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捨てられたのは、どちらだったのか

作者: 浅葱きしろ
掲載日:2026/03/22

お楽しみいただければ幸いです。

「貴様との婚約を破棄する!」


 その声が響いた瞬間、舞踏会の空気がきれいに凍った。


 王城の大広間。天井から吊るされた幾つものシャンデリアは、春の夜を昼のように照らしていた。磨き上げられた床、色鮮やかなドレス、上質な香水、金と銀の装飾。どこを見ても華やかで、どこを見ても作り物めいている。


 その中心で、第一王子アルベルトはまっすぐに一人の令嬢を指さしていた。


 リリアーナ・エーヴェルハルト。


 王国でも名高い公爵家の娘であり、王太子妃教育を十年近く受けてきた、彼の婚約者だ。


 集まった視線を一身に受けながら、リリアーナはすぐには口を開かなかった。

 驚いたからではない。泣きそうだからでもない。


 ただ、ようやく来たのだと思った。


 この日が。


「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか。殿下」


 静かな声だった。張り上げもしないのに、よく通る声。


 アルベルトの隣には、栗色の髪の少女が立っている。王立学院に今年入ったばかりの、平民出身の特待生ミレイユ。最近は“癒やしの力を持つ娘”として貴族たちの間でも噂になっていた。


 彼女は今にも泣きそうな顔をして、けれど王子の袖をしっかりとつかんでいた。


「白を切るつもりか、リリアーナ!」

 アルベルトは怒りに満ちた声で言った。

「お前がどれだけミレイユを苦しめたか、私はもう知っている。学院での嫌がらせ、使用人への圧力、陰口、孤立させるための根回し……そのすべてが明らかになった!」


 ざわ、と周囲が揺れる。


 こういう場では、真実より先に“話として面白いかどうか”が広がる。婚約者の公爵令嬢が嫉妬で平民の少女をいじめた。しかもそれを王子が暴く。筋としては実にわかりやすい。


