逃げることは最大の恥
純文学ジャンル、久我 文です。
バッドエンドです。
苦手な方は、ご注意ください。
亡くなった父はいつも言っていた。
「逃げることは最大の恥だ」と。
俺の先祖は、代々領主に仕える武士だった。そのせいか、父は何かにつけて武士道を説いた。
そして俺は、その教えを守ってきた。
どんな困難が訪れようとも、決して逃げず、真正面から立ち向かう――それが道を拓くと信じて。
◇
小学校の頃、いじめられて、泣きながら帰ってきた俺に、父は言った。
「逃げるな。立ち向かえ」と。
翌日、俺は震える足で教室に向かう。
怖くて仕方がない。でも、逃げなかった。
俺は、いじめたやつらに仕返しをした。
気づけば、教室の空気は変わっていた。
俺を笑っていた連中は黙り込み、クラスメイトたちの視線が変わる。
その日から、俺はクラスのヒーローになった。
中学に進むと、俺は野球部に所属する。
ポジションはピッチャー。
その試合は、すでに最終回。
ツーアウト、ランナー二塁。
相手は四番打者。
ベンチから、監督のサインが出る。
――敬遠。
だが、俺は首を振った。
ここで勝負を避けるのは、逃げることと同じだからだ。
キャッチャーが戸惑う中、俺は投球モーションに入る。
そして――三振。
渾身のストレートに、バットが空を切った。
歓声が上がる。
その勢いで、チームは優勝した。
高校三年の春、担任は言った。
「お前には無理だ。志望校を下げろ」と。
だが、俺は変えなかった。
無理だと言われたからこそ、逃げたくなかった。
結果は、合格。
E判定からの逆転合格だった。
合格発表の日、自分の番号を見つけた瞬間、胸の奥で、父の教えが確かなものへと変わっていた。
俺は信じ続けていた。
父の教えに従えば、間違いはない。
逃げずに立ち向かえば、必ず道は拓けるのだと――。
◇
大学を卒業し、俺は就職した。
いわゆる、優良企業――のはずだった。だが現実は違った。
終わらない残業。
鳴りやまない電話。
理不尽な叱責。
「なんでこんなこともできないんだ!」
「使えねえな、お前」
上司の声が、頭の中にこびりついて離れない。
「逃げるな。立ち向かえ」
父の言葉が、何度も繰り返される。
だから俺は、辞めなかった。
どれだけ体が重くても。
朝、吐き気がしても。
眠れない夜が続いても。
逃げるわけにはいかなかった。
父の教えは、正しいから。
ある日。
帰り道の記憶がないまま、気がつくと俺は、橋の上に立っていた。
黒い川が、ゆっくりと流れている。
一歩、踏み出せば終わる。
(これで楽になれる……)
そう思った。
けれど――
「逃げることは最大の恥だ」
父の声が、聞こえた気がした。
(……そうだ。これは、逃げだ)
俺は、手すりから手を離す。
足が震えている。
やっとの思いで、引き返す。
俺は、逃げなかった。
翌日。
いつも通り、会社に向かう。
席に着いた瞬間、上司が机を叩いた。
「おい、お前! 昨日の資料、なんだあれは!」
頭が真っ白になる。
「やる気あんのか!? 何度言えばわかるんだよ!」
言葉が突き刺さる。
「逃げるな。立ち向かえ」
父の声が聞こえる。
頭の中で反響する声に、歪みが生まれる。
(……違う。これは――逃げるべきなんじゃないのか?)
そんな考えが、初めてよぎる。
けれど同時に、父の声がそれを押し潰す。
逃げるな。
逃げるな。
逃げるな。
視界が、ぐにゃりと歪む。
気づけば、俺の手はスーツのポケットに伸びていた。
指先に、冷たい金属の感触が触れる。
俺は、カッターナイフを強く握りしめた。
◇
(ここは、どこだ……? ああ、そうか……取り調べ室か……。俺は捕まったんだ……)
刑事が口を開く。
「ついさっき……あんたの上司が亡くなったよ……」
「……そうですか……」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。
「……何でだ。何で、あんなことをした?」
俺は、しばらく何も言えなかった。
やがて、絞り出すように口を開く。
「逃げたく……なかったからです……」
「……」
「逃げることは……最大の恥だから……」
刑事は、小さく息を吐いた。
「……そうか」
少しの間を置いて、静かに続ける。
「でもな……逃げることで、幸せになれた可能性もあったんじゃないか?」
「逃げる……?」
喉に渇きを感じる。
「俺に……俺に……自殺すれば良かったって言うんですか……!?」
思わず声が荒くなる。
「……違う」
刑事は首を振った。
「そういう逃げ方じゃない」
「……」
「会社を辞めるとか、部署異動を願い出るとか……そういうことだ。人生そのものから逃げるって話じゃない」
言葉が、ゆっくりと胸に沈んでいく。
「……」
刑事は、少しだけ視線を落とす。
「あんたが逃げていれば……不幸にならずに済んだ人がいる。……あんた自身も、被害者も、そして……被害者の家族も……」
「家族……」
「ああ」
刑事は、静かに告げた。
「今年、小学生だそうだ……被害者の娘さん……」
「……」
「……あんたは、上司の未来も……その家族の未来も、奪っちまったんだ」
その瞬間──
何かが、崩れた。
「う……」
喉が詰まる。
「う、あ……」
息がうまく吸えない。
「う……う……っ……」
気づけば、声にならない嗚咽が漏れていた。
プライドや世間体もあるかもしれません。
「戦い続けること」が正しい場合もあります。
それでも、辛いときは、「逃げること」「休むこと」が必要だと思います。
何よりも、ご自身を大切にして欲しいと願っています。
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