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有塚 樹 5

 アパートの軋む階段を下り、舞う粉雪で濡れた地面に足をつけた。部屋を出て数分と経っていないのに、もう指先は冷え切っている。掌を擦り合わせてどうしようもない冷温を紛らわせつつ、俺は智生の背中を追った。数歩素進んだところで、智生は足を止めた。擦れて薄い智生のコートは、何度見ても痛々しかった。

 誕生日だし、クリスマスだし、やっぱりプレゼントのひとつくらいは渡せばよかった。俺にとって特別な智生の誕生日は、クリスマスイブと重なることで、もっと特別なことになっている。プレゼントを用意することが、俺の感情がばれてしまうこととイコールになるとは思えない。その結論には何度も至った。頭ではわかっていても、実際に踏み出す勇気はないから今年もなにも買えなかった。

 俺にとっての特別は智生。その智生が服を脱いで、ベッドの上で、誰とも知れない汚い男と淫靡に乱れる。とんでもないヴィジョンが脳を埋め尽くした。冷えた拳を握り締めて耐えた。この場で直接問い質したいけれど、そんな勇気もやっぱり俺にはなかった。智生によく似た男の子の逆援現場を目撃してしまっただけ、という期待も、ほんの少しだけ胸の奥に残っている。

 智生と花菜ちゃんの暮らす部屋の窓には、カーテンがかけられていた。灯りが漏れ出している。仕様ということも多少はあるだろうけど、単に生地が薄いのだと思う。テレビもなくパソコンもなく、この寒い冬に暖房さえもほとんど機能しない、そんな無防備な生活地帯でふたりは寄り添って生きている。こんな世界は間違っている。

「あのさ、樹」

 仮にあの男の子が本当に智生だったとする。今こうしてわざわざ俺と部屋を出たということは、こういう可能性もある。生活に困窮してどうしようもないから、最後の手段で身体を売った。一応それでお金は得たけど、もうどうしたらいいかわからない。そういう相談を、智生は俺にしてくれるのかもしれない。智生が臭いオヤジと寝たなんて考えたくもないけれど、打ち明けてくれるのならまだましだ。黙って逆援を続けられて、後から発覚するほうが精神的にきつい。それに、この場ですべて話してくれるなら、俺も一緒に考えることができる。幼馴染の窮地を救いたいと願うのは、普通の感情だ。

 振り返った智生は、少し困ったように頬を緩めていた。秘密を暴露する顔ではなかった。俺の中にあった可能性は、この時点で打ち砕かれた。

 擦れたコートのポケットの中から、智生はなにか取り出した。街灯に照らされたそれは、掌サイズの小さなラッピング袋だった。可愛らしい半透明のピンクの袋に、赤いリボンで絞られた口。その中に収められていたのは、大きな花と小さな花をモチーフにあしらった銀色の髪飾りだった。宝石をイメージしているのか、ところどころに赤い粒が埋め込まれている。上品過ぎず幼稚すぎず、花菜ちゃんくらいの年頃の女の子が好きそうなデザインだった。あまり値の張りそうな品ではなかった。

「なにあげようかずっと悩んでたけど、さっき街でたまたま見かけて一目で決めた。花菜、気に入ってくれるかな」

 一瞬、俺はなにも言えなかった。息の詰まった俺に気付いたふうもなく、智生はラッピング袋を差し出してくる。成す術なく出した俺の掌に、智生はラッピング袋を載せてきた。とても軽かった。とても重かった。地面に叩きつけて、原型を留めないくらいに粉々に踏み潰してやりたかった。花菜ちゃんが智生の妹だとか、智生のただひとりの家族だとか、そんなことは関係なかった。智生と花菜ちゃんは兄妹なのに、だから誕生日プレゼントを用意することなんてなにも不思議なことではないのに、その現実が許せなかった。そう思う自分は最低で、自覚して尚許せなかった。だから自分のことも許せなかった。そんな感情を智生に見せるわけにはいかなかった。