 だから貴族たちは息を呑みながらも、どこか期待した目で見ていた。


 悲鳴。涙。弁明。逆上。


 そういうものが見られるのではないか、と。


 けれどリリアーナはただ、アルベルトを見ていた。


 昔は金色できれいだと思っていた髪も、今はひどく軽薄に見える。

 青い瞳も、本当は深い色をしているのに、その奥にあるものが薄い。

 子供の頃は、彼が笑えば自分もうれしかった。剣の稽古で褒められれば、自分のことのように誇らしかった。


 でも今は違う。


 彼が声を荒げるたびに、ああまただ、と思うだけだ。


「……殿下は、そうお考えなのですね」


「お考え、だと? 証拠もある!」


「その証拠を、誰から?」


 アルベルトが眉をつり上げる。


「誰からでも同じだ! 真実は真実――」


「ミレイユ様から、でしょう」


 名を呼ばれた少女が、びくりと肩を震わせた。


「わ、私は……ただ、殿下に聞かれたことを……」


 細い声。かすかな震え。守ってあげたくなるような、頼りなさ。

 なるほど、とリリアーナは思う。アルベルトはこういうものに弱い。昔からそうだった。露骨に甘えられると、途端に“自分が守らねば”という顔をする。


 幼い頃、木から落ちて泣いていた下町の子を抱き起こしたときもそうだった。

 犬に追い回された侍女見習いを助けたときもそう。

 その優しさ自体は、本物だったのだと思う。


 ただ、彼は“守る”ことは好きでも、“見極める”ことは苦手だった。


 いや、苦手というより、最初からする気がない。

 自分が気持ちよくなれる物語に、すぐ飛びつく。


 哀れな少女。冷酷な婚約者。正義の自分。


 たぶん、彼の中ではもう完成しているのだ。この場に立つ前から。


「ミレイユ様……」

 ミレイユが唇を噛んで言った。

「私は、もう争いたくありません。私のせいで殿下とあなたがこんなことになるなんて……」


 聞こえのいい台詞だった。


 実際、何人かの貴婦人は気の毒そうな目をミレイユへ向けている。

 だが、それ以上に冷えた視線も混ざっていた。


 場慣れした女たちは知っている。

 本当に怯えている娘は、こんなにうまく“見られ方”を計算できない。


 リリアーナは小さく息を吐いた。


「承知しました」


「何……?」


「婚約破棄のお話です。お受けいたします」


 今度はアルベルトが言葉を失った。


 予想していなかったのだろう。

 きっと彼は、泣いて縋られるか、見苦しく否定されるか、そのどちらかを想定していた。そこへ堂々と受け入れると言われ、出鼻をくじかれた顔をしている。


「そ、そうか。ようやく己の罪を――」


「ただし」


 リリアーナは遮った。


「私が殿下に申し上げたいことが、二つだけございます」


 会場は静まり返っていた。


 誰もが聞こうとしている。

 ここからどう転ぶのかを。


「一つ目。私はミレイユ様に嫌がらせをしたことはございません」


「嘘をつけ!」


「ええ、殿下はそうお思いなのでしょう。ですが私はしておりません。ミレイユ様が私を恐れているように見えるのだとしたら、それは私が怖いからではなく、私の前では嘘が効きにくいからです」


 ミレイユの顔が強張る。


 ほんの少しだった。けれどリリアーナは見逃さなかった。


「二つ目」


 そこでリリアーナは一度だけ、視線を大広間の奥へ送った。

 国王と王妃がいる。二人とも壇上からこの騒ぎを見下ろしていた。王妃は扇の影で表情を隠していたが、国王の目は冷たく細められている。


「婚約を解消なさるのなら、今後は私がこれまで陰で支えてきた分も、殿下ご自身でなさってくださいませ」


 その言い方は柔らかかった。

 けれど、会場のあちこちでざわめきが起きる。


「……支えてきた、だと?」


 アルベルトは鼻で笑った。

「何を言い出すかと思えば。まるでお前が私を導いていたような口ぶりだな」


「導く、というほど立派なものではございません。ただ、殿下が読むのを嫌がった書類に目を通し、わかりやすくまとめ、返答の形を整え、判断材料をそろえて差し上げていただけです」


