第八十五話『鉄の竜と、蒸気の咆哮』
「……道を開けろ。
さもなくば、この竜が……山ごと噛み砕くぞ」
ゼニスの宣言が、夜のカルデラに響き渡った。
だが、族長ガムスは、恐怖に震える足を叱咤し、戦斧を構え直した。
「……虚仮威しだ!!」
ガムスが叫ぶ。
「……あんなものは、鉄の箱だ!生き物ではない!
音と煙で脅しているだけだ!
……塩の民よ、怯むな!矢を放て!聖域を守れ!」
族長の号令に、戦士たちが弓を構える。
恐怖と使命感の狭間で、彼らの指が震えている。
「……やれやれ」
ゼニスは、ため息をついた。
「……やはり、言葉だけでは通じないか。
『信仰』を守るための暴力は、一番厄介だ」
ゼニスは運転台に合図を送った。
「……ロイド。
『全部』出せ」
「……へっ。待ってました!」
運転台で、ロイドが獰猛な笑みを浮かべる。
彼は、ボイラーの圧力弁を限界まで開放し、同時に「シリンダー・ドレン(排水弁)」を全開にした。
「……食らいなッ!!」
バシュゥゥゥゥゥッ!!!!!
爆音。
機関車の足元、左右のシリンダーから、圧縮された高温の蒸気が、水平方向に猛烈な勢いで噴射された。
それはまるで、竜が地を這うような「白いブレス」となって、最前列の部族戦士たちを襲った。
「……あ、あつッ!?」
「……前が見えねぇ!熱いッ!!」
直撃ではない。蒸気の余波だ。
だが、100度近い高圧蒸気の壁は、物理的な「熱の防壁」となって彼らを弾き飛ばした。
視界が真っ白に染まり、熱風が肌を焼く。
そして、その白い闇の中から。
ポォォォォォォォォォォッ!!!!!
鼓膜を破らんばかりの汽笛が轟いた。
それは、生物の咆哮よりも鋭く、高く、そして無機質な「死の宣告」として響いた。
「……ひ、ひぃぃぃッ!?」
「……怒った!黒竜様がお怒りだぁ!!」
戦士たちが弓を取り落とし、耳を塞いで蹲る。
彼らの信仰(常識)において、これほどの音と熱を発する存在は、神話の怪物しかあり得ない。
「……ぜ、前進!」
ゼニスが命じる。
ブレーキ解除。加減弁、開放。
ガッ、ガッ、ガッ、ガッ……!
巨大な動輪が回転し、地面を噛む。
数十トンの鉄塊が、白い蒸気を纏いながら、ゆっくりと、しかし絶対的な質量を持って動き出した。
目の前には、部族が築いた丸太と岩のバリケードがある。
「……止まるな!踏み潰せ!」
ズドォォォォン!!
衝撃音。
機関車の先端に取り付けられた排障器が、バリケードに激突した。
丸太がマッチ棒のようにへし折れ、岩が粉々に砕け散る。
止まらない。揺るぎもしない。
アイアン・ホースは、障害物を「存在しなかったもの」として蹂躙し、前進を続ける。
「……ば、馬鹿な……!」
ガムスが、へたり込んだ。
彼らの常識では、どんな獣も、どんな魔獣も、バリケードにぶつかれば止まるはずだった。
だが、この「黒い竜」は、痛痒さえ感じていない。
圧倒的な、質量の差。
文明の差。
「……か、神よ……」
ガムスの手から、戦斧が滑り落ちた。
戦う意思が、へし折られたのだ。
「……逃げろぉぉぉ!」
「……食われるぞぉぉぉ!」
部族たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、あるいはその場に平伏して命乞いを始めた。
完全なる制圧。
一滴の血も流さず(多少の火傷は負わせたが)、ゼニスたちは「恐怖」だけで道をこじ開けた。
「……停止」
ゼニスが手を挙げる。
キィィィン……プシュゥゥゥ。
機関車が、ガムスの鼻先数メートルのところで、長い蒸気を吐いて停止した。
静寂が戻る。
あるのは、ボイラーの唸り音と、部族たちの怯えた呼吸音だけ。
ゼニスは、ゆっくりとタラップを降りた。
その背後には、まだ蒸気を纏った黒い巨体が、主人の命令を待つ忠実な獣のように鎮座している。
「……勝負あったな、族長」
ゼニスは、腰を抜かしているガムスを見下ろした。
「……我々がその気なら、このまま村ごと踏み潰すこともできた。
だが、止まった。
……なぜだか分かるか?」
ガムスは、震えながら首を振った。
殺されると思っていた。
これほどの力を持つ存在が、なぜ止まるのか理解できなかった。
「……言ったはずだ。
我々は『侵略』に来たのではない。『取引』に来たと」
ゼニスは、後ろを振り返り、貨車に合図を送った。
「……店開きだ、ギデオン」
「……あいよ。……まったく、冷や汗かかせやがって」
ギデオンが、疲労困憊の顔で貨車の扉をガラリと開けた。
中は、空っぽだった。
床には、使い果たした木炭の粉と、空になった水桶が転がっているだけ。
燃料も水も、ここに来るまでの急勾配で、計算通り完全に尽きていたのだ。
ガムスが怪訝な顔をする。
だが、ギデオンはニヤリと笑い、貨車の奥――空の桶のさらに裏側に被せられていた、汚れた防水シートを剥ぎ取った。
「……おいおい、そんな顔するなよ。
ここに来るために水と炭を積めって言われた時は、捨ててやろうかと思ったが……。
……商人なら、商品は命に代えても守るもんだろ?」
シートの下から現れたのは、木箱と麻袋の山だった。
生存リソースを限界まで削り、その隙間にねじ込んで運んできた、虎の子の交易品。
「……見ろ」
ゼニスは、木箱の一つを蹴り開けた。
中からこぼれ落ちたのは、銀色に輝く「鋼鉄の農具」と、色鮮やかな「織物」、そして、瓶詰めされた「蒸留酒」だった。
「……古戦場で拾った鉄で作った、最高級の鍬と斧だ。
お前たちの黒曜石の何倍も頑丈で、よく切れる。
……そっちの袋は、保存食の干し肉と、高カロリーのクッキーだ」
部族たちの目が、釘付けになる。
彼らにとって、鉄器は貴重品であり、これほど大量の食料や酒は見たこともない宝の山だ。
「……馬車では、これだけの量は運べない。
だが、この『鉄の竜』なら、山ごと運べる」
ゼニスは、ガムスの前にしゃがみ込んだ。
「……塩をよこせ、族長。
代わりに、お前たちが一生かかっても手に入らない『富』と『文明』をやる」
それは、脅迫であり、誘惑だった。
圧倒的な「暴力」を見せつけた直後に、圧倒的な「利益」を提示する。
アメとムチの極致。
「……こ、これを……我らに……?」
ガムスが、震える手で鋼鉄の斧に触れる。
冷たく、硬く、美しい。
これがあれば、狩りも、開墾も、劇的に楽になる。
部族の生活が、変わる。
だが、ガムスの目には、まだ迷いがあった。
「……だが……塩は神の骨だ……。
穢れた下界へ流せば……祟りが……」
恐怖と実利の間で揺れる心。
その最後の「鍵」を開けるのは、力でも金でもない。
「……族長様」
ゼニスの後ろから、エリスが進み出た。
作業着は汚れているが、その瞳には、かつて聖女と呼ばれた頃の、いや、それ以上に力強い「光」が宿っていた。
「……お話させてください」
文明の衝突。
その最前線で、元聖女の言葉が、最後の壁を溶かしにかかる。




