輝かしき未来に陰りを
中央学院は王都から少し離れたところにある。
生徒はすべて寮に入り、年に二回の長期休暇と近しい身内の冠婚葬祭のみ帰宅を許される。代わりに、学院都市とも呼べる商店の集まりがすぐそばにあることや、使用人を数名連れて行けることもあって、生徒たちは大きな不自由を感じないように作られている。屋敷に商人を呼ぶことが常の貴族が、唯一自分の足で歩いて商店をめぐり買い物をする期間でもある。
つまり裏を返せば、甘やかされて育てられただろう貴族に最低限の不自由を我慢する教育を施すための場所でもあった。
そんな中で、最も自由を謳歌出来る存在と言えば。
「王太子殿下ぁ~」
煌びやかなブロンドに、晴れ渡った空と例えられるブルーアイを持った青年が、甘さばかりの呼び声に振り返る。そして、彼に駆け寄る少女が目の前で躓いて転びそうになるところを、やさしく抱き留めた。
「カーチャ、怪我はないかな?」
「はい! ありがとうございますぅ、殿下」
「おやおや、いけない子だな、カーチャ。殿下ではなく……ほら、何と呼ぶように教えた?」
「ぁ……キ、キース様……」
「いい子だね、カーチャ」
抱き留めたときに腰に回した手を離さないまま、キースと呼ばれた青年は、腕の中の少女の髪を撫で、ひと束掬い上げる。今にも口づけそうな近さにある顔を、少女は恥ずかしそうに視線を逸らして避けた。
カーチャはロードリックの伝手を使って、とある男爵家の養女となった。今の名前は、カーチャ・マクラウド。貴族の籍に入ることさえ出来れば、学院への入学は自動的に決まったも同然だった。
学院に入るためには、形だけの筆記試験と、より重要な面談がある。しかしカーチャは、どちらも当然の顔をして合格した。試験の合否を最も不安に思っていたロードリックが、ほかの不安も一度忘れることにしたほどの出来栄えだった。
カーチャが学院の入学前にしたことと言えば、庶民の間で使われている脱色剤で髪の色を抜くことだった。貴族に髪の色を抜く文化はなく、髪の色を変えるという発想すらない。なので、最も手軽な変装だった。そして、よく磨かれたカリンの木材のようだった艶やかな赤い髪を、安っぽい薄茶色に変えて入学した。
編入生など滅多にいない学院でカーチャはよく目立った。多くは悪目立ちであったが、美しい容貌に見惚れる者も多い。その中の一人が、この国の王太子、キース・ホワイトヘッドだった。
カーチャは、キースとの出会いを完璧に演出した。
入寮の日、よく晴れた空の下で商店街の広場にある噴水のふちに腰掛け、愁いを帯びた顔でその中を覗き込む。
その噴水は、学生たちの間で願いの叶う噴水として有名だった。三段重なっている二段目の棚に、後ろ向きで投げ入れたコインが入れば想う人と添い遂げられると、学生なら誰でも知っている噂がある。一段目と二段目はほとんど大きさに違いもなく、その距離も近い。透明な水の向こうに見える彫刻を楽しむための作りなのだが、だからこそコインを二段目に入れることは難しく、年若い学生たちの挑戦心をくすぐった。
そんな噴水で黄昏る見慣れない美しい少女。授業が終わって遊びに出てきた学生たちの興味を引くには十分な存在だ。
「お嬢さん、ずっとそこにいるようだけれど、なにかお困りかい? 私で力になれることはあるだろうか」
誰もが話しかけたそうにしていた。しかし、キースが話しかけるだろうとも分かっていた。その通り、やってくるなりまっすぐにカーチャのもとへ向かったキースは、胸元に手を当てて、紳士の顔でカーチャに声をかけた。
話しかけられたカーチャは、ハッと我を取り戻した顔でキースを振り仰ぐ。見上げた瞳の中には噴水の水が反射した陽光がきらめいて、平凡な茶色い瞳を特別なものに見せた。キースはそれを見て、醜悪に口元をゆがめる。
「あの、きょお~寮にお引越しする日なんです。でもぉ、あたし寮がどこにあるかわからなくて……」
「使用人はどうしたんだい?」
「メイドは荷物の馬車と一緒に行ったんですけど、あたし、町を見てみたくて、町に入ったところで降りちゃったんです。一番おっきな建物のほうに行けばわかるって言われたんですけど、あたし、こんな立派な建物がたくさんあるところなんて見たことなくって、わかんなくなっちゃってぇ……」
