七瀬 詩仁 10
突き飛ばされてから、数秒間はなにが起こったのかわからなかった。起き上がりはしたけど、すぐには立ち上がれなかった。有塚の外見からは想像できない強い力で押されたこともあるし、やり返されるとも思ってなかった。脳裏に突然、公園のごみ箱に乱雑に押し込まれたケーキの箱がフラッシュバックした。あれだけの力で殴られれば、人間、簡単に出血する。
はっとして、階段を上がっていった有塚を追いかけた。部屋番号なんて聞いて、まさか乗り込むつもりなのだろうか。受付の人が黒川が来たのは十五分ほど前だと言っていたから、まだコトには至っていないかもしれない。だけど、乗り込むのだけはやめたほうがいい。下手をすれば事件になるかもしれない。なんでもっと早く走り出さないんだ、俺。自分を殴りたくなりながら、とっくに階段を上り終えた有塚を、俺は懸命に追いかけた。
ニ階の一番奥の部屋の前で、有塚は座り込んでいた。俯きがちに視線を伏せ、頭をぴったりとドアにくっつけている。有塚は、じっと部屋の向こうに耳を傾けていた。
なにを聞いているんだろう、と考えかけてすぐやめた。考えるまでもないことだ。どうしたらいいのかわからなくなった。聞こえるのだろうか。俺も有塚に向かい合う形で座り込んで、同じ姿勢を取った。なにも聞こえなかった。
「なんにも聞こえない」
「聞こえる」
聞こえないから聞こえないと言ったのに、有塚は、即刻逆の返事をした。俺はもう一度耳を澄ませた。ドアの向こうで人の気配はする。なんの音もしなかった。
「俺には聞こえるんだよ」
俺が口を開く前に、有塚は苛立った語調でそう言った。俺は、なにを言っていいのかわからなかった。
「帰ろう」
やっとの思いで、それだけ言った。有塚は指先ひとつ動かさなかった。再度、俺は声をかけてみた。
「もう帰ろうよ。ここにいたって仕方ないだろ」
ドアにもたれかかった姿勢のまま、一向に動こうとしない有塚の腕を引っ張った。伝わってくる力はなかった。虚脱、という単語が頭に浮かんだ。見てられない。有塚から視線を逸らしかけたそのとき、ドアの向こうで、ベッドが軋む音が聞こえた気がした。本当に音が鳴ったのかはわからなかった。たとえ錯覚だとしても、それだけで十分だった。
有塚の腕を両手で引っ張り、力ずくで立ち上がらせた。抵抗しない有塚を引っ張るのは簡単だった。とにかく外に出たかった。聞いた音が現実か勘違いかはわからないのに、認識されてしまったその音は、もう完全に俺の鼓膜に張り付いてしまっていた。
ロビーに戻ったところで、有塚は俺の手を軽く振り解いた。受付の女性と従業員たちに頭を下げ、小さく謝罪を口にした後、有塚はさっさと外に出て行った。俺は慌ててその背中を追いかけた。
年末で賑わう街中を、俺は有塚の隣に並んで無言で歩く。街のそこここでバカみたいにテンションを上げている連中に、空気を読めと怒鳴り散らしたくなった。
「あのさ」
俺と有塚の周囲だけ、異様に空気が重苦しい。それはそうだとわかってはいても、さすがに耐えられなかった。その上で今これを聞いたら、もっと重圧的な空気になってしまうかもしれない。そう思ったけれど、自然と訊ける機会は、今を逃したら二度と訪れないように思った。沈黙を破り、俺は、できるだけ妙な雰囲気にならないよう心掛けて声のトーンを調節した。
「黒川さんのこと、好きなんだよな。どうして藤のことが好きだなんて言って、毎日中等部に来てたわけ」
「智生はみんなの『ヒーロー』だから」
意外なほどあっけなく、有塚は返事を寄越してきた。もうどうでもいいんだけど、と言っているようなオーラだった。ただ、有塚が示した理由は、まだ理由になっていない。それもわかっているといわんばかりの目で俺を見て、有塚は言葉を続ける。
「チンピラってさ、性根が腐ってるから、大人しそうな年下の子にせびることが多いんだよ。だから、智生が助けるのは必然的に中学生以下の子が多くなってた。中には智生と同い年や、ちょっと年上の人もいたかもしれないけど、基本的には年下が多かったから」
「黒川さんの噂を把握するのには、中学生だらけの環境に紛れ込んで、それとなく情報収集していくのがベストだったってこと? なんでそんなことしてたんだよ」
「好きな人のことを知りたいと思うのは、当然のことだろ。藤君のことは利用しちゃったけど」
言われてから、野暮なことを訊いたと反省した。有塚に怒った様子はなかった。
有塚は、たまたま目に留まった藤で、自分の行動範囲を広げる理由付けをしていただけだったのか。別に藤ではなくてよかったし、今まで藤に対してのたまってきたこともすべて大嘘だった。単純に、自分が恋する相手の黒川のことを知ろうとしていただけだったのだ。加えて、有塚は唯一黒川と直接関わりのある人間だった。理屈のきかないチンピラどもから守ってくれるヒーローの黒川は、まさにみんなの人気者であり、憧れの的だった。自分も黒川と縁を持ちたいと願うあまり、有塚に近寄る人間もたくさんいた。みんなが勝手に話してくれるのだから、有塚にとって、中等部は黒川のことを知る絶好の場所だった。
そこまで考えて、急に胸が詰まるような思いになってきた。悪い言い方をすれば、有塚は藤を利用したことになる。でも、それが直接藤にとって害になっているのかと問われれば、答えはノーだ。人が人を好きになること自体、全然おかしなことではない。好きな人のことを知ろうとしただけ、ただそれだけの有塚の行為は至極正常だ。有塚も黒川も同じ男で、そこはちょっと戸惑ってしまう部分もあるけど、そんなことは有塚自身が一番わかっていると思う。
「ついでに、もうひとつ訊きたいんだけど」
「うん」
俯いて歩く有塚の声は、信じられないほど暗かった。耳を塞ぎたくなってしまった。もし、俺の恋する相手が、お金と引き替えに誰かと言えないことをしていたら。恋したことのない俺が想像しても、滅茶苦茶辛かった。
「有塚さんって、血が出るほど人を殴ったりする?」
「殺してるわけじゃないよ。たかだかガキのケンカじゃん」
寸分の間も挟まず、有塚はあっさり答えた。あまりにもあっけない返答だったので、俺の喉はちょっと詰まった。有塚は、まったく否定しなかった。血が出るほど殴るって、それはケンカの域を超えて傷害だ。イブの日、赤い液体が飛び散ったケーキの箱を隠すような真似をしてしまったけど、あれは正しい行為だったのか。
俺、有塚をどうしたいんだ。ふとわからなくなって、頭の中が一瞬、真っ白になった。直後、思いつくことがあった。有塚の前に出て、俺は早口で言う。
「あの人、ずっとバイトして生計立ててたんだろ? いきなりああいうことし始めたってことは、なにか理由があるのかも」
「理由ってなに」
「だから、どうしても急にお金が必要になったんだよ。生活費を削れないから、やむを得ずってこともあるかもしれないし」
「だったら俺は、尚更気に入らない」
さっきは突き飛ばしてごめんね、今日は付き合ってくれてありがとう。有塚は抑揚のない口調でそう言うと、俺の横を通り抜けた。それ以上、有塚を追うことに抵抗を感じた。足を止めて、夜の街並みをひとりで歩き去っていく有塚を背中を目で追いかける。
有塚は、本当に黒川のことが好きなんだ。紛うことない真実に、俺は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。




