第八十四話『岩塩の守護者』
アイアン・ホースは、白い闇を抜け、満天の星空の下に躍り出た。
「……着いたぞ」
ゼニスがブレーキをかける。
キィィィィィン……プシュゥゥゥ。
長い排気音と共に、鉄の馬が停止する。
そこは、北の山脈の頂に近い、巨大なカルデラのような盆地だった。
雪に覆われた斜面の中腹に、ぽっかりと口を開けた巨大な洞窟。
その奥から、微かにピンク色の光――岩塩の結晶が放つ燐光――が漏れ出している。
「……あれが、『塩の聖地』か」
ギデオンが、寒さに震えながら呟く。
ついに到達した。
灰色谷の命運を握る、塩の山。
だが、彼らを待っていたのは、歓迎ではなかった。
ウゥゥゥゥゥ――!!
獣の角笛のような音が、谷間に木霊する。
次の瞬間、洞窟の入り口や、周囲の雪原から、無数の「松明」が一斉に灯った。
「……囲まれたか」
マルコが工具を構える。
現れたのは、厚い毛皮を纏い、顔に赤い塗料で文様を描いた、山岳部族の戦士たち。
その数、およそ二千。
手には黒曜石の槍や、強靭な動物の腱を張った弓を持っている。
北の山脈の支配者。「塩の民」だ。
「……降りてこい、鉄の悪魔の使い魔ども!」
部族の中から、一際大柄な男が進み出た。
頭に巨大な角飾りをつけ、身の丈ほどある戦斧を担いだ、族長だ。
「……我は『塩の民』の長、ガムスである!
ここより先は、神の骨が眠る聖域。
下界の穢れた者どもが、足を踏み入れることは許さん!」
圧倒的な敵意。
彼らにとって、蒸気機関車という「黒い鉄の塊」は、聖域を侵す怪物にしか見えていない。
「……交渉だ」
ゼニスは、武器を持たずに運転台から降りた。
後ろに、ギデオンとエリスが続く。
「……俺は灰色谷の領主、ゼニスだ。
侵略に来たのではない。『取引』に来た」
ゼニスは、努めて冷静に告げた。
「……我々は塩を求めている。
お前たちが守っている岩塩を譲ってほしい。
対価は支払う。食料、鉄、酒……望むものを用意する」
だが、ガムスは鼻で笑った。
「……取引だと?
下界の人間が、我々に何を差し出せるというのだ?」
ガムスは、蔑むようにゼニスたちを見下ろした。
「……これまで、何度か下界の商人が来たことはある。
だが、奴らが持ってきたのは、腐りかけた僅かな麦と、錆びた剣だけだ。
……ここまで登ってくるだけで精一杯の、貧弱な連中だ」
物流の限界。
この険しい山脈を越えて物資を運ぶコストは、あまりに高すぎた。
だからこそ、彼らは下界の文明を「貧しいもの」と見下し、交易の価値なしと断じていたのだ。
「……それに」
ガムスの目が、鋭く光る。
「……塩は『神の骨』だ。
腐るものを腐らせず、永遠に保つ、不滅の力。
……それを、ただ腹を満たすために消費するなど、冒涜も甚だしい!」
宗教的障壁。
彼らにとって塩は調味料ではない。神聖な触媒だ。
それを「食う」ために持ち出すなど、許されない行為だった。
「……立ち去れ!
さもなくば、その黒い鉄箱ごと、谷底へ突き落としてくれる!」
戦士たちが弓を引き絞る。
一触即発。
「……マズいな」
ギデオンが脂汗を流す。
「……話が通じねぇ。
完全に『宗教』で凝り固まってやがる……。
これじゃあ、どんなに金貨を積んでも無駄だぞ」
「……どうしますか、ゼニス様」
カエルが、機関車の影でこっそりと棍棒を握る。
「……蹴散らしますか?