 無理矢理に俺は笑顔を作った。笑顔を作るのは得意だった。

「喜んでくれるよ。智生がくれるものなら、花菜ちゃん、きっとなんだってすごく嬉しいと思う」

「そうかな」

「うん」

 俺の誕生日には、なにもくれなかったのに。花菜ちゃんばっかり。汚い感情が、腹の底から競り上がってくる。ラッピングバッグを握り締めそうになった。必死に堪えた。友達同士で、しかも男同士で、誕生日プレゼントなんてあるわけないじゃないか。人によるとは思うけど、男子高校生なら「おめでとう」と声をかけてもらうのがせいぜいな気がする。それなのに俺は、智生が妹の花菜ちゃんにプレゼントを用意して、俺にはなにもなかったことを妬んでいる。俺も女に生まれればよかった。妹でなくとも俺が女に生まれていれば、堂々と智生に好きだと言えた。プレゼントだって用意できた。毎日毎日、自室に篭って自分の心が男のものであることを確認するために男性誌を広げることだってなかった。動画や文字で、気持ち悪い行為の連続を鑑賞して吐き気を催すことだってきっとなかった。

「そうだよな、喜んでくれるよな。花菜、絵を描くのが好きだからなんか画材道具でもいいなって思ってたんだけど。大丈夫だよな」

「智生が一生懸命働いて、それで得たお金で買ったものだもん。喜んでくれないわけないじゃん」

 正しくは、一生懸命セックスして、だけど。吐き捨てそうになったそれを、辛うじて俺は飲み込んだ。ダメだ。俺、もうダメだ。脳内をネガティブが支配する。あの男の子は智生じゃなかった。正面から顔を見たわけではないから、はっきりと断定はできていないのだ。俺が勝手に智生だと思っただけに過ぎない。言い聞かせてもどうかしそうだった。ポケットの中の薬を飲みたかった。なんのこともない、市販の頭痛薬だ。頭痛はしていない。飲めば、なんとなく気持ちが落ち着く気がする。でもさっき飲んだばかりだ。藤君たちと鉢合わせする前、たくさん水と流し込んだ。だから頭がふわふわしていて、うっかり地面に取りこぼしてしまった。あの失態は、智生の前では絶対に再現できない。

 ポケットの中で手を動かし、錠剤をケースから抜き出した。智生がなにか喋っている。俺には認識できなかった。薬のことで頭がいっぱいだった。一錠だけなら、さっきのようなことにはならない。なにかの拍子に、智生は俺に背を向けた。その間に、俺は錠剤を口に含んで飲み込んだ。水がないから喉に引っかかる。何度も息を呑んで、強引に胃に押し込んだ。智生が再びこちらを向いたとき、俺はまたいつもの笑顔を繕えた。

「寒いな。花菜も待ってるし、戻るか」

「そうだね。見せてくれてありがとう」

 ラッピング袋を渡すと、智生はそれをもとあったポケットに戻した。あの髪飾りを買うために、智生は、一体どんないやらしい姿を曝したのだろう。無意識にそれを考えた。無理矢理意識の外に追い出した。

「花菜に渡す前に、樹には見せておきたかったんだよな。俺のセンスの評価も兼ねて」

「すごくいいと思うよ。でも、買うのちょっとだけ照れたんじゃない?」

「店員さんが男の人だった。彼女へ贈り物かい、青春だねって言われた。そのときはちょっと気恥ずかしかったな。妹ですよって言ったら、優しいねって言われて」

「そういうこと言われるんだ。俺、女の子にプレゼントなんて買ったことないからわかんないけど」

「本当にそうか? 樹、実はこっそり彼女いるのにしらばっくれてるだけなんじゃないのかよ。俺、樹に彼女がいないっていうのが実に疑わしい」

 なにげなく提供される話題が堪える。年代が年代だから、そういうことに触れないほうが正常でないとも言えるのに。心に亀裂が走った気がした。ここで変な反応をして、智生に妙な空気を察知されるわけにはいかなかった。なにがなんでも、俺は智生の親友を演出しなければならなかった。

「本当にいないよ、そんなの。付き合ったことないもん」

「だから、それはなんでなんだって言ってるんだよ。樹、モテるだろ。声も綺麗だし」

「好きになってくれるのは嬉しいけど、付き合うっていうのはお互い好きじゃなきゃダメだろ。振り向いてくれるまで待ちますって言ってくれる子もいるけど、いくら待たれたってそういう目で見れないし。まあ、あっちが勝手に待ってるのは別にいいんだけど」

