第八十三話『白い闇と、祈りの変質』
アイアン・ホースは、雲の上を走っていた。
標高は3000メートルを超え、周囲の景色は岩肌から、一面の「白銀」へと変わっていた。
万年雪。
永遠に溶けることのない氷の世界が、侵入者を拒絶するように広がっている。
「……寒い……。指が、動かねぇ……」
最後尾の工作車で、マルコが震える手でハンマーを握りしめていた。
気温は氷点下。
吐く息は白く凍りつき、まつ毛には霜が降りている。
だが、それ以上に彼らを苦しめていたのは、「空気の薄さ」だった。
「……ハァ……ハァ……。
息が……吸っても吸っても、足りない……」
高山病。
酸素濃度の低下が、肉体労働者の体力を容赦なく奪っていく。
頭痛、吐き気、そして鉛のように重くなる手足。
「……おい、マルコ!手を止めるな!
レールが途切れたら、そこで終わりだぞ!」
ロイドが怒鳴るが、彼自身の顔色も土気色だ。
ボイラーの熱気がある機関車内はまだマシだが、外でレールを敷く建設部隊は、生身で極限環境に晒されている。
「……限界か」
運転台で、ゼニスは圧力計と、作業員たちの動きを交互に見ていた。
「……進軍速度が、計算の半分以下に落ちている。
このままでは、山頂に到達する前に……『燃料』が尽きる」
炭水車を見る。
古戦場の森で調達した木炭は、すでに半分以上を消費していた。
アプト式の急勾配は、予想以上にエネルギーを食う。
「……ゼニス。引き返すなら今だぞ」
ギデオンが、弱気な声を出す。
「……これ以上進んで、燃料が尽きたら……俺たちはこの白い闇の中で、凍った彫像になるだけだ」
「……引き返して、どうする?
下界には『破門』と『飢餓』が待っているだけだ」
ゼニスは、前方の吹雪を睨みつけた。
「……進むしかない。
だが、システム(人間)の出力が限界を迎えているのも事実だ」
論理的には、進むべきだ。
だが、感情と肉体がついてこない。
寒さと酸欠による思考力の低下が、集団全体を「諦め」へと誘導し始めていた。
「……もう、ダメだ……。
こんなところで……死ぬのか……」
作業員の一人が、雪の中に座り込んだ。
それが伝染する。一人、また一人と、手を止める。
死の沈黙が、列車を包み込もうとした。
その時だった。
「……立ちなさい、マルコさん」
弱々しいが、凛とした声が聞こえた。
「……聖女……様?」
テントから這い出すようにして、エリスが現れた。
先日の魔力枯渇から、まだ回復していない。
顔色は紙のように白く、足元はおぼつかない。
リーナやカエルが止めようとするのを振り切り、彼女は雪の上に立った。
「……エリス!無茶だ!寝てろ!」
ロイドが叫ぶ。
だが、エリスは首を振った。
「……いいえ。
……みんなが、命を削って道を作っているのに……。
わたくしだけ……寝ているわけにはいきません」
エリスは、震える手でボイラーからお湯を汲み、座り込んだ作業員たちに配り始めた。
「……飲んでください。温かいお湯です……」
ただのお湯だ。だが、この極限状態では、それは命の水に等しい。
エリスは、マルコの凍えた手を、自分の両手で包み込んだ。
「……思い出してください」
エリスの声が、寒風に響く。
「……あなたたちが作った『橋』を。
あなたたちが切り拓いた『道』を。
……ここまで連れてきてくれたのは、神様ではありません。
……あなたたちの『手』と、ゼニス様の『知恵』です」
かつて、全てを神の奇跡で解決しようとしていた聖女。
その彼女が今、自らの力不足を噛み締め、神ではなく「人間の力」を信じろと訴えている。
エリスは、胸の前で手を組んだ。
だが、それは神への祈りではない。
「……お願いです。
奇跡なんていりません。
ただ……みんなの『努力』が……報われますように」
それは、信仰ではない。
理不尽な運命に対する、人間としての「願い」であり、「信頼」の表明だった。
「……へッ」
それを聞いていたロイドが、鼻をこすった。
「……奇跡はいらねぇ、か。
元聖女様にそう言われちゃあ……俺たちがやるしかねぇな」
ロイドは、ハンマーを握り直した。
「……俺の設計は完璧だ。壊れやしねぇ。
……神頼みなんぞされなくても、俺が回してやるよ!」
「……ちげぇねぇ」
マルコも、震える足に力を込めて立ち上がった。
あの華奢な少女が、倒れそうな体で立っているのだ。
男が座っていられるわけがない。
「……俺たちが作った道だ。
最後まで……俺たちが繋げなくて、どうする」
エリスの言葉が、凍りついていた彼らの心に、再び火を灯した。
非合理な精神論。
だが、極限状態においては、それこそが最後の「燃料」となる。
「……システム再起動」
ゼニスは、満足げに呟いた。
「……ドーパミンとアドレナリンによる、一時的な出力向上。
……非効率だが、悪くない」
ゼニスは、汽笛を鳴らした。
「……行くぞ!!
燃料が尽きるのが先か、頂上に着くのが先か!!
……デッドヒートだ!!」
「「「オオオオオオッ!!」」」
咆哮。
作業員たちが、再びレールを敷き始める。
寒さは変わらない。空気も薄いままだ。
だが、彼らの動きには、確かな「熱」が戻っていた。
列車は進む。
白い闇を切り裂き、一メートル、また一メートルと。
そして。
燃料計の針が、赤いライン(危険域)を指した、その瞬間。
「……おい!前を見ろ!」
先頭にいたマルコが叫んだ。
吹雪が、ふっと晴れる。
目の前に現れたのは、山頂の尾根。
そして、その向こう側に広がる――
「……あれは……?」
切り立った崖の中腹に、巨大な「洞窟」が口を開けていた。
そして、その入り口を守るように、無数の「松明」が揺らめいている。
「……人だ」
ギデオンが呻く。
松明の明かりに照らされているのは、毛皮を纏い、弓と槍で武装した、屈強な戦士たち。
「……あそこが、『目的地』か」
ゼニスは、地図を閉じた。
燃料は残りわずか。レールも尽きかけている。
だが、辿り着いた。
北の山脈の支配者。
岩塩を守護する、「塩の民」の領域へ。
「……最後の壁だ」
ゼニスは、アイアン・ホースを前進させた。
自然の猛威の次は、文明の衝突。
話も、常識も通じない相手との、交渉が待っている。




