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有塚 樹 1

 手首にコンビニのナイロン袋を提げたまま、携帯電話の液晶画面で時刻を確認した。午後七時半ジャスト。智生がバイトしている喫茶店『ネコシロ』の裏口前で、首に巻いたマフラーに軽く顔を埋めつつ、悴む指でボタンを弄る。手袋はなんとなく好きではないからしていない。今日は七時に上がると言っていた。とは言っても時間ぴったりには終われないし、着替えやらシフトの確認やらしているとどうしてもロスタイムが出るそうだ。それって残業代出るの、と訊いてみると智生は笑い飛ばした。「そんなの出るわけないだろ」。不公平じゃないかと俺が言うと、智生はまた笑った。「本当に箱入りお坊ちゃんだな。お前もバイトしてみろよ、いい社会勉強になるぞ」。厭味ではない智生のニュアンスを感じ取り、俺も安心して笑った。

 使用人兼専属の運転手でもある木村は、先に屋敷に帰らせた。学校帰りに『ネコシロ』に連れて行って欲しいことを告げれば、俺がなにも言わなくても木村は先に帰ってくれる。俺はひとりで徒歩で帰ることになる。最初にそれをしたときは、もちろん両親に怒られた。手厳しい父さんには頬まで張られ、夕飯を抜かれ、自室に数日閉じ込められることにまでなった。木村も相当怒られたと思うけど、夕飯をもらえなかったあの夜、深夜にこっそり塩の効いたおにぎりを持ってきてくれたのは木村だった。

 幾度か似たようなことを繰り返して、さすがに今ではもうなにも言われなくなった。それは俺がも十八歳になったからだとか、親に信用されているからだとか、そんなことを考えるほどに俺は純粋ではないけれど。

「あれ、樹。来てたのか」

 液晶に落とした視線を上げて振り向いた。手袋もマフラーもなく、薄いコートを羽織っただけの智生が驚いた顔をしている。俺は軽く手を振った。

「お疲れ。今日は一時間休憩あったんだろ」

「そうじゃなかったら、お前からの電話取ってる余裕なんかねーよ」

 智生の軽口を受け流し、持っていたナイロン袋を渡した。智生はそれを受け取り、中身を確認した。智生の顔が綻んだ。それもそのはずだ。ナイロン袋には、コンビニで今日発売されたばかりのチーズ味のキャラメルが一箱と普通のキャラメルが一箱、炭酸ジュースのペットボトルがニ本入っている。

「いいのか、これ。いつも悪いな」

「別にいいよ、それくらい。花菜ちゃんは炭酸飲めたよね」

「好きなくらいだな。サンキュ、樹」

 チーズキャラメルが新製品であることは、智生は既に知っていた。メーカーによっては疾うに売り出されている味なのでまったくの新しい味覚、とまではいかないけど、智生曰くどれも微妙に違うそうだ。だから、知っている味でもメーカーが新製品と言えば気になるのだとか。俺にはよくわからない。

 智生の肩より少し高めの肩を並べ、俺は智生に歩幅を合わせた。

「学校終わってからずっと待ってたのか? ストーカーだな」

「今日は火曜日だから補習で長引いた。年が明けたら受験だから」

「辻ノ瀬学園、大学まで付属してるんじゃなかったっけ」

 付属はしてるけど一応試験があるんだよ、と俺が答えると、智生は関心なさげに語尾を伸ばした。「めんどくさいんだな、お前も」。ばっさり切り捨てられた感覚を不快とは思わなかった。俺は「めんどくさいね」と返した。

「でもすごいな。樹は四月から大学生ってわけだ。時間を感じる」

「あまりにも結果が悪かったら、いくら付属してたって大学生にはなれないけど」

「そうなったら親もご立腹だろうなー。『有塚グループ』の御曹司様が高校四年生なんて笑えねーや」

 笑えねーや、と言った割りに智生は楽しそうな声を飛ばした。高校四年生の自分を想像してしまい、俺は苦笑した。智生は高校に行っていない。中学校にもほとんど通っていなかった。正直な話、小学生レベルの勉強ができるかどうかも怪しいと思う。

