黒川 智生 2
バイト代は、銀行振込ではなく手渡しにしてもらっている。口座に入ったところでどうせ下ろせる額すべて下ろさなくてはならないし、手数料の掛からない時間のうちに銀行に行くこともなかなか難しい。上の人には余計な手間だけど、最初に俺が給料の手渡しを希望したとき、店長は嫌な顔をせずに会社の担当の人に話をしてくれた。店長には本当に感謝している。こんな俺でも話をつけて雇ってくれているし――とは言ってもバイトの身だが、身を置かせてもらっているだけでも床に両手をついて感謝したいくらいだ。俺が『ネコシロ』に通い始めたのは、十五歳になってすぐの頃だった。
鞄の奥にしまい込んだ給料袋の位置を指で辿りながら、クリスマスのイルミネーションに彩られた街中を歩く。あと四日でクリスマスイブだ。目前に迫ってきただけに、すれ違う人々が今年最後のパーティーイベントに本気で備えているように思えた。俺はというと、日々の生活に精一杯でクリスマスを満喫する余裕なんて欠片もなかった。だからこそ、一週間後の花菜の誕生日だけは盛り上げてやりたいのだ。盛大にはできないし、できることならクリスマスのイベントもしてやりたいけど、俺の少なすぎる稼ぎではどっちもなんて到底無理だ。クリスマスと誕生日、どちらか決めるなら、当人にとって特別な日である誕生日を俺は選ぶ。
そろそろケーキの予約もしたいし、誕生日プレゼントも選びたい。なにをあげたら花菜は喜んでくれるだろう。憶測で買わず、一緒に街を歩いて本人に選んでもらったほうがいいだろうか。二人で出かけるなら、それだけできっと楽しいはずだ。あれも素敵だしこれも可愛い、なんて言いながらはしゃぐ花菜を連れてのショップ巡り。それはとても幸せなことだ。十二月二十七日、俺は特になにも言っていないのに休みになっていた。あの店長のことだから、軽く話しただけの妹の誕生日を鮮明に覚えていてくれたのだと思う。職探しでは苦労したけど、最終的に『ネコシロ』に落ち着けてよかった。花菜の誕生日にいろいろなお店を渡り歩くような、そんな自分にとって都合のいい妄想ができるようになったのも店長のおかげだ。『ネコシロ』に勤める前の俺は、間違っても幸せな光景なんて思い描くことはできなかった。今の俺は、頭の中だけなら、いくらでも幸せになれる。
街の中心部を抜けて少し逸れると、怪しい通りに入った。頭の悪い名前の店がそこかしこに立ち並び、まだ夜七時を廻ったところだというのに下品な客寄せが声を張り上げている。既に見慣れた光景だった。目的地への道のりは足が勝手に記憶している。俯きがちに走り抜けても、その場所にきっちり辿り着いた。この時間帯、この店がまだ開いていないことが唯一の救いだった。
いつも通り、裏側のドアを軽くノックした。開いてまーす、とふざけた調子の声が返ってきた。さっさと開けて踏み込んだ。踏み込んだ途端に右の横腹にとてつもない衝撃が走った。あまりにも突然だった。俺はまともに受け身を取ることもできず、音をたてて床に倒れ込んだ。薄暗かった部屋は、そこで急に明るくなった。
「ごめんごめん。来るのがいつもより二分遅かったから苛々しちゃって」
「二分くらいって思うかもしれないけど、二分くらいでも遅刻は遅刻だから。社会人になるとガキみたいに大目に見てもらえないの」
優しい口調はわざとしくて気色悪い。拳を握り締めて唾を吐きたくなるのを懸命に堪え、吹っ飛んだ眼鏡を拾い寄せた。レンズは割れていないし、フレームも歪んでいなかった。眼鏡が壊れたら高くつく。近視も遠視も乱視も混合した俺の視力では、矯正なしではとても仕事は無理だ。眼鏡が無事だったことは、素直に安心した。