数はこちらが少ないですが、アイアン・ホースで突っ込めば、陣形は崩せます」
「……ダメだ」
ゼニスは即答した。
「……ここで殺し合いをすれば、塩は手に入るかもしれない。
だが、採掘の『労働力』と、現地の『知識』が失われる。
……俺たちが欲しいのは、一時的な略奪ではない。永続的な『貿易』だ」
殺して奪えば、ただの強盗だ。
それではシステムは構築できない。
必要なのは、彼らを「パートナー」として組み込むこと。
そのとき。
後ろに控えていたエリスが、ゼニスの袖を引いた。
「……ゼニス様。
わたくし……彼らの気持ちが、痛いほど分かります」
エリスは、ガムスを見つめて言った。
「……彼らは、塩を独占したいのではありません。
『神聖なもの』が、『価値の分からない者』に汚されるのを恐れているのです。
……かつての、わたくしのように」
エリスは、自分の手を握りしめた。
かつて、教会の教えだけが絶対だと信じ、科学を「穢れ」として拒絶していた自分。
だからこそ、彼らの頑なさの正体が、「未知への恐怖」と「純粋な信仰」であることを理解していた。
「……彼らに必要なのは、言葉による説得ではありません」
エリスは、静かに言った。
「……『啓蒙』です。
彼らが信じる神よりも、さらに強大な『力』と『理』を示さなければ……彼らの扉は開きません」
「……なるほど」
ゼニスは頷いた。
元聖女の言葉には、重みがあった。
相手が「神」の文脈で語るなら、こちらも「神」の如き力を見せなければ、対話のテーブルには着けない。
ならば、見せてやるしかない。
圧倒的な「文明の差」を。
ゼニスは、周囲を観察した。
洞窟の入り口には、巨大なトーテムポールが立っていた。
そして、部族の旗印にも、同じ意匠が描かれている。
鋭い牙と、長い尾を持つ、黒い獣。
(……竜、か)
ゼニスは計算する。
彼らが恐れ、崇めているのは「竜」だ。
ならば、それに合わせるのが「演出家」の仕事だ。
「……準備はいいか、ロイド」
ゼニスは、背後の機関車に合図を送った。
「……おうよ。
ボイラー圧力、臨界点だ。
いつでもイケるぜ」
ロイドが、運転台でバルブに手をかけてニヤリと笑う。
ゼニスは、ガムスに向き直った。
「……族長。一つだけ訂正がある」
「……何だ?命乞いか?」
「……俺たちが乗ってきた、これは」
ゼニスは、背後のアイアン・ホースを親指で指した。
「……ただの鉄の箱ではない。
お前たちの神を迎えに来た……『鉄の竜』だ」
「……竜、だと?」
ガムスの表情が強張る。
部族たちも、旗印の竜を見上げ、ざわめき始めた。
「……そうだ。
言葉で分からぬなら……『咆哮』で聞かせてやる」
ゼニスが手を振り下ろした。
ロイドが、バルブを全開にする。
ドォォォォォン!!
機関車の煙突と、車輪の隙間から、圧縮された高温高圧の蒸気が、爆発的に噴き出した。
「……なッ!?」
部族たちがのけぞる。
夜の闇に、白く輝く蒸気が柱のように立ち上る。
そして、山脈を揺るがすほどの、轟音が響き渡った。
ポォォォォォォォォォーーーーッ!!!!!
汽笛ではない。
それは、大気を震わせ、腹の底まで響く、巨大生物の咆哮そのものだった。
「……ひ、ひぃッ!?」
「……で、伝説の……黒竜だ!」
「……白い息を吐いているぞ!」
未知の轟音と、視界を覆う蒸気。
科学を知らない彼らにとって、それは完全に「神威」の顕現だった。
弓を取り落とし、腰を抜かす戦士たち。
ガムスもまた、目の前の「怪物」に圧倒され、後ずさった。
「……こ、これが……下界の力……なのか……?」
恐怖。畏怖。
そして、理解不能な存在へのひれ伏し。
ゼニスは、蒸気の中で悠然と腕を組んだ。
「……道を開けろ。
さもなくば、この竜が……山ごと噛み砕くぞ」
ハッタリと、科学の暴力。
まずは「心」を折る。
そして、その折れた心に、エリスの「言葉」と、ギデオンの「商品」を流し込む。
交渉の準備は整った。