 十二月を半分過ぎた街並みは、クリスマスムード一色だ。あちこちで輝くクリスマスツリーやイルミネーション、デコレーションされた店の壁や看板が目に留まる。客寄せのサンタクロースもいる。道行く人々は老若男女問わず分厚いコートに身を包み、冬のファッションを楽しんでいる。――智生の羽織る、薄く擦れたコートが目に痛い。

 智生の顔から笑みが消えた。俺の思考が透視されたのかと、あり得ない妄想が頭を擡げた。智生の口から出てきた言葉は、俺の脳内とはまったく無関係なことだった。

「樹はさ、いずれ会社を継ぐだろ」

 それはわかりきっていることだ。俺は、とりあえず話を進めるために頷いた。本当のところ、俺は別に『有塚グループ』を継承したいなんて毛ほども思っていないことは、今言わなくてもいいことだった。

「俺と樹、住む世界が違いすぎてるよな。いちばん最初から違いすぎてたとは思うけど、樹が春から大学生になって、勉強を重ねて、社会人になってくことを考えるとさ。樹はもう俺なんかと関わらないほうがいいんじゃないかって考えることがある」

「智生は俺と関わりたくない?」

「お前のとこの人、俺のことはよく思ってないだろ。木村さんだっけ、あの人は俺にだって優しくしてくれるけど、樹のことを考えるなら、俺みたいな庶民以下の生活してる奴と関わって欲しくないと思って」

「智生は俺と関わりたくないの?」

 言葉を遮って問い詰めた。ほんの少しの間を置いて、智生は「別に」と呟いた。どういう意味の「別に」なのかわからなかった。「別に関わりたいとは思っていない」の「別に」なのか「別に関わりたくないわけではない」の「別に」なのか。俺は智生に不必要な存在なのではないだろうか。ときどき俺はそう考える。だから不安で問い質したくなる。智生の吐き出す「別に」の意味を。俯いて黙々と歩く智生の腕を掴み、俺のことをどう思っているのかをずはり訊ねたかった。俺にだって引け目はある。俺の責任ではないけれど、引け目があるのだ。俺が大金持ちの子息であることと、これからも順調に与えられたレールの上を歩んでいくであろうこと、それから、まだもうひとつ。

 高ぶった感情を押し込めた。話題を変えることにする。無言で足を進める智生に対し、俺は明るく繕った声を投げかけた。この声は人によく綺麗だと褒められる。俺の少しだけ自慢の声だ。

「花菜ちゃんは変わりない?」

 問うと智生は顔を上げた。少し考えた後、智生は安心したように頷いた。

「花菜はずっと元気だ。今度十四歳になるんだ。プレゼントはなにがいいか、ケーキはどんなのがいいか、ずっと考えてる」

「さすが。いいお兄ちゃんじゃん」

「花菜は俺の全部だから」

 言葉が耳を貫通した。全身を貫いた。そんな表現がぴったりだった。俺の足は勝手に静止、智生だけがなにか話しながら先に行く。花菜は俺の全部。智生の言葉が、頭から爪先までの肌の内側で銅鑼の如く鳴り響く。胸に当てた左手を下ろし、浅く呼吸を整えた。俺が隣にいないことに気付いた智生は振り返った。振り返りきるまでの一瞬で俺は繕った。適当に嘯き、再び智生と並んで歩いた。智生は妹の話を続けている。智生にとってたったひとりの家族、大切な妹の話を俺に聞かせてくれる。俺は笑って相槌を打つ。耐えがたく、強く拳を握り締めた。

 この話題もダメだ。智生の声で埋まる脳内の隙間を縫って、次のセンテンスを必死に探す。なにもない。出てこない。いくら勉強ができても英語が話せても、告白してきた女の子を振る優しい言葉を思いついても、肝心なときになにも浮かばない。智生が花菜ちゃんのことを話す。脳内で廻る。そうだ、キャラメルだ。智生が中等部の男の子にキャラメルを渡した経緯を訊こう。出会っていきなり一箱まるごと渡したなんてことはないだろうから、それを持ち出せば話題になる。花菜ちゃんは出てこない。