「最低だな。そうやって女の子に言ってんのかよ。ビンタとかされたことあるんじゃねーの」

「言ってはないけど、ビンタされたことはある」

 答えた直後、智生は声をあげて笑った。俺としては、さして笑える話でもなかった。記憶を遡ると、告白してきた女の子にいつも通りの断りを入れた際、突如かまされたビンタの痛みが頬に蘇ってきた。結構痛かったんだぞ。面白そうにされたことが少し不快で、ちょっとだけ俺は頬を膨らませる。あのビンタは本当に突然だったから、彼女のほうもかなりの特例だったのだとは思うけど、痛いことには違いなかった。

「モテる故の苦悩だな」

「智生だってそうじゃん。女の子に人気が出すぎちゃって大変だから、『ネコシロ』でウェイターやらせてもらってないくせに」

「ウェイター以外の仕事やらせてもらってるんだから、別に苦悩してねーよ。やっぱお前といると楽だな」

 「お前といると楽」。ひび割れた俺の気持ちに、軟膏が浸透したような気がした。意図せず心臓が波打ち始める。もしかして、今なら言っても大丈夫なのだろうか。いくら言い寄られても、決して受け入れなかったことも含めて。言ってしまえばこの関係が壊れる。それはずっとわかっている。でも、自分の素直な気持ちをどうにか伝えたい願望もある。どうせ叶うわけがない恋なのだ。はっきり断られたとして、智生は急激に俺を避けるような真似はしない。完全に今の関係がなくなってしまうわけではない。

 クリスマスイブだ。ちょっとくらい、融通利かないことを言っても罪悪ではない。口を開いた。俺より先に智生が喋った。

「戻ろう。雪、強くなってきたぞ。寒い」

 空を仰ぐと、確かに数分前に比べて粉雪は激しくなっている。言えなかった。俺は頷き、智生に続いてアパートの階段に足をかけた。

 俺は黙々と智生の背中を追っていた。俺の気持ちに気付く様子などあるはずもなく、智生は無邪気に言った。

「ケーキだけど、花菜と話してたってことは割りと前から決めてたんだな。キャラメルのじゃなくて花菜は残念がってたけど、俺は嬉しい。俺のためにふたりで準備してくれたってことがなにより最高だ」

「そんなに喜んでくれるなんて、こっちも嬉しいよ。だからこそ、智生の好きなキャラメルのケーキがよかったんだけど。クリスマスだからなのかな、お店の都合が急に悪くなっちゃったから」

 嘘だけど。本当は、苛々してどうしようもなくて、気持ちのやり場がなくて自分で潰して、鬱陶しくも絡んできたチンピラ数人とちょっとケンカして、無残に型崩れしたケーキなんて渡せないからカムフラージュに適当に新しいのを買って、それを持ってきたんだけど。そんなことを言えるはずもなく、俺はまた嘘を吐いた。俺の言葉は嘘ばかりだ。

「気にすんなよ。俺、イチゴのケーキだって大好きだ。というか、甘いものならなんでも。甘いもの全然ダメなくせに『ネコシロ』に来て、凝縮三倍のコーヒーだけ飲んで帰るお前とは、からっきしの正反対だな」

「あはは。そうだね」

 なんでこうも、なにげなく発した言葉が心に刺さる。鈍く痛む胸を片手で抑えて、耳障りに軋む段差を踏みしめる。正反対。確かにそうだ。俺は甘いものが嫌いで、智生は好きだ。俺に妹はいなくて、智生にはいる。俺にはものすごいお金があって、智生にはない。俺は恋愛対象として智生が好きで、智生は違う。

 脳裏に再度、智生がどこかのオヤジとホテルに入っていく様が映し出された。違う、あの男の子は智生ではないはずだった。決め付けている自我を振り払い、こちらを振り返った智生に笑ってみせた。事実を確認しなければならない。すっかり悴んだ指を丸めながら、俺は密かに決心した。



 

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