 今度こそ、側近の一人がさっと顔色を変えた。


 覚えがあるのだ。


 王子が妙にまともな意見書を出した日。

 急に各家との折衝が円滑になった時期。

 学院の予算案でもめていた件が、いつの間にか最小限の反発で通ったこと。


 表向きには“王太子として成長された”と評価されていたが、現実にはその多くにリリアーナが関わっていた。


 彼女は幼い頃から数字に強く、人の感情の動きにも敏かった。

 何より、表に立つ者が何を言えば場が収まるかを知っていた。


 王妃がふいに扇を下ろした。


「アルベルト。まさか、お前」


「は、母上まで何を――!」


「最近のお前が急にましになったと聞いて、少しは頭を使うようになったのかと思っていたのですが」


 口調は穏やかだった。だが内容は容赦がない。


 アルベルトの頬が引きつる。


 リリアーナは続けた。


「私は婚約者として、表に出ぬ形で殿下を補佐しておりました。ですが婚約がなくなるのなら、その義務もなくなります。今後は私も口を出しません」


「……そんなこと、なくても困らぬ!」


「そうであれば、何よりです」


 にこりともせずに返され、アルベルトはますます苛立った。


 彼はずっとこうだった。

 リリアーナが感情的にならないほど、逆に腹を立てる。

 喚けば相手も崩れると思っているのに、崩れないと自分の足場が消えるからだ。


 子供の頃はそれでも可愛げがあった。

 怒ってもすぐ機嫌が直ったし、間違いを認めることもあった。


 変わったのは、学院へ上がってからだ。


 周囲が彼を王子として持ち上げ始めた。

 “殿下はお優しい”“殿下は聡明だ”“殿下は将来名君になられる”。


 そのたびにアルベルトは本当にそうなのだと思うようになった。

 努力せずとも称賛される場所に長くいすぎた。


 そしてリリアーナは、彼を持ち上げない。


 甘やかしもしない。


 彼女は必要なら容赦なく、「そこは違います」「それでは通りません」「気分で決めないでください」と言う。

 婚約者として当然だと思っていた。

 けれどアルベルトにはそれが“不快な叱責”にしか感じられなかったのだろう。


 そこへミレイユが現れた。


 彼女は違う。

 どんな拙い意見にも、「殿下はすごいです」と目を輝かせる。

 少し助けてやれば、世界の誰より頼るような顔をする。

 反対意見を言わない。


 それはアルベルトにとって、この上なく心地よかったはずだ。


 だがそれだけだった。


 甘い菓子だけを食べ続ければ、いつか身体を壊すように。


「……リリアーナ様は、厳しすぎたのです」


 ぽつりと、ミレイユが言った。


 視線が集まる。

 彼女は勇気を振り絞るふりで、一歩前へ出た。


「殿下はずっと苦しんでおられました。あなたはいつも正しくて、いつも冷静で、殿下を否定することばかり言っていた。殿下だって人間なのに……失敗したって、迷ったっていいはずです。なのにあなたは、少しも寄り添わなかった」


