第八十六話『聖なる通商条約』
蒸気機関車が吐き出す白い余韻の中で、族長ガムスは立ち尽くしていた。
目の前には、見たこともない輝きを放つ鋼鉄の農具と、芳醇な香りを漂わせる酒。
喉から手が出るほど欲しい。部族の生活を一変させる宝だ。
だが、彼は首を振った。
「……できぬ。やはり、できぬ」
ガムスは、苦渋の表情で、背後の洞窟――塩の聖地を見上げた。
「……塩は『神の骨』だ。不浄なる下界へ流せば、神の怒りに触れる。
……我々は、その怒りを鎮めるために、何百年もここを守ってきたのだ。
『物欲』のために、掟を破るわけにはいかん……」
それが、彼らの正義だった。
利益よりも、信仰。
命よりも、掟。
それは、かつてのエリスが縛られていたものと同じ、強固な精神の鎖。
ゼニスは、無言で後ろに控えるエリスに視線を送った。
(……解け。お前にしかできない)
エリスが、一歩前に進み出た。
泥だらけの作業着。だが、その背筋は凛と伸び、かつて大聖堂で数万の信徒を前にした時以上の「聖性」を帯びている。
「……族長様。あなたのお気持ち、痛いほど分かります」
エリスの澄んだ声が、夜気に染み渡る。
「……神聖なものを守りたい。汚されたくない。
その一心で、今日まで戦ってこられたのですね」
「……そうだ。
お前のような娘に、我らの何が分かる」
「……分かります。わたくしも、そうでしたから」
エリスは、自らの胸に手を当てた。
「……わたくしもかつて、神の教えだけが正しいと信じ、外の世界を『穢れ』だと拒絶していました。
……ですが、それは間違いでした」
エリスは、背後のゼニスや、機関車、そしてボロボロになりながら働く労働者たちを見渡した。
「……世界は、穢れてなどいませんでした。
人は、神に頼らなくても、知恵と力で、こんなにも素晴らしいものを作れるのです」
「……何が言いたい」
「……族長様。塩はなぜ、神聖なのですか?」
エリスは問うた。
「……それは、塩が『腐敗を防ぎ』、『清める』力を持っているからではないですか?」
「……うむ。その通りだ。
塩は、万物を永遠に保つ、不滅の力だ」
「……ならば」
エリスは、まっすぐにガムスを見据えた。
「……その清める力を、この洞窟に閉じ込めておくことは……本当に神の御心でしょうか?」
「……なっ?」
「……世界は今、病と飢えに苦しんでいます。
腐敗し、傷ついています。
……もし塩が『清める力』なら、それを世界中に広め、多くの人々を救うことこそが……神が塩を作られた『意味』ではないでしょうか?」
パラダイムシフト。
「守る(隠す)」ことが信仰なのではない。
「広める(救う)」ことこそが、真の信仰であるという、論理の転換。
「……塩を広めることが……神の意志……?」
ガムスが動揺する。
その発想はなかった。だが、言われてみれば、あまりにも筋が通っている。
神の骨を独占し、腐敗していく世界を見捨てることこそ、神への冒涜ではないのか?
そこへ、ゼニスが追撃をかけた。
「……この『鉄の竜』を見ろ」
ゼニスは、アイアン・ホースを叩いた。
「……こいつは、ただの輸送機ではない。
お前たちの神を、汚れなきまま、迅速に、世界中へ届けるための『箱舟』だ」
「……箱舟……」
「……俺たちが運ぶのではない。この竜が運ぶのだ。
そして、対価として渡すこの鉄器や食料は……神が広まった証として、下界から還流される『恵み』だ」
宗教的解釈と、経済的利害の一致。
ゼニスがハードウェア(物流)を用意し、エリスがソフトウェア(教義)をアップデートする。
ガムスは、長い沈黙の後、天を仰いだ。
そして、持っていた戦斧を、地面に突き立てた。
「……負けたよ。鉄の民よ」
ガムスは、エリスの前に跪いた。
「……あんたの言う通りだ。
神は、籠の中にいるべきじゃない。
……連れて行ってくれ。我らの神を、広い世界へ」
「……ありがとうございます」
エリスが微笑み、ガムスの手を取る。
文明の衝突は、回避された。
そこにあったのは、敗北ではなく、新たな「契約」の締結だった。
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「……掘り出せェェェッ!!」
ロイドの号令と共に、労働者と部族たちが一斉に洞窟へなだれ込んだ。
エリスが感知したポイントを、鋼鉄のツルハシが打ち砕く。
カァァンッ!
