七瀬 詩仁 9
「お昼食べた?」
「まだ食べてない」
「なにが食べたい?」
一連の会話を経て、今現在、俺はひとりでマクドナルドの窓際の一席に座っている。有塚はカウンターに注文に行った。お昼どきだから空いている場所はすぐにキープしておかなくちゃ、という有塚の持論により、俺だけがこうして席に着いているわけだが。なんだか、ものすごく子ども扱いされているような気がする。まあ、実際有塚は俺より三歳年上なんだし、奢ってくれるというのなら素直に甘えておくのも不自然ではないかもしれない。でも、有塚に飲食代を払わせるのはこれで二度目だ。いくら有塚が信じられないような大金持ちとは言え、さすがに気を遣ってしまう。気を遣ってしまったから、適当に思いついた食べたいものを振り払って、比較的料金が安く済むマクドナルドを指定してしまったのだが。
「お待たせ。チーズバーガーセットのコーラでよかったんだよね」
「あ、うん。ありがとう」
「どういたしまして」
律儀に返事をしてくれながら、有塚はお盆をテーブルの上に置いた。そのお盆に載った品々に、俺は妙な違和感を覚えた。ジュースとストローはニセットあるから、ぱっと見ただけでは気付かなかった。有塚が持ってきたお盆には、ジュースとストローを除いて一人分のメニューしか用意されていなかった。なんで俺の分しかないんだろう。有塚を見ると、ちょうど椅子に座ったところだった。俺の視線に気付いたのか、有塚は「ああ」と口を開いた。
「あんまりお腹空いてないだけ。俺はコーヒー飲むから、気にせず食べて」
「本当に?」
「あはは、どうしたの。今日の七瀬君、やけに俺を疑うじゃん」
真顔で言われるならまだしも、笑って軽く言われるとどう反応したものかわからない。有塚が感じていることは間違いではない。少し戸惑った末に、俺は「別に」とだけ答えた。
チーズバーガーに手をつけた。久しぶりの味だ。コーラとポテトにも順番に手を出しながら、ちらちらと俺は有塚を観察した。有塚は、ぼんやりと窓の外に視線を投げている。コーヒーの横のミルクと砂糖は手付かずで、カップにストローを挿し込んでもいなかった。俺はもう半分メニューを平らげたというのに、有塚には、ナイロンに密封されたままのストローを開封しようとする気配すらもなかった。
「飲まないの」
声をかけると、有塚は、はっとしたようにこちらを向いた。お盆の上に載ったままだったカップを、有塚は慌てたように胸元に引き寄せた。表情は、やっぱり柔和な笑顔だった。
「飲むよ。七瀬君はもういらない? 追加注文してもいいけど」
「これだけでいいよ。ありがとう」
「お礼なんて別にいいよ。俺の金じゃなくて親の金だし」
「有塚さん、昼休みはいつもうちのクラスに来てたけどさ。昼飯ちゃんと食べてた?」
深い意味合いがあったのではなく、ふと思いついて、口にしたことだった。有塚は、ナイロンを破いてカップの蓋にストローを挿していた。ミルクと砂糖には触れていなかった。ブラック派だ。そのままストローに口をつけるのかと思ったら、有塚はそうしなかった。ストローの口に指を置いているだけで、一向に飲むという行為に進まなかった。有塚は目線を下げたまま動かなかった。
有塚が中等部三年四組に顔を出していたのは、クラスの給食の後片付けが終わってからだった。高等部は昼食持参だから、中等部が給食を終えるまでに自分のお昼を済ませることは可能だと思う。だから有塚も当然そうなのだと思っていたが、よくよく考えてみたら、有塚は、たまに購買で仕入れたパンを持っていた。あそこは教員や大学部の連中も利用できるから、昼休みに入ったらすぐ買いに走るくらいでないと買いそびれると聞いたことがある。毎日即行で完売するほど美味しいパンを売っているなんて、俺も早く高等部に進級して購買を利用してみたい、と、そのときちょっとだけ憧れた。いや、それは別にどうでもよかった。ともかく、そんな購買でゲットするパンなのだから、結構並ばないといけないはずだ。それなのに、有塚はいつもの笑顔でいつもの時間に、パンを片手に中等部までやって来ていた。
食べてなかっただろ、絶対。確信を持って目で問いかけると、有塚は、呼吸を整えるように息を吐き出した。ああ、もう。なんでなんだろうね。有塚はそうぼやき、下げていた視線を上に戻した。眉を下げて、呆れたような困ったような、複雑な表情で有塚は笑った。
「すごいね、今日の七瀬君。名探偵みたい。確かに俺、昼ご飯ずっと食べてなかった」