 それは、思ったよりもうまい返しだった。


 実際、それを聞いて頷いた者もいた。

 正論ばかりでは人はついてこない。

 厳しさは時に正しくても、愛情が感じられなければ息苦しい。


 リリアーナ自身、それは自覚していた。


「……そうですね」


 彼女は素直に認めた。


 アルベルトが目を見開く。ミレイユも一瞬だけ面食らった顔をした。


「私は殿下に寄り添うのが、あまり上手ではなかったと思います。慰めるより先に、どう直すかを考えてしまう性質ですので」


 そこでリリアーナは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。

 自嘲だった。


「ですがミレイユ様。寄り添うことと、甘やかすことは違います」


 少女の表情が止まる。


「誰かを大切に思うなら、その人が楽な方に流れるとき、止めることも必要です。私はそうしてきたつもりでした。殿下に嫌われても、必要だと思ったから」


「っ……」


「あなたは殿下を救ったのではありません。ただ、都合よく酔わせただけです」


 それは鋭かった。


 ミレイユの目に、一瞬だけ憎しみが浮かぶ。

 か弱い少女の仮面の奥にある、生々しい感情。


 ああ、やはり、とリリアーナは思った。


 この娘は怯えているのではない。

 奪るために立っている。


 地位。庇護。称賛。

 王子の隣という、最も甘くて安全そうな場所を。


「ミレイユを侮辱するな!」


 アルベルトが怒鳴った。

「お前はいつもそうだ。自分だけが正しい顔をして、他人を見下す! ミレイユはお前のように冷たくない!」


「ええ。私は冷たいのかもしれません」


 リリアーナは認めた。


「けれど殿下。私は一度も、あなたに嘘の称賛を贈ったことはありません」


 その言葉に、アルベルトの顔色が変わる。


 図星だったのだろう。


 彼は本当は知っていたはずだ。

 リリアーナが厳しいことを言うのは、彼を侮っているからではなく、期待していたからだと。

 彼女は彼が少しでもまともになれるよう、何度も言葉を選び、道を作り、失敗の後始末をしてきた。


 それを彼は、面倒だと思った。


 自分を気持ちよくさせてくれないから。


「……もうよい」


 その声は、壇上から落ちてきた。


 国王だった。


 場の空気が一気に引き締まる。衛兵も文官も、貴族たちもすぐに姿勢を正した。


 国王はゆっくりと立ち上がり、階段を下りてくる。年を重ねてもなお威圧感のある男だった。アルベルトの父だが、似ているのは目の色くらいだ。


「アルベルト。この件、お前はどこまで裏を取った」


「ち、父上。すでに証言が――」


「誰の」


「学院の生徒や侍女たちが……」


「名は」


 詰まる。

 それだけで答えになっていた。


 国王は深く息を吐いた。


「つまり、お前は自分に都合のいい話だけを集め、この場で婚約破棄を宣言したのだな」


「ですが父上、リリアーナはっ」


「では問う。エーヴェルハルト公爵家が近年、王家へどれだけ便宜を図ってきたか知っているか」


 アルベルトは黙った。


 国王はもはや期待していない顔で続ける。


「知らぬだろうな。お前は知ろうともしなかった。リリアーナ嬢は婚約者である以前に、この国を支える一門の娘だ。お前が軽く切り捨ててよい相手ではない」


 王妃も階段の上から静かに言った。


「少なくとも、こんな見世物のような場で一方的に辱めてよい相手ではありません」


 アルベルトの顔が白くなった。

 ようやく、自分が思っていたよりずっとまずいことをしたと気づき始めている。


 遅い。


 本当に遅い。


 リリアーナはふいに、遠い昔を思い出した。


 十歳の頃。王城の庭で、アルベルトは転んだ彼女に手を差し伸べた。

 その手が温かくて、少し汗ばんでいて、でも頼もしかった。

 彼は笑って言ったのだ。

『将来、ぼくが君を守るから』


 あのときは、信じていた。


 努力すれば並んで歩けると。

 この人の隣で、この国を支えられると。


 でも現実は違った。

 隣に立とうとするほど、彼は不機嫌になった。