じっとして脇腹の痛みが遠のくのを待ちたいところだが、動かなければ余計にやられるだけだということはわかっている。立ち上がった瞬間、脇腹の内側から鋏で切り刻まれるような激痛が迸った。口の中がどうにも酸っぱい。無表情を繕うことはできなかった。
趣味の悪いスーツの着た、にやついた男が三人だ。年はたぶん全員二十代半ばくらい。借金に借金を重ねていた母親は、最終的にこいつらの所属する闇会社に行き着いた。借りるだけ借りて、返すことなくどこかの男と蒸発した。返せないから蒸発した、という意味でもあるし、俺を捨てたかった、という意味でもある。蒸発とはそういう意味だ。遠い昔、幼い俺と花菜をアパートの一室に残して、あの女は外出したきり戻って来なかった。
母親が気の遠くなるような借金をしていること。そのことが、俺たちが捨てられた時点でわかってさえいれば。鞄から薄い給料袋を取り出しながら、今更どうしようもないことをまた考えた。なんで俺がこんなことをしなくちゃいけないのか。一ヶ月間一生懸命働いて、やっとの思いで得たお金を、こいつらに差し出さなくてはならないのか。給料袋から万冊を取り出し、もう中身は入っていないという証拠を兼ねて、ただの茶封筒となったそれをびりびりに破いた。男のひとりに全額を渡した。勝ち誇ったような表情で、男がそれを受け取った。こんな世界は狂っている。下唇を噛み、目の前の三人の腸を引きちぎってやりたい願望に焼かれながら、俺は必死に直立を保つ。奴らは、卑しく万冊の数を数えている。なにが『灰色ヒーロー』だ。俺はこんなにも耐えるしかできない存在なのに。周囲が勝手に持てはやすそのふたつ名を、あまりにも的はずれな称号を、俺はひたすら憎いと思う。
でも、大丈夫だ。こいつらに金を渡さなくてはならないことは、最初からわかっていることだ。だからこその多めのシフトだった。今回ばかりは俺の勝ちだ。コートの内のポケットに忍ばせた二枚の一万円札を、ばれないように確認する。いくら金を取られても、これがあれば花菜にプレゼントを買ってやれる。
「お前さ、もっと効率よく稼ぎたいと思わないのか。仕事ならいつでも紹介するぞ」
小さな希望に浸っている間にも、下卑た声が耳につく。どこまでも苛立たしい。「別にいい」。俺はそう答えた。毎度毎度、こいつらは同じ話しかしない。電話までかけてくることもある。拒否したら拒否したで厚かましいことになるが、いちいち出るのもやっぱり厚かましかった。わかっているだけに、面と向かってその話をされると最高に腹が立つ。
「そう言うなよ。うちの店、ちょうど人手が足りてなくてさ。お前、その線のオヤジには相当モテるよ。保証するからさ」
馴れ馴れしく肩に手を回して来たそいつを突き飛ばした。男たちはにやにやと顔を見合わせていた。気色悪い。さっさと帰りたい。奴らに向けて右手を突き出した。すると、男のひとりがわざとらしく首を傾げた。
「その手は?」
「生活費よこせよ。いつももらってるだろ。それと、今月はガス代払いたいから」
もらってるだろ、ってそもそも最初から俺が稼いだ金なのに。おかしな日本語だが、細かいことを気にするのは面倒だ。とにかく早く家に帰りたかった。夕飯の仕度をしなければならないし、花菜を風呂にも入れなきゃならない。加えて、明日は朝一からの出勤になっている。一秒でも早くやることを済ませて布団に入りたかった。
俺の目の前で、十数枚の一万円札がすべて男のポケットの中にしまわれた。え、と俺は思わず声を漏らした。こんなことは今までなかった。少しだけ、本当に少しだけしかないけど、最低限二人で一ヶ月過ごすだけの生活費は返してもらっていた。それがないと言うことは、俺は、来月どうやって暮らせばいいのだろう。花菜はどうなるのだろう。