やっぱり。予想が当たって、俺は少し嬉しくなった。有塚は昼食を摂らない主義の人間なのだろうか。訊ねてみると、有塚はなにも言わなかった。再度有塚は下を向く。
「朝も食べないんだ。酷いときは夜も食べない。昨日は夜も食べなかった。今日も起きてから水飲んだだけで、あとはなんにも」
まったく予想していなかった返答だった。ジュースを飲もうとしていた手を止めて、俺は呆然と有塚を見つめてしまった。なにを言っているんだろう、この人。わからないでいると、有塚は顔を上げた。昨日からほとんど飲まず食わずには見えないくらい、有塚はにこやかだった。
「俺さ、食べるのも飲むのも嫌いなんだよ。米もパンも野菜も肉も魚も味噌汁もラーメンも、ケーキもキャラメルもチョコもなにもかも、ジュースもそう。小さい頃から、全部嫌い。だから食べるのも嫌い。でも、人間って飲まず食わずだと死んじゃうだろ。お腹は空くんだよ。だから嫌でも食べるし飲むし、そしたら死なないから、俺を死なせてくれない飲み食いって行為が大嫌い」
「……え?」
衝撃的過ぎた。そんな告白、今まで十五年間生きてきて、一度として聞いたことがなかった。いや、聞いたことのある人間のほうがレアだ。飲み食いって生物の本能じゃなかったっけ。食欲は、脳の深い部分に根差しているとどこかで聞いた。その行為を嫌いだなんて、そんなことあり得るのか。というか、俺を死なせてくれない飲み食いが大嫌い、って。それってつまり、有塚は死にたいということか。
「俺、そういうタイプの人間なんだよ。食べるのも飲むのも昔から嫌だったけど、その頃から致死概念があったわけじゃない。自然とそんなふうに考えるようになってた。特別死にたいって思ってるわけでもないけど、でもほら、夢を持ったまま死ねたら幸せじゃん」
「夢?」
「死んじゃってるから、あとのことなんて知ったこっちゃないし。とは言っても俺は今生きてるから、結局生きられる限りは生きて死ぬんだろうけど。自殺願望があるのかって言われるとノーだしね。なんなのかな、俺」
なんなのかな、と言われても。苦笑いさえ返すことができず、俺は完全に硬直していた。有塚の言うことは、あまりにも俺の想像できる範囲を逸脱していた。夢を持って死ねたら幸せだとか、死んだらあとのことは知らないとか、意味深な発言もある。薬物異常摂取の常習犯。今の有塚なら、そのレッテルが貼られても不自然ではない気がした。有塚は間違いなく、心のどこかで不気味に蠢く病を飼っている。
「そんな深刻な顔してないでさ、俺にもちょっと質問させてよ。七瀬君は、智生となにを話したかったの?」
「え」
「自意識過剰っぽいんだけど、ひとつだけ釘刺していいかな。イブの日、俺がヤク中っぽいことしてたのは、智生には言わないでね」
「……」
まさに俺が黒川に言いたかったことだ。有塚は、人の頭の中が読めるのだろうか。
でも、わざわざそう持ちかけてくるということは、有塚はあの行為に後ろめたいものを感じているということだ。ちょっとだけ詰めてみようか。首を傾げて、俺は有塚の意図を質した。有塚は、当たり前だと言わんばかりに片手を振った。
「だって、友達がそんなのだったら嫌だろ。クスリやってる人間なんて、俺だったら絶対関わりたくない。まして信頼してる友達がそんな状態だったら、相当ショックだもん。見たくないよ」
「クスリやってる自覚があるわけ」
「市販の頭痛薬。わかってたんじゃないの。藤君と三橋君もわかってるのかな」
「普段は笑ってばっかなのに、今日はいっぱい喋るね」
突いてやると、有塚は口を噤んだ。ゆっくりと潮が引くように穏やかな表情が引っ込み、感情を欠いた人形のような無表情の有塚がそこにいた。なんなんだ、この人は。思わず俺は、息を飲み下した。
有塚はテーブルに肘をつき、その手で額を支えた。痛いのだろうか。言いかけた俺を制して、有塚は口を開いた。普段の綺麗な声からは想像できない、低く機嫌の悪い声だった。
「そうだね、今日の俺はいっぱい喋る。それだけ苛ついてるってことなのかも」
「なににそんなに苛立ってんだよ」
「もういいや。どうせキミには全部ばれちゃいそうだし。それに正直、ひとりで確かめるのはちょっと怖かった。暗くなったら、また会ってもらえる?」
有塚はそう言って顔を上げた。また笑顔だった。いつもの見慣れたそれではなく、疲弊しきった無理矢理作った笑顔だった。その痛々しい微笑みは、俺の目蓋に妙に色濃く焼き付いた。