 自分より有能であることを望まないくせに、自分が無能と露見するのも嫌がった。


 だから、“支えてくれる婚約者”が必要だったのではない。

 “自分を大きく見せてくれる便利な婚約者”が必要だったのだ。


 それが今、ようやく終わる。


「陛下」


 リリアーナは国王へ向かって、正式な礼をとった。


「この件、婚約解消について私は異論ございません。ただし、我が家への不当な中傷が広がるようであれば、家として対応いたします」


「ああ、当然だ」


 国王は即答した。


 その返答だけで十分だった。

 誰が王家の公式な庇護を受け、誰が切り捨てられかけているか、場にいる全員が理解する。


 ミレイユが血の気を失う。


「へ、陛下……! 私は、その……」


「お前については別途調べる。学院からも報告が来ている」


「っ!」


 その一言で彼女は崩れた。


 完全に、とまではいかない。だが、繕いきれないほどの動揺が出た。


 リリアーナは知っていた。学院の中で、ミレイユは確かに人気があった。けれど同時に、妙な違和感を覚えている者も多かった。

 彼女の不幸話は毎回都合がよく、助け舟はいつも人目のあるところで現れる。

 誰かに責められたと言いながら、その場に証人はいない。

 なのに気づけば、相手だけが“冷たい人”として広まっている。


 露骨な悪意より、こういうじわじわした毒のほうが厄介だ。


「そんな……私は、ただ……」


「ただ、何だ」


 国王の声は冷たい。


 ミレイユは唇を震わせたあと、急にアルベルトの腕にすがった。

「殿下、助けて……!」


 その声に、アルベルトははっとしたように彼女を見る。

 けれど、さっきまでのような勢いはもうない。彼も今や、自分の立場が危ういと悟り始めている。


 助けたい。だが自分も助かりたい。

 そんな顔だった。


 みっともない、とリリアーナは思った。


 この男は、最後までそうなのだ。

 誰かを守ると言いながら、いざとなれば一番先に自分の保身を考える。


 むしろ、昔よくこれに期待していたものだと苦笑したくなる。


「……リリアーナ」


 不意に、アルベルトが彼女の名を呼んだ。


 声が変わっていた。

 怒鳴る声ではない。

 少し弱く、少し迷い、そして少しだけ怯えた声。


「お前は……本当に、私を見捨てるのか」


 その問いに、何人かが息を呑んだ。

 それは責める言葉のようでいて、ひどく幼かった。

 まるで、自分は捨てられるはずがないと思っていた子供が、初めて現実を知ったときの声だった。


 リリアーナは静かに彼を見る。


「殿下。見捨てたのは、どちらでしょう」


 アルベルトの唇が震える。


「私は何度も申し上げました。人の話を聞いてください、と。感情だけで断じないでください、と。自分にとって耳障りのいい言葉ばかり信じないでください、と」


 一つ一つ、丁寧に。


「でも殿下は、私の言葉を煩わしいと切り捨てた。私が差し出したものは受け取っても、私自身のことは見ようとしなかった」


 リリアーナの声はどこまでも穏やかだった。


「それでも私は、婚約者として役目を果たそうとしてきました。あなたが王子である以上、あなた一人の失敗では済まないからです」


 そこで彼女は少しだけ目を伏せた。


「……けれど、もう疲れました」


 それは本音だった。


 初めて口にした本音かもしれない。


 アルベルトはその一言に、ひどく傷ついたような顔をした。

 だが彼には、その資格すらない。


 疲れさせたのは、他でもない彼自身だ。


「ミレイユ様……」


 かすれた声で、ミレイユが言った。

 もう可憐さを作る余裕もない顔で。

「あなたは結局、殿下のことを愛していなかったのね」


 その言葉に、場が少しざわつく。


 ずいぶんと稚拙な返しだ。

 だが、ある意味では核心を突こうとしていたのかもしれない。


 リリアーナはしばらく答えなかった。


 愛していた。

 昔は確かに。


 庭で笑う少年を。

 素直で、まっすぐで、まだ傲慢さの薄かった頃の彼を。

 この国を良くしたいと、本気で語っていたあの頃の目を。


 けれど、今の彼をどうかと問われれば。