反吐が出そうな思いをしながら、必死にひねり出した涙で目を潤ませると、キースは分かりやすく鼻の下を伸ばした。本人だけがそれに気づかないまま哀れな少女に手を差し出し、親切な紳士のふりをする。
「私も学院の生徒なんだ。寮にも住んでいるよ。これから戻るところだから、案内してあげよう」
「ほんとですかぁ! ありがとうございます!」
差し出された手にぴょんと飛びついて、カーチャは全身で嬉しいを表現した。その無邪気な様と近い体の距離に、キースはさらに目じりまで垂れ落ちさせる。みっともない顔だったが、そばに静かに控える従者さえ知らん顔で口を挟んでくることはなかった。
その後、無事に送り届けられた寮の前で、キースはもっと親しくなるためカーチャをティータイムに誘おうとしていたが、カーチャは何も分からないふりでそれを遮り、大げさに感謝を述べて煙に巻いた。そして部屋の片づけがあるからと名乗りもしないで、男子では決して入れない寮の中に駆け込んだのだった。
しかしそれでカーチャの演出は終わらない。
翌日の入学の朝。説明があるからと授業が始まるよりも早くに呼び出されていた時間のギリギリに寮を出て、校舎に走って向かう。
「ごめんなさーい! どいてくださーい!」
校舎には、男子寮の方が近い。絶妙に見計らったタイミングのおかげで、そこから出てきたキースを狙ってぶつかる、無礼者として最高の偉業を達成することが出来た。
その時の周囲の顔は見ものだった。計画上仕方ないが、ロードリックがここにいないことが残念なほど、無様だったから。従者も、護衛も、婚約者も、無礼にも王太子にぶつかって一緒に倒れこむ少女を止めることも出来ないなんて、これほど滑稽なことがあるだろうか。
「い、たた……まったく、誰だこのっ……?」
「ご、ごめんなさい! あたし急いでてっちゃんと前見てなくてっ……あの、ほんと急いでるんです、あとで絶対ちゃんとあやまります!」
「ちょっと、待ちたまえ!」
相手が誰だろうと関係ない態度で、カーチャは倒れこんだ際に乗り上げたキースに目いっぱい顔を近づけ捲し立てる。周りがあっけにとられているうちに立ち上がってまた走り去ろうとしたところを、近くで顔を見たことで相手が昨日であった少女だと気づいたキースが、素晴らしい反射神経で手をつかんで引き留めた。
ぶつかってきた相手がカーチャだと気づくまでは怒り心頭といった様子で、護衛にその無礼者を処断させそうな顔だったくせ、それが好みの女だと分かれば途端にニヤケ面に変わる。そんな現金な様子に、だからこんな罠にもかかるんだとカーチャは笑いをこらえるのに必死だった。
「何をそんなに急いでるんだい? まだ授業が始まる時間ではないよ」
「あ、あたし、今日が初登校だから、教科書とかもらいに行かなくちゃいけなくて、だからちょっと早く先生に呼び出されてるんです。なのに、普通の授業の時間にまちがっちゃって……だから、早くいかなくちゃ……」
すでに遅れそうなのに、こんなところで時間を食って遅刻は確定。その不安で泣きそうな哀れな少女を演じるカーチャに、キースはころりと転がされる。
「そうか、それは引き留めてすまないな。だが、教科書を運ぶのに君ひとりでは大変だろう。なぜ遅れたのかの弁明のついでに私の護衛に手伝わせよう」
「え、え、でも、え、いいんですかぁ!?」
「もちろんだとも。さ、行こうか」
「はい! ありがとうございます! 学院に入ったら素敵なひとに会えるよって言われて来たんですけど、ほんとだったんですねぇ。こんな素敵なおうじさまに助けてもらえるなんて」
キースに取られたまま離されない手と反対の手で頬を抑えて、カーチャは夢見がちな少女としてのため息を吐く。濃い目につけてきたチークを、思惑通りに照れて頬を染めているのだと思い込んだキースは、目的地に着くまでの間根掘り葉掘りとカーチャを質問攻めにした。当然ながら、勝手に荷物持ちにされた護衛をはじめ、彼の周りにいた人間は自分たちの世界にはいったふたりに一切の口を挟むことは出来なかった。