 口を開いたそのときだった。重圧の効いた低音で、どこからか誰を呼び止める声がした。人目を忍んだ路地裏からだ。嫌な予感がした。名前を言ってはいないから、聞こえないふりをすればいい。俺はそう思うのに、智生が足を止めてしまった。俺には聞き覚えのない声だけど、智生には聞き覚えがある。だからそんなリアクションを取る。無視しようという意味合いで智生の肩を掴んだけれど、片手で払いのけられた。智生は無言で路地裏へと向かった。売られたケンカは買うのが智生の基本コンセプトだ。まったく無関係な誰かに売りつけられたケンカだとしても、現場に居合わせ、そして売っている側の数が売りつけられている側の数より多いという条件を満たしていれば、智生は前へ出る。智生が『灰色ヒーロー』などと呼ばれてこの区域で有名になっているのは、そういう由縁だった。

「昨日は世話になったな。ヒーローなんて呼ばれてさぞ気分がいいだろうな」

「ちょっとだけ顔貸してくれよ」

 路地裏にいるのは五人だった。そのうちの二人が典型的な台詞を吐く。こいつら、ドラマか漫画に感化されすぎ。俺がうんざりする傍ら、残りの三人が意地悪そうにせせら笑った。俺は智生を呼び止めた。年の頃は同じくらいだけど、いくら智生でも相手が五人は分が悪い。せいぜい、昨日智生とケンカで負けた二人が、三人の仲間を引き連れて報復を目論んだというところだ。二人がかりで勝てなかったから五人で囲おうというその発想、チンピラというのはとことんせこい。

「顔でもなんでも貸してやるけど、さっさと返せよ。俺はお前らみたいに暇じゃないの。これから帰って晩飯の仕度しなきゃなんねーんだから」

「智生、関わんないほうがいいよ」

「もう昨日関わった。こいつら、弱そうな中学生ひとり相手に二人で金せびってたんだよ。そうだ、助けようとして飛び込んでたあの中学生って辻ノ瀬の生徒だったんだな。あの勇気はなかなかのもんだよな、だからキャラメルあげたんだよ、俺」

 ああ、そう。聞きたかったことが全部聞けた。また次の話題を流さなくちゃいけなくなった。俺は苦笑いするしかない。

「カツアゲなんて今どき古いチンピラやってやがると思ったら、仲間を呼ぶなんて本当に時代がかった奴らだな。ケンカじゃなくて昭和のドラマごっこでもやってるほうがいいんじゃないの」

 智生が挑発した。持っていた荷物を後ろ手で渡してくる。仕方ないので、俺は黙って受け取った。チンピラたちは頭まで残念を絵に描いた構造をしているのか、簡単に沸騰して攻めかかってくる。五人相手だ。正直きついだろと背中に目で問いかけると、智生は頷かなかった。拳を振り上げるチンピラの懐に入り込み、胸ぐらを掴み上げて強烈な頭突きをかます。四方で繰り出される攻撃を避けつつ、チンピラたちを蹴ったり殴ったりはしているけれど急所をはずして力加減していることがまるわかりだ。垣間見る智生の横顔は涼しく、多勢を相手取っている緊迫感は欠片もなかった。いつの間にやらケンカの腕に磨きをかけたようだ。

 灰色ヒーロー、黒川智生。黒や白ではなく灰色なのは、少数派の味方をするからだ。例えば万引き犯がそこにいて、その場にいる全員が万引き犯を責め立てても、智生だけは責め立てられている万引き犯を擁護する。万引きという行為は庇わないけど、とにもかくにも智生は頑なに少数派の人間だった。灰色ヒーローの灰色は、絶対正義の白とは違い、反対の黒とももちろん違う、そんな微妙な智生の立ち位置を象徴する灰色だった。

 チンピラたちが片付き、路地裏を出ると、いつの間にかそこにはギャラリーが集まっていた。智生の二つ名は近場の学校のみでは飽き足らず、町中に広まっている。『灰色ヒーロー』。智生がその称号を気に入っているのどうかは、実は知らない。

 なにも起こっていないかのような顔をして、歩き始める智生を追いかけた。チンピラに絡まれる前と同じに智生の隣を独占し、今日も自分に嘘を吐いたことを後悔した。



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