「……愛していた時期はありました」


 リリアーナはそう答えた。


 アルベルトがはっと顔を上げる。


「ですが、その気持ちにあぐらをかき、当然のように消費し続けたのは殿下です」


 きっぱりとした声だった。


「愛情は、無限ではありません」


 その一言で、すべてが終わった気がした。


 アルベルトは何か言おうとした。だが言葉にならず、結局うつむいた。

 ミレイユは彼の袖をつかんだまま、青ざめている。

 国王は衛兵に目配せをし、王妃はもう二人を見ていなかった。


 周囲の貴族たちも理解したのだろう。

 勝負はついた。


 いや、勝負ですらなかった。


 最初から、壊れていたものが表に出ただけだ。


 リリアーナは一礼し、その場を離れた。


 背中に視線が刺さる。

 好奇心、同情、畏れ、安堵、打算。さまざまな感情が混じっていた。

 けれど不思議と重くはなかった。


 大広間の扉が開く。

 夜の空気が流れ込んでくる。


 少し冷たい。


 でも、その冷たさが今は心地よかった。


 ***


 その夜、王城から戻ったあとも、リリアーナは泣かなかった。


 エーヴェルハルト公爵邸の自室。大きな鏡台も、淡い色の寝台も、壁際に並ぶ本も、幼い頃から変わらない。安心できるはずの部屋で、彼女はようやく深く息を吐いた。


「お嬢様」


 控えていた侍女長のマルタが、温かい茶を差し出す。

 リリアーナが七つの頃から仕えている女性だ。厳しくて、無駄口は少ないが、誰より彼女を見てきた。


「……終わりました」


「はい」


 それだけで十分だった。


 マルタは婚約破棄そのものに驚いてはいないようだった。

 たぶん、こうなる予感が前からあったのだろう。


「お泣きになりますか」


「今は、まだ」


「では、お茶が冷める前に」


 リリアーナは少しだけ笑った。

 こういうとき、マルタは慰めの言葉を並べない。そこがありがたい。


 茶を口に含むと、張りつめていたものが少しだけほどけた。


「私は、間違っていたのでしょうか」


 思わず漏れた言葉に、マルタは少し考えてから答えた。


「やり方にもっと愛嬌はあったかもしれません」


「……手厳しいですね」


「ですが、お嬢様が殿下を支えようとしていたのは本心でした。それは間違いではありません。ただ、支える相手に支えられる気がなければ、どうにもなりません」


 その通りだった。


 リリアーナは静かに目を閉じる。


 自分はずっと、関係を立て直せると思っていた。

 いつか伝わる、いつか変わる、と。


 でも違った。


 変わらない人はいる。

 変わる気のない人もいる。


 そして、自分一人が努力しても成り立たない関係というものが、確かにある。


「……少し、悔しいです」


「当然です」


「十年近く使いましたから」


 それは時間だけではない。

 期待も、忍耐も、未来も。


 マルタは初めて、ほんの少しだけ表情をやわらげた。


「それでも、お嬢様はまだお若い。使い切ったわけではありません」


 その言葉は慰めとしては不器用だったが、妙に胸に残った。


 使い切ったわけではない。


 そうかもしれない。


 少なくとも、今日で終わったのは“人生”ではなく、“間違った約束”のほうだ。


 窓の外では、夜が深まっている。

 静かな夜だった。


 泣く代わりに、リリアーナは胸の奥に残っていたものを一つずつ確かめる。

 怒り。失望。疲労。情けなさ。

 そして、ほんの少しの解放感。


 ああ、と彼女は思った。


 私はようやく、息ができる。


 ***


 その後の王都は、見事なまでに騒がしかった。


 婚約破棄の噂は一夜で広がり、翌朝には細部が百通りに歪んでいた。

 リリアーナが嫉妬で暴れたことになっていたり、逆に王子が平民娘に狂ったことになっていたり、すでに二人が駆け落ち寸前だったという話まである。


 だが三日もすると、流れは変わった。


 王家が正式に、婚約解消は事実であること、ただし公爵令嬢への中傷は事実無根であることを発表したからだ。加えて学院内でも、ミレイユ周辺の証言の食い違いがいくつも出てきた。