岩盤が割れ、中から溢れ出したのは、照明の光を反射して輝く、ピンク色の結晶の壁。
「……出たぞぉぉぉ!!」
「……岩塩だ! 塩の山だ!!」
マルコが、結晶の塊を抱きしめ、舐める。
「……しょっぱい……!
うめぇ……! 生き返る味だ……!」
涙を流して喜ぶ労働者たち。
塩。たかが塩。
だが、死の淵を歩いてきた彼らにとって、それは文字通りの「命の結晶」だった。
「……すげぇ量だ。これなら百年は持つぞ」
ギデオンが、震える手で計算機を弾く。
「……積み込め! 積めるだけ積め!
空になった炭水車も、客車も、屋根の上もだ!
一粒残らず持って帰るぞ!」
バケツリレーが始まる。
部族たちも手伝い、岩塩が次々と貨車に放り込まれていく。
代わりに、鋼鉄の農具や酒が下ろされる。
部族の女たちが、見たこともない保存食を食べて歓声を上げている。
対等な取引。
略奪ではなく、互いに富ませ合う「貿易」。
数時間後。
アイアン・ホースは、車軸がきしむほどの岩塩を飲み込んでいた。
その重量は、登ってきた時の倍以上。数千トンの質量。
「……準備完了!」
ロイドが叫ぶ。
だが、彼の顔には焦りの色があった。
「……おいゼニス。積み込みは終わったが、問題は『帰り道』だ。
忘れてねぇよな?
俺たちは『後ろのレールを剥がして』登ってきたんだ。
……つまり、機関車の前には、レールが一本もねぇぞ」
マルコたちがハッとする。
そうだ。ここは陸の孤島。
機関車の前には、かつて自分たちが敷き、そして剥がした路盤の跡が続いているだけだ。
「……分かっている」
ゼニスは、列車の後方へと続く、今しがた登ってきたばかりのレールと、ガムスたち部族の戦士たちを指差した。
「……だが、条件は『行き』とは違う。
路盤はすでに完成している。邪魔な岩もない。
そして何より……我々には『強力な助っ人』がいる」
ゼニスは、ガムスに目配せをした。
ガムスが頷き、部族の若者たちに号令をかける。
「……鉄の民を助けろ!
神を運ぶ道を作るのだ!」
「「「オオオッ!!」」」
数千の部族が動く。
彼らは人間離れした体力で、列車の後方にあるレールをバールで引き剥がし、担ぎ上げると、機関車の横を風のように走り抜けて前方へと運んでいく。
「……人海戦術だ」
ゼニスが命じる。
「……前へ! レールを置け! ボルトを締めろ!
機関車を動かせ!
そして通り過ぎた後ろのレールを、また部族たちが剥がして前へ運ぶ!
……『高速尺取り虫』だ!」
怒涛のリレーが始まった。
行きは数十人の労働者で、岩を砕きながら進んだ苦難の道。
だが帰りは、数千人の戦士たちが、完成した路盤の上でレールをバケツリレーする。
「……速ぇ! 行きの十倍は速ぇぞ!」
マルコがスパイクを打ち込みながら叫ぶ。
機関車が、歩く速度で、しかし止まることなく山を下っていく。
その両脇を、レールを担いだ戦士たちが川のように流れていく。
一日、二日。
不眠不休の行軍。
そして、ついに。
「……見えたぞ! 『古戦場』だ!」
ロイドが叫ぶ。
眼下に、赤錆びた鉄の墓場が見えた。
あそこから先は、レールを剥がしていない。
灰色谷まで続く、完成された鉄路が待っている。
「……接続完了!!」
最後のレールが繋がり、ボルトが締められた。
これで、山頂から麓まで、一本の線が繋がった。
「……ここまでだ、塩の民よ」
ゼニスは、ガムスたちに礼を言った。
「……助かった。
次は、『冬』が来る前に、もっといい酒を持ってくる」
「……待っているぞ、鉄の長よ!
