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純文学/歴史/アクション

逃げることは最大の恥

作者: 久我 文
掲載日:2026/04/17

純文学ジャンル、久我くが ふみです。


バッドエンドです。

苦手な方は、ご注意ください。

 亡くなった父はいつも言っていた。


「逃げることは最大の恥だ」と。


 俺の先祖は、代々領主に仕える武士だった。そのせいか、父は何かにつけて武士道を説いた。


 そして俺は、その教えを守ってきた。


 どんな困難が訪れようとも、決して逃げず、真正面から立ち向かう──それが道を拓くと信じて。



 小学校の頃、いじめられて、泣きながら帰ってきた俺に、父は言った。


「逃げるな。立ち向かえ」と。


 翌日、俺は震える足で教室に向かう。

 怖くて仕方がない。でも、逃げなかった。


 俺は、いじめたやつらに仕返しをした。


 気づけば、教室の空気は変わっていた。

 俺を笑っていた連中は黙り込み、クラスメイトたちの視線が変わる。


 その日から、俺はクラスのヒーローになった。



 中学に進むと、俺は野球部に所属する。

 ポジションはピッチャー。


 その試合は、すでに最終回。

 ツーアウト、ランナー二塁。

 相手は四番打者。


 ベンチから、監督のサインが出る。

 ──敬遠。


 だが、俺は首を振った。


 ここで勝負を避けるのは、逃げることと同じだからだ。


 キャッチャーが戸惑う中、俺は投球モーションに入る。


 そして──三振。


 渾身のストレートに、バットが空を切った。


 歓声が上がる。

 その勢いで、チームは優勝した。



 高校三年の春、担任は言った。


「お前には無理だ。志望校を下げろ」と。


 だが、俺は変えなかった。

 無理だと言われたからこそ、逃げたくなかった。


 結果は、合格。

 E判定からの逆転合格だった。


 合格発表の日、自分の番号を見つけた瞬間、胸の奥で、父の教えが確かなものへと変わっていた。


 俺は信じ続けていた。

 父の教えに従えば、間違いはない。

 逃げずに立ち向かえば、必ず道は拓けるのだと──。



 大学を卒業し、俺は就職した。


 いわゆる、優良企業──のはずだった。だが現実は違った。


 終わらない残業。

 鳴りやまない電話。

 理不尽な叱責。


「なんでこんなこともできないんだ!」


「使えねえな、お前」


 上司の声が、頭の中にこびりついて離れない。


「逃げるな。立ち向かえ」


 父の言葉が、何度も繰り返される。


 だから俺は、辞めなかった。


 どれだけ体が重くても。

 朝、吐き気がしても。

 眠れない夜が続いても。


 逃げるわけにはいかなかった。

 父の教えは、正しいから。


 ある日。


 帰り道の記憶がないまま、気がつくと俺は、橋の上に立っていた。


 黒い川が、ゆっくりと流れている。


 一歩、踏み出せば終わる。


(これで楽になれる……)


 そう思った。


 けれど──


「逃げることは最大の恥だ」


 父の声が、聞こえた気がした。


(……そうだ。これは、逃げだ)


 俺は、手すりから手を離す。


 足が震えている。

 やっとの思いで、引き返す。


 俺は、逃げなかった。



 翌日。


 いつも通り、会社に向かう。

 席に着いた瞬間、上司が机を叩いた。


「おい、お前! 昨日の資料、なんだあれは!」


 頭が真っ白になる。


「やる気あんのか!? 何度言えばわかるんだよ!」


 言葉が突き刺さる。


「逃げるな。立ち向かえ」


 父の声が聞こえる。

 

 頭の中で反響する声に、歪みが生まれる。


(……違う。これは──逃げるべきなんじゃないのか?)


 そんな考えが、初めてよぎる。

 けれど同時に、父の声がそれを押し潰す。


 逃げるな。

 逃げるな。

 逃げるな。


 視界が、ぐにゃりと歪む。


 気づけば、俺の手はスーツのポケットに伸びていた。


 指先に、冷たい金属の感触が触れる。


 俺は、カッターナイフを強く握りしめた。



(ここは、どこだ……? ああ、そうか……取り調べ室か……。俺は捕まったんだ……)


 刑事が口を開く。


「ついさっき……あんたの上司が亡くなったよ……」


「……そうですか……」


 自分でも驚くほど、声は平坦だった。


「……何でだ。何で、あんなことをした?」


 俺は、しばらく何も言えなかった。


 やがて、絞り出すように口を開く。


「逃げたく……なかったからです……」


「……」


「逃げることは……最大の恥だから……」


 刑事は、小さく息を吐いた。


「……そうか」


 少しの間を置いて、静かに続ける。


「でもな……逃げることで、幸せになれた可能性もあったんじゃないか?」


「逃げる……?」


 喉に渇きを感じる。


「俺に……俺に……自殺すれば良かったって言うんですか……!?」


 思わず声が荒くなる。


「……違う」


 刑事は首を振った。


「そういう逃げ方じゃない」


「……」


「会社を辞めるとか、部署異動を願い出るとか……そういうことだ。人生そのものから逃げるって話じゃない」


 言葉が、ゆっくりと胸に沈んでいく。


「……」


 刑事は、少しだけ視線を落とす。


「あんたが逃げていれば……不幸にならずに済んだ人がいる。……あんた自身も、被害者も、そして……被害者の家族も……」


「家族……」


「ああ」


 刑事は、静かに告げた。


「今年、小学生だそうだ……被害者の娘さん……」


「……」


「……あんたは、上司の未来も……その家族の未来も、奪っちまったんだ」


 その瞬間──

 何かが、崩れた。


「う……」


 喉が詰まる。


「う、あ……」


 息がうまく吸えない。


「う……う……っ……」


 気づけば、声にならない嗚咽が漏れていた。

プライドや世間体もあるかもしれません。

「戦い続けること」が正しい場合もあります。

それでも、辛いときは、「逃げること」「休むこと」が必要だと思います。

何よりも、ご自身を大切にして欲しいと願っています。


最後までお読みいただきありがとうございます。

誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
刑事さんはクソ上司が良い家庭人だったという前提で話してるけど、目下の者にモラハラする輩が妻子に優しい人間である可能性の方が低いと思いますよ むしろ奥さんは自ら手を下さずに済んでホッとしてるかも 被害…
 ふと考えました。取り調べの刑事は通り一遍の正義を口にしたかもしれないけれど、これだけ酷い上司なら、家庭内弱者である妻や娘も、モラルハラスメントの餌食にしていたかもしれない、と。  勿論、人間には多面…
無理を続けるのは心が疲れてしまう。 逃げることも、ときには大切で必要なことですね。
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