 誰かが乗っていた流れから、急いで降り始める。

 貴族社会とはそういう場所だ。


 そしてもっと効いたのは、婚約解消後のアルベルトだった。


 以前まで、彼の周囲には自然と人が集まっていた。

 正確には、王子である彼の背後にいたリリアーナの調整によって、人が離れにくくなっていた。


 それがなくなった途端、彼はあからさまに不安定になった。

 些細な報告書で機嫌を損ね、会話の脈絡なく怒り、少し突っ込まれると話を打ち切る。

 今まで“若さゆえの未熟さ”で済んでいたものが、急にそのまま露出した。


 王妃は頭を抱え、国王は露骨に失望した。


 一方でリリアーナは、社交の場を少し休んだあと、必要最低限だけに絞って復帰した。

 誰もが腫れ物のように扱うかと思えば、むしろ逆だった。


 以前より話を聞きたがる者が増えたのだ。


 彼女はそこで初めて知った。

 自分は“王子の婚約者”としてではなく、“リリアーナ・エーヴェルハルト”として見られる場を、ほとんど持っていなかったのだと。


 皮肉な話だった。


 婚約を失って、ようやく個人として輪郭が出るなんて。


 そんなある日の茶会で、隣国ベルンシュタインの使節が彼女に話しかけてきた。

 その中にいたのが、第二王子ゼノ・ベルンシュタインだった。


 柔らかな物腰の男だった。

 物腰は柔らかいが、目はよく見ている。

 人当たりのいい人間にありがちな薄さがなく、言葉の端々に知性があった。


「初めてお会いした気がしませんね、リリアーナ嬢」


「私はございますよ、ゼノ殿下」


「私は以前から、あなたのお噂をよく耳にしておりました」


「良い噂だけとは思えませんが」


「半分は賢さ、半分は怖さでした」


 正直すぎて、リリアーナは思わず少し笑った。


「否定はなさらないのですね」


「賢い方が怖がられるのは、珍しいことではありません」


 その返しが妙に自然で、彼女は少しだけ警戒を解いた。


 アルベルトなら、ここでまず自分の魅力を語る。

 ゼノは違う。相手を観察し、言葉を置く順番を知っている。


「ですが私は、その“怖さ”が好きですよ」

 ゼノはさらりと言った。

「少なくとも、国を預かる立場の人間にとっては」


 そのときリリアーナは、ほんの少しだけ気づいた。

 自分がこれまでいた場所は、賢さを嫌がる男の隣だったのだと。


 ならばその逆も、世の中にはいるのかもしれない。


 賢さを脅威ではなく、価値として見る人間が。


 その事実だけでも、もう十分に救いだった。


 ***


 数か月後、アルベルトから手紙が来た。


 封を見ただけでわかったが、リリアーナはすぐには開けなかった。

 三日ほど机の端に置いて、ようやく切る気になった。


 中には、思った通りのことが書いてあった。


 自分は誤解していた。

 今なら君の大切さがわかる。

 ミレイユには騙されていた。

 やり直したい。

 今度こそ、君を正しく扱う。


 最後まで読んで、リリアーナは紙を畳んだ。


 腹も立たない。

 ただ、空虚だった。


 彼は何もわかっていない。


 “正しく扱う”とは何だ。

 物ではないのに。


 そもそも彼は、失ったのが自分を本当に愛していた相手だから惜しんでいるのではない。

 自分を支え、整え、表面を保ってくれていた便利な存在が消えたから困っているだけだ。


 そこに気づかない限り、何も始まらない。


 リリアーナは手紙を暖炉へ入れた。


 紙が火を食って、端から黒く縮れていく。

 それを見つめながら、彼女は不思議なくらい静かな気持ちだった。


「お嬢様」


 マルタが控えめに呼ぶ。


「ゼノ殿下がお見えです」


「今、参ります」


 立ち上がりながら、リリアーナは燃える紙を最後に一度だけ見た。


 あれだけ長く抱えていたものが、こんなにも軽い灰になる。


 人の縁とは案外、そういうものなのかもしれない。


 応接間へ向かう廊下は、陽の光で明るかった。

 窓の外では春の花が咲き始めている。


 ゼノは今日もやわらかく微笑んでいた。


「お忙しいところ恐れ入ります」


「いえ。今日はどういったご用件で?」


「単刀直入に申し上げます」


 彼はそう言って、書類を一通差し出した。


「我が国で、私の補佐をしていただけませんか」


 リリアーナは目を瞬いた。


「補佐、ですか」


「ええ。ただし、名ばかりの飾りではなく。権限と裁量を持つ立場として」


 真っ直ぐな目だった。

 試すようでもなく、見下すようでもなく、ただ評価した上で求めている目。


「私はあなたを、扱いやすい女性だとは思っていません」

 ゼノは言った。

「むしろ逆です。妥協しないし、甘くない。ですが、それでいい。国家に必要なのは、気分よくしてくれる人間より、崩れそうなところを見つけて塞げる人ですから」


 どこかで聞いたような、いや、正反対の言葉だった。


 リリアーナは少し黙ってから、問うた。


「……私が女でも?」


「それで能力が減るなら考えますが、減りませんよね」


 あまりにも当然の顔で言うので、少しおかしかった。


 リリアーナは笑った。

 心から笑ったのは、もしかすると婚約破棄の夜以来初めてかもしれない。


「条件があります」


「承ります」


「私の成果を、誰かの手柄にしないこと」


「もちろん」


「私を黙らせるために起用しないこと」


「むしろ話していただきたい」


「私が間違えたときは、きちんと止めること」


 ゼノはそこで初めて、少し驚いた顔をした。

 だがすぐに笑う。


「それは良い条件ですね。ぜひそうしましょう」


 その返答を聞いた瞬間、リリアーナはわかった。


 ああ、これは対等に近いのだ、と。


 少なくとも、片方が一方的に消耗する関係ではない。

 それだけで十分価値がある。


 窓の外から風が吹き込んだ。

 春の匂いがした。


 昔、自分は捨てられるのが怖かった。

 婚約者という立場を失えば、何も残らないのではないかと、どこかで思っていた。


 でも違った。


 捨てられたように見えたあの日、本当に終わったのは、彼女を小さく扱う関係のほうだった。

 なくなったのは足枷で、価値ではない。


 リリアーナは差し出された書類を受け取る。


「前向きに検討いたします」


「ええ。良い返事を期待しておきます」


 ゼノが微笑む。


 その笑みに、昔のような不安は湧かなかった。

 この人の隣に立つなら、無理に小さくならなくていい。

 そう思えたからだ。


 そして同時に、リリアーナはもう一つ理解していた。


 アルベルトはきっと、この先も時々思い出すだろう。

 自分を叱り、支え、最後には静かに去っていった婚約者のことを。

 あれほど鬱陶しいと思っていた存在が、どれだけ自分を保っていたかを。


 だが、気づくのが遅すぎた。


 人は失ってからしかわからないことがある。

 けれど、わかった時にはもう遅いこともある。


 それが、彼にとっての“ざまぁ”なのだろう。


 見世物のような転落ではない。

 誰かに派手に踏みつけられるのでもない。


 ただ、自分が軽んじたものが二度と戻らないと知ること。

 その事実と、長く静かにつき合い続けること。


 それは案外、よくできた罰なのかもしれなかった。


 リリアーナは顔を上げた。

 窓の向こうに広がる空は高く、青い。

楽しかったよ、また読みたいよと思ってくださいましたら高評価・ブクマ等よろしくお願いいたします。

3/25追記、日間、週間ランクインさせていただきました…!ありがとうございます…!!

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― 新着の感想 ―
第一王子、底の浅さを最後まで理解してませんでしたね。 あとミレイユもどうなったのかなー。彼女、意外によく分からない人です。王子に近づいた理由とか、茶番劇にどの程度関わってるとか。
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