第八話『箱庭の主』
その日、灰色谷の空気は鉛のように重かった。
俺たちのささやかな希望に満ちた日常は、一人の男の召喚命令によって、唐突に終わりを告げた。
看守長、ガルト。
この谷の、絶対的な支配者。
最初に呼び出されたのは、ボルカスだった。
彼は、ガルトの執務室へと続く薄暗い通路を、いつもと変わらぬ、死んだ魚のような目をして歩いていた。
だが、その背中は、普段よりもわずかに強張っているように見えた。
ガルトの執務室は、この谷で唯一、獣脂の蝋燭が煌々と灯されている場所だった。
壁には、錆びついた拷問器具が、まるで、趣味の悪い装飾品のように飾られている。
そして、部屋の隅には、巨大な蟻の巣をガラスケースに入れたような、奇妙なオブジェが置かれていた。
中でうごめく無数の蟻たちは、ガルトが気まぐれに与える餌を巡り、殺し合っている。
ガルトは、その部屋の中央に置かれた巨大な樫の木の椅子に、深々と腰掛けていた。
彼は、この谷の支配者であると同時に、この小さなガラスケースの中の神でもあった。
「……来たか、ボルカス」
その声は、低く、粘りつくようだ。
「座れ」
ボルカスは、言われた通り、ガルトの前に置かれた粗末な木製の椅子に腰を下ろした。
沈黙が、落ちる。
ガルトは、何も言わない。
ただ、その、豚のように小さな瞳で、ボルカスを値踏みするように、じっと見つめているだけだ。
蛇が、獲物を睨みつけるような視線。
十分は経っただろうか。
痺れを切らしたように、ボルカスが口を開いた。
「……ご用件は、看守長」
「ああ」
ガルトは、ゆっくりと頷いた。
「最近、谷の空気が少しばかり変わったと思ってな」
「……気のせいでは、ありませんか」
「ほう?」
ガルトの口元が、歪む。
「病人の数が、減っている。どういうことだ?」
その問いは、静かだった。
だが、その静けさこそが、嵐の前の不気味な静けさであることを、ボルカスは嫌というほど知っていた。
「……さあ。古参の連中が何か働きかけたのかもしれませんな。長年の知恵というやつです」
ボルカスは、ポーカーフェイスを崩さない。
墓守は、決して新しい墓標の在り処を自ら明かしたりはしない。
「単なる偶然ですよ」
「偶然、か」
ガルトはその言葉を、舌の上で転がすように繰り返した。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
その巨体が動くと、部屋の空気が圧迫されるように歪んだ。
彼は、ボルカスの後ろに立つと、その骨張った肩に分厚い手を置いた。
「……ボルカス。俺とお前の付き合いは長いな」
「……はあ」
「お前が嘘をつく時。この右肩が石のように硬くなる癖があるのを、俺は知っているぞ」
ボルカスの肩が、凍りついた。
ガルトは満足そうに笑った。
その笑い声は墓石を爪で引っ掻くような、不快な音だった。
「まあ、いい。下がれ」
「……」
「俺の庭を荒らす賢い鼠の正体は、もう分かっている」
ボルカスは何も言わず立ち上がると、深く一礼し、部屋を後にした。
その背中が消えるのを見送ることなく、ガルトは部下の一人に静かに命じた。
その声は、絶対零度の響きを持っていた。
「――1138番を、連れてこい」
俺がガルトからの召喚命令を受けたのは、その直後だった。
二人の看守が俺の腕を掴み、問答無用で引きずっていく。
道すがら、俺の思考システムは高速でシミュレートを開始していた。
どうすれば、生き残れるか。
どうすれば、この状況を、逆転できるか。
それは、冷たい「覚悟」だった。
俺の魂が、死という名の変数と向き合い、その先の未来を設計するために凝固していく。
そして俺は、初めてこの谷の本当の支配者の思考をシミュレートしていた。
ガルトは、なぜ、俺を殺そうとしているのか?
横領の邪魔だから?
違う。
それだけではない。
彼は、俺の中に、彼自身の「庭」を内側から食い荒らす、全く別の「法則」の匂いを嗅ぎつけたのだ。
これはもはや、看守と奴隷の戦いではない。
二人の『設計者』による、どちらかの「法則」がこの谷を支配するかを決める、最初の戦争だ。
ガルトの執務室の扉が開かれた。
俺は部屋の中央へと、乱暴に突き飛ばされる。
そして扉が、背後で重い音を立てて、閉まった。
ガルトは椅子に座ったまま、俺を見下ろしていた。
その手には、一枚の、木の皮。
俺がボルカスに見せた、排水計画の設計図の写しだった。
彼はゆっくりと、その設計図を床に落とした。
そして、その汚れたブーツでじっくりと、時間をかけて踏みつける。
俺の最初の革命の証が、ただの木の屑へと変わっていく。
ガルトは、生まれて初めて聞くような全ての熱を失った声で、こう告げた。
「――貴様か。俺の庭で、面白いお絵描きをしている鼠は」
その瞳には、怒りでも、嘲笑でもない。
まるで、昆虫学者が珍しい標本を観察するような、冷たい好奇心。
そしてその標本を、自らの手でピンで突き刺し、解剖し、
その秘密を暴き尽くした後は、何の躊躇もなく燃やすことができる、
絶対的な捕食者の無感情な眼差し。
それこそが、純粋な、そして絶対的な。
「殺意」だった。