第八十二話『急勾配と、歯車の道』
ガ、ガ、ガ、ガ……!!
腹の底に響くような、重く、硬い振動。
蒸気機関車「アイアン・ホース」は、北の山脈の急勾配を、悲鳴を上げながら登っていた。
「……クソッ! きついぞ!
油断すると押し戻される!」
運転台でロイドが叫ぶ。
機関車の腹の下に取り付けられた「歯車」が、レールの真ん中に敷かれた「歯」にガッチリと噛み合い、数千トンの鉄塊を、重力に逆らって無理やり押し上げている。
アプト式鉄道。
滑るなら、噛み合わせる。
理屈は完璧だ。だが、その実行プロセスは地獄だった。
「……剥がせ! 次だ! 急げ!」
最後尾では、マルコたち建設部隊が、泥だらけになって叫んでいた。
彼らは、列車が通り過ぎたばかりの「後ろのレール」をバールで引き剥がし、工作車へと担ぎ込む。
そこで炉とプレス機によって「歯車レール」へと加工され、また先頭へと運ばれ、敷設される。
自分の通った道を食らい、前に吐き出す。
文字通りの「自転車操業」。
一歩進むたびに退路が消えていく、狂気の行軍。
「……水だ! 水位が下かってるぞ!」
機関士の悲鳴が上がる。
急勾配を登るには、平地の数倍のパワー(蒸気)が必要だ。
第81話で「満載」にしたはずの水と木炭が、予想を遥かに上回る速度で消費されていく。
「……あとどれくらいだ、ゼニス!」
ギデオンが、煤けた顔で怒鳴り込んでくる。
「……残りの水は、あと『30分』分しかねぇ!
それまでに水源が見つからなきゃ、ボイラーが空焚きになって爆発するか……立ち往生して全員干からびるかだ!」
ゼニスは、窓の外を見た。
視界は真っ白だ。
高度が上がり、列車は今、分厚い「雲海」の中を走っている。
「……現在地は標高2000メートル付近。
予定通りなら、この雲を抜けた先に『廃鉱山』があるはずだ」
「……はずだ、で命が賭けられるかよ!」
ギデオンが自分の水筒を差し出す。
「……クソッ! 俺の飲み水を使え!
少しでも足しになれば……」
労働者たちも続く。
彼らは、自分たちが飲むはずだった命の水を、鉄の馬に飲ませようとする。
喉が焼けるように渇く。だが、馬が止まれば全員死ぬのだ。
だが、ゼニスはその手を押さえた。
「……やめろ。焼け石に水だ」
ゼニスは、冷徹に計算する。
数十人の水筒を集めたところで、数分稼げるかどうかだ。
必要なのは、もっと根本的な、膨大な質量の「水」だ。
「……水なら、ある」
ゼニスは、窓の外――視界を遮る「白い闇」を指差した。
「……どこだよ! 雲しかねぇぞ!」
「……そうだ。雲だ」
ゼニスは、工作車にいるリーナに伝声管で叫んだ。
「……リーナ! 仕事だ!
外を見ろ! 俺たちは今、水蒸気の塊の中にいる!」
「……えっ?」
「……お前の魔力で、周囲の『霧』を凝縮(液化)させろ!
気体を液体に戻し、タンクに直結させるんだ!」
「……な、なるほど!」
リーナの声が弾む。
彼女は工作車の屋根に上がり、杖を掲げた。
「……大気よ! 集い、滴りなさい!」
エントロピーの逆転。
拡散していた水分子が、魔力によって強制的に結合させられる。
ジュワァァァァ……!
機関車の周囲の霧が、一瞬で晴れた。
そして、空中で巨大な「水球」となり、給水タンクへと吸い込まれていく。
「……入った! 水位回復!」
機関士が歓声を上げる。
自然環境そのものをリソースに変える、科学と魔法のハイブリッド給水。
「……ふぅ。……悪魔みたいな発想だな」
ギデオンがへたり込む。
水は確保された。動力は維持される。
ガッ、ガッ、ガッ……!
列車は力強く加速する。
そして。
ズボッ。
アイアン・ホースが、雲海を突き抜けた。
視界が一気に開ける。
頭上には突き抜けるような青空。眼下には、見渡す限りの白い雲の絨毯。
そして、目の前には。
山肌にぽっかりと空いた巨大な穴と、その周囲に散らばる錆びついたトロッコの残骸。
「……着いた……!」
「廃鉱山」だ。
「……水だ! 坑道を探せ!」
列車が停止するや否や、マルコたちが坑道へ飛び込んでいく。
数分後。
「……あったぞぉぉぉ!! 地下水だ!!」
歓喜の叫び。
泥まみれの男たちが、岩盤の隙間から湧き出る冷たい水を浴び、飲み、そして抱き合って泣いた。
渇きからの解放。生存の確定。
「……ふぅ」
運転台で、ゼニスは深く息を吐き、煤けた顔を拭った。
後ろを振り返る。
そこには、雲海の下へと続く、一本の「歯車の道」が見えた。
だが、そのさらに後ろ、麓へと続く道はもうない。レールは全て剥がしてしまった。
「……本当に、登りきっちまったな」
ロイドが、信じられないという顔で笑う。
「……ああ。だが、まだ半分だ」
ゼニスは、さらに上、雪を頂いた山頂を見上げた。
岩塩層は、あの向こう側だ。
「……ここからは『寒さ』との戦いだ。
だが、ここ(廃鉱山)には『鉄』と『水』、そして『屋根』がある」
まずは、ここで態勢を立て直す。
列車を整備し、人間を休ませ、次なる極限環境への準備を整える。
「……休憩だ。
……全員、生き延びたことを祝え」
蒸気機関車は、山の只中で長い蒸気を吐き出し、休息に入った。
重力をねじ伏せた鉄の馬と人間たちは、雲の上の世界で、束の間の安息を得るのだった。




