、シャワーを浴びるのは、なにがなんでも我慢しなくてはならなかった。
いつまで賢者なんだ、こいつは。横目で相手を見やり、ひとつずつ服を身に付けた。迎えの要請をするため、携帯電話を操作した。すぐにコールは途切れ、応答があった。以前、あいつらに金をすべて奪られた日――花菜の誕生日プレゼントを買うために、予め別に取っておいたニ万円も含めて、だ――ひとりだけ、気弱そうな男が奴らに加わっていた。見かけ通りにそいつは気弱で、どう考えてもヤクザなど向かなかった。奴らに殴られた俺を心配して、車で家付近まで送り届けてくれた、木村という若い男だ。奴らは散々俺に身体を売れと迫り、結局はこうして売ることになっているが、それでも、奴らの言いなりになることだけは避けたかった。だけどお金を稼がなくちゃいけなくて、生活費がないのだから、悠長にバイトのシフトを増やすなどとは言っていられなくて、最終手段として逆援に及んだ。奴らにばれないように、木村を伝って客を取ってもらった。オーラこそ前向きではなかったものの、木村は、嫌とは言わずに協力してくれた。こんなことしかできなくてごめん、とまで言ってくれた。
いつも通り、終わったから来て欲しい、と一言伝えた。普段なら、わかった、と短く返ってくるところのはずが、今日は妙にまごついていた。なにかおかしいような気がした。
「あの、黒川君。ごめん。僕、黙ってて」
電波越しの木村の声は、頼りなく震えていた。なにかおかしいような気がする。再度、俺は違和感を覚えた。
「迎えには行けないんだ。いや、違う。そっちには行くけど、キミを家には」
「なに言ってんだよ」
「みんなに、ばれちゃって」
瞬間、なにも考えることができなかった。ばれるってなんだ。みんなって誰だ。心臓が酷く波打ち始め、息が詰まった。怒涛の如く、とてつもなく嫌な予感が押し寄せた。ベッドの上で、相手が突然噴き出した。驚いてそっちを見た。いやに興奮した、紅潮しきった顔で、男は言った。
「話に聞いてた通りだね。バカだ。学がないって、本当に悲しいね」
電話の向こうで、高笑いが聞こえた。聞き覚えのある声だった。その声の主が電話をもぎ取ったらしい気配の後に、そいつはまたバカみたいに大笑いした。
「仕事ならいつでも紹介するって言っただろ? こそこそ勝手にやってるなんて水臭いじゃないか」
脳神経がどうかする、と思った。俺からバイト代を全額奪った、憎きクソ野郎だ。せめてあの二万円だけでも残されていれば、花菜にもっと高価なものを買ってやれたのに。怒りが全身を支配する。その場で携帯電話を床に叩きつけたくなった。
決死の思いで自分を落ち着かせ、息を吐き出した。こいつらにばれているなら、もうこの先の報酬はなしと考えて間違いない。なんとか時間を見つけて、事情を説明して日取りでお金をもらえるところを探そう。チェーン店なら難しいだろうが、個人店なら、真に迫って説得すればなんとかなるかもしれない。『ネコシロ』を辞める気はないから結局労働時間は増えるし、しかも大した額にならないだろうが、毎日お金が受け取れるなら、最低限の食費くらいはやりくり次第でなんとかなりそうだ。
「お前さ、もしかして、まだ気付いてなかったり?」
電話口からの声で、思考が分断された。
気付いてないって、一体なにが。俺がそう口にしかけたところで、笑いを堪えた口調で奴は言った。
「特別サービスだよ。一度にひとりだけなんて、効率悪いだろ。同時に何人か相手すれば、もっとがっぽり稼げるぜ。そろそろ着いた頃じゃないの?」
――え?
頭の中が真っ白になった。なにも言えなかった。言葉が出てこなかった。バカ丸出しの笑い声を響かせながら通話が切れ、無機質な音が耳を通った。あいつ、なにを言っているんだろう。などと、もう疑問には思わなかった。気付けば、男はベッドを出てドアに向かっていた。眼鏡をかけていいなくても、男の動作くらいはわかる。鍵に指をかけるところだった。携帯電話を投げ出し、床を蹴ってドアに走った。俺の位置からドアの位置までは遠くない。勢いをつければ、あいつを突き飛ばして鍵を守れると思った。そう思いたかった。そうならなかったら、これから俺がどうなるのかは、考えるまでもないことだった。
一瞬間に合わず、鍵が解かれてドアが開いた。反射で数歩、後ろにさがった。入ってきたのは、脂ぎった顔に醜く太った身体、見るからに不潔なシャツに身を包んだ中年の男がひとりと、いやらしく目を光らせた細身のこちらも中年の男がひとり、残るひとりは普通に見えるが、この展開にこの状況で平然と立っているのだから、絶対に異常性癖の持ち主だ。ほかのふたりよりは随分若く、知的なオーラがあるけど、その分趣味が悪くて盛っているのかもしれない。こいつはきっちりとドアを閉め、鍵をかけた。
三人? 一気に三人の相手をしろってこと? そんなの無理だ。どうしよう。なんとかしないと。男たちが一歩踏み込んでくる度、俺は一歩さがってしまう。これじゃダメだ。部屋から出ないといけないのに。部屋から出る? 出てそれからどうする? 人に助けを求めても、まず俺が違法のことをしていたわけで――俺が違法? どうして? だって俺は、生活を守るために、こうするしかなかっただけだ。花菜を守りたかっただけだ。
「話に聞いてた通り、締まってる割りに肉付きがいいですね。背もちょうどいいし、顔も申し分ないし、元気よく声出してくれそうで」
「体温はどうかな? 熱ければ熱いほどいいんだけど」
「縛っちゃってもいいんでしょう? 好きに使っていいって聞いてるし」
背中から全身が冷える。脳天から爪先まで、一気に冷える。なんでこんなことになってしまうのか、俺には全然わからない。後ずさりしていくうちに、後ろから肩を掴まれた。振り向くと、さっき相手をしたばかりの男だった。服も着ていないくせに、穏やかに微笑んでいる。三人じゃなくて、四人だったということだ。最初から仕組まれていた。みんなグルで、俺だけが騙されていた。
「キミ、結構上手かったよね。僕の友達にもやってあげてよ」
輪姦だ。俺、輪姦されるんだ。空っぽの脳に、その事実だけが君臨する。なんでこんなことになってしまったのか、俺には、全然わからない。
こんな世界は滅べばいい。生まれて初めて、心の底から本当に、みんな死んでしまえばいいと思った。