くれぐれも、神を粗末に扱うなよ!」
ガムスが手を振る。
エリスも、窓から身を乗り出して手を振り返した。
「……よし。ロイド、ブレーキの点検は?」
「……万全だ。だが、気をつけろよ。
行きは重力が敵だったが、帰りも同じだ。
……これだけの荷物を積んで平地まで下るんだ。
ブレーキ操作を一つ間違えれば、脱線して全員ミンチだぞ」
「……ああ。分かっている」
ゼニスは、制動弁に手をかけた。
「……出発進行!!」
ポォォォォォッ!!
勝利の汽笛。
鉄の馬が、古戦場のレールの上を滑り出し、加速する。
「……速いッ!?」
マルコが悲鳴を上げる。
山での鈍行が嘘のように、景色が飛ぶ。
重力加速度が、数千トンの鉄塊を怪物に変える。
「……抑えろ! 速度を殺せ!」
ロイドが怒鳴る。
ゼニスがブレーキを絞る。
キィィィィィィィン!!!!!
耳をつんざくような金属音。
車輪に取り付けられた制輪子が、回転する鉄の輪を締め上げ、猛烈な火花を散らす。
「……熱い! 焼けるぞ!」
摩擦熱で制輪子が赤熱し、焦げ臭い匂いが立ち込める。
だが、緩めれば暴走だ。
数千トンの質量が持つ運動エネルギーを、熱エネルギーに変換して捨て続ける我慢比べ。
「……耐えろ……! まだだ……!」
ゼニスは、速度計と睨めっこを続ける。
速すぎれば脱線する。遅すぎればブレーキが焼き付く。
針の穴を通すような制御。
雲を突き抜け、雪原を駆け抜け、古戦場を越え、鉄橋を渡る。
数週間かかった苦難の道のりが、走馬灯のように、しかし命懸けの緊張感と共に後ろへ飛び去っていく。
そして。
眼下に、懐かしい景色が見えてきた。
赤錆びた工場の煙突。
再建中の家々。
そして、広場に集まり、彼らの帰りを絶望と共に待ちわびていた、数千の領民たち。
「……見えたぞぉぉぉ!!」
「……ブレーキ、全開!!」
キギィィィィィィッ!!
最後の絶叫と共に、列車が灰色谷の駅(ただの広場だが)に滑り込む。
車輪からは白煙が上がり、制輪子は飴色に焼けつき、停止した瞬間、カキンと金属が冷える音がした。
「……着いた……」
ゼニスが、ハンドルから手を離す。
手のひらには、くっきりと痕が残っていた。
「……塩だ! 塩が来たぞぉぉぉ!!」
誰かが叫んだ。
歓声が、爆発した。
人々が駆け寄り、貨車からこぼれ落ちるピンク色の石を拾い上げ、口に入れ、そして泣いた。
命が、繋がった。
経済封鎖という「死の包囲網」を、彼らは物理的な力でねじ伏せ、突破したのだ。
運転台から降りたゼニスの元に、ギデオン、ロイド、エリス、マルコが集まってくる。
全員、泥と煤にまみれているが、その顔は晴れやかだった。
「……やったな、ゼニス」
ギデオンが、岩塩の塊を握りしめて笑う。
「……これで、封鎖なんて怖くねぇ。
塩も、鉄も、燃料も……全部自前で調達できる」
「……ああ」
ゼニスは懐から、くしゃくしゃになった一枚の羊皮紙を取り出した。
それは、かつてヴァルガスが叩きつけ、世界中がアークライト領を見捨てる原因となった、教会からの「破門宣告書(の写し)」だった。
「……世界は、俺たちを切り捨てた」
ゼニスは、その紙切れを、まだ赤々と燃えている機関車の「火室」へと投げ込んだ。
ゴオッ。
神の権威が記された紙片は、科学の炎に巻かれ、一瞬で灰となって消えた。
「……だが、見ろ。
切り捨てられたのは、世界のほうだ」
ゼニスは、歓喜に沸く領民たちと、唸りを上げる工場、そして山脈を越えてきた鉄の馬を見渡した。
「……物流は繋がった。
資源は確保した。技術は実証された。
……今の俺たちは、誰にも止められない」
ゼニスは、仲間たちに向かって、次なる野望を告げた。
「……次は『国』を作るぞ。
……俺たちの、産業国家を」
ロイドがニヤリと笑い、汽笛のレバーを引いた。
ポォォォォォッ!!
高らかな汽笛が、冬の空に吸い込まれていく。
それは、神なき世界の夜明けを告げる、革命のファンファーレだった。