俺がニ万円抜き取って隠し持っていることを、こいつらは知っている。それしか考えられなかった。どうして知っているのかはわからないけど、とにかくそれを知っているから、金を渡してくれないのだ。愕然とした。
なんだよ、これ。ふざけんなよ。思いっきり下唇を噛んだ。痛かった。悔しかった。悲しかった。寂しかった。なにか言ったか、と男のひとりが言った。なるほど、口に出ていたようだ。それなら、もう一度言ってやる。「ふざけんなよ」。今度は、はっきりと言ってやった。
我慢できなかった。勢いのままに眼前の男を殴り飛ばした。一度手を上げると、もう制御が利かなかった。まっとうな組織ではないが、あの腐った母親がこいつらに金を借りていることは事実だ。俺と花菜がアパートの一室から保護された時点でそれがわかればよかったけど、わからなかったから親戚に預けられ、莫大な借金が発覚し、そして実の息子である俺が返すこととなった。母親と親族の関係は、かなり希薄だった。家系だからという理由だけで、借金を肩代わりしようという人間は、誰ひとりとしていなかった。正当なことだと思う。俺だって、ろくに話したこともない親族の子どもを預かった上に、その親が残した借金を代わりに返そうなんて絶対に思わない。そう想像できるから、だから今まで、腕っぷしで解決しようとはずっと思わなかった。どんなに理不尽でも、一生かかっても、金さえ返せばこいつらと縁が切れるはずだからだ。でもそれは、最低水準でも生活できることが大前提だった。だいたい二万円だけでは一ヶ月生活できない。俺の中のルールは、ここにきて崩された。
二人に雁字搦めにされたのは、頭に血が上りすぎていたからだと思う。つまり隙だらけだった。残ったひとり、俺が殴った奴だ。腹をもろに蹴り上げられ、息が止まった。一気に胃の中身が競りあがってきた。必死にそれを飲み込んだ。飲み込むだけで相当の負荷だった。そしてあっけなく解放された。床に崩れ落ちた俺は、腹を匿うつもりで身体を曲げた。
「お前がその気になったときのために、あの一発で勘弁してやるよ。商売道具の身体が傷だらけじゃ使えないからな。まあお前の場合、そっちのがマニアにはウケるかもしれないけど」
またその話か。聞き飽きたんだよヤクザ野郎が、と言ってやりたいところだが声が出ない。体もほとんど動かない。痛すぎる。
コートのポケットを漁られて、二万円を抜き取られた。声が出ないから手を伸ばした。その手を思い切り踏まれた。また息が止まった。無様なヒーロー。頭の中に、なぜか唐突にそんなワードが浮かび上がった。
「自分の立場をわきまえろよ、灰色ヒーロー。あと、そこ邪魔だから早く帰れ」
声を上げて、男が笑った。あとのふたりも続いて笑った。足音が遠のいていく。仕事にでも向かうのだろうか。
俺も早く帰らなきゃ。痛む腹を押さえながら、俺もなんとか立ち上がろうとした。が、無理だった。もう少しだけ時間が経たないと、とても歩けそうになかった。気の抜けるような声がしたのは、そのときだった。
「あ、あの。だ、大丈夫?」
俺の顔を覗き込むためか、そいつは膝を折り曲げた。心配そうに眉根を寄せているその表情に、嘘らしきものはなにもなかった。さっきの男たちとそう年は違わないように見えるけど、こんな奴、最初からいたっけ。全然気が付かなかった。
「あ、ごめん。僕、相当影が薄くて存在感がないんだ。それで仕事もうまくいかなくて、こんなところに行き着いちゃったわけなんだけど」
「あんたなに」
お前の事情なんてどうでもいい。そう意図して、やっとの思いで吐いた台詞だった。するとそいつは、びくついたように瞳を震わせた。なんなんだ、こいつ。俺には意味がわからなかった。
「ごめん。えと、僕、木村って言うんだ。一応車だけは使えるから、キミさえよければ、家まで送るけど」




