第七十六話『破門と鉄のカーテン』
聖教騎士団が敗走してから、数日が過ぎた。
灰色谷は、勝利の喜びに沸くどころか、かつてない重苦しい空気に包まれていた。
ヴァルガスが捨て台詞のように残した、「破門」という言葉。
その意味を、住民たちは肌で感じ始めていたからだ。
代理看守長室(CEOルーム)。
CFOギデオンは、真っ白な顔で羊皮紙の束を睨みつけていた。
「……止まった」
ギデオンの声が震える。
「……何もかも、止まったぞ。
小麦の輸入、鉄の買い付け、木材の搬入……。
昨日まで動いていた全ての物流が、今日、完全に死んだ」
ギデオンは、絶望的に頭を抱えた。
「……周辺の領主たちが、一斉に国境を閉鎖したんだ。
『破門された穢れた土地とは関われない』とな。
……商人たちも来ない。サイラスの裏ルートすら、検問の強化で使い物にならなくなった」
完全封鎖。
アークライト公爵領は、世界から切り離された「陸の孤島」となった。
「……食料の備蓄は?」
ゼニスが淡々と問う。
「……ライ麦はある。だが、それだけだ」
ギデオンは、脂汗を拭った。
「……『塩』がない」
その一言が、室内の空気を凍りつかせた。
「……砂糖や油は我慢すればいい。だが、塩は違う。
塩分がなければ、人間は生きていけない。
……現在の在庫と消費量を計算した。
……あと『60日』だ」
ギデオンは、指を二本立てた。
「……二ヶ月後。この領地の人間は、筋肉が痙攣し、意識を失い、ばたばたと死に始める。
疫病よりも確実な、『生理的限界』だ」
窓の外を見る。
空は青いが、その向こう側には見えない壁――「鉄のカーテン」が垂れ込め、この地を窒息させようとしていた。
これが、神に弓引いた者への、世界からの制裁だった。
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その日の午後。
ゼニスは、領主館へと呼び出された。
アークライト公爵は、執務室で一人、チェス盤に向かっていた。
「……来たか、男爵」
公爵は、ゼニスを見ずに駒を進める。
「……状況は把握しているな?
我々は世界中から爪弾き者だ。
王都のサロンでは、私のことを『悪魔に魂を売った狂王』と呼んでいるそうだ」
公爵は、自嘲気味に笑った。
「……だが、後悔はしていない。
オルティスの老害どもに頭を下げて生き延びるより、地獄で覇を競う方が性に合っている」
公爵は、黒いキングの駒を掴み、盤上に叩きつけた。
「……だが、ゼニス。
精神論で腹は膨れん。特に『塩』はな。
この封鎖を突破できなければ、我々は冬を越せずに全滅する。
……『策』は、あるのか?」
試されている。
この男は、絶望的な状況すらも「盤面」として楽しんでいる。
ゼニスは、懐から一枚の設計図と、古びた地質調査書を取り出し、チェス盤の上に広げた。
「……あります」
「……ほう?」
公爵が眉を上げる。
そこに描かれていたのは、巨大な鉄の塊。車輪がついた、黒い円筒形の怪物。
「……これは?」
「……『蒸気機関車』です」
ゼニスは、地図上の、領内を縦断する街道を指差した。
「……封鎖網を破るには、小手先の密輸では足りません。
圧倒的な『質量』と『速度』で、物理的にこじ開ける必要があります」
ゼニスは、地図の北端、未開の山岳地帯を指差した。
「……目指すのは、ここです」
「……北の山脈か。そこには何がある?」
「……『命』があります」
ゼニスは、地質調査書を開いた。
「……太古の地質データによれば、この山脈はかつて『海底』でした。
隆起した地形の奥深くには、手付かずの『岩塩層』が眠っている可能性が高い」
「……岩塩……!」
公爵の目が鋭くなる。
「……外から塩が入らないなら、中で掘り出すしかありません。
ですが、山は険しく、馬車での輸送は不可能です。
……だからこそ、『鉄の馬』が必要です」
ゼニスは、設計図の「機関車」を叩いた。
「……こいつなら、山ごと運べます。
ついでに、その山には『鉄鉱石』と『石炭』も眠っている。
……塩で命を繋ぎ、鉄で国を富ませ、石炭で動力を得る」
「……『自己増殖』か」
「……はい。
アークライト領だけで完結する、完全な『循環型・重工業地帯』を構築します。
……輸入に頼る時代は終わりました。
これからは、我々が世界へ『輸出』する側になるのです」
輸入代替工業化。
封鎖を逆手に取り、領内の資源だけで爆発的な成長を遂げる、国家改造計画。
アークライトは、盤上の設計図を見つめ、そして、喉を鳴らして笑った。
「……くくっ。
……はははははッ!!」
公爵の高笑いが、部屋に響く。
「……最高だ、ゼニス。
世界が我々を閉じ込めたのではない。
……我々が、世界を『置き去り』にするのだな?」
「……その通りです」
公爵は、印章指輪をゼニスに向けた。
「……許可する。
領内の全資源、全労働力を徴用せよ。
山を崩し、森を切り拓き、鉄の道を敷け。
……このアークライト領を、世界最強の『工場国家』へと変貌させろ」
「……御意」
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灰色谷に戻ったゼニスは、直ちに「狂人」たちを招集した。
「……聞け。新しい『遊び(プロジェクト)』だ」
ゼニスが設計図を広げると、ロイドが目を剥いて飛びついた。
「……な、なんだこの化物はァ!?」
ロイドの手が、震えている。恐怖ではない。歓喜だ。
「……動く、ボイラー……!?
スターリングエンジンなんてもんじゃねぇ!
高圧蒸気をピストンに叩き込んで、車輪を回すだと!?
……馬鹿げてる! 最高に馬鹿げてるぜ!!」
ロイドは設計図を食い入るように見ていたが、ふと、顔を上げた。
「……だが、ゼニス様。
こいつを造る『鉄』は、どこにあるんだ?
輸入は止まってる。山に行けばあると言われても、山に行くための機関車を造る鉄がねぇぞ」
鶏が先か、卵が先か。
初期投資の矛盾(ブートストラップ問題)。
「……あるだろう、目の前に」
ゼニスは、窓の外を指差した。
そこには、かつて聖女エリスの祈りによって破壊され、赤錆の山と化した工場の残骸があった。
「……あそこだ」
「……鉄屑の山かよ!」
「……『酸化鉄』は、炭素(木炭)と一緒に熱すれば『還元』されて鉄に戻る。
……エリスが壊した過去を溶かして、未来への足へと鍛え直すんだ」
「……へっ。……リサイクルってやつか。上等だ!」
ロイドがニヤリと笑う。
ギデオンは、青ざめつつも、計算機を弾いている。
「……だがゼニス。時間がねぇぞ。
塩の備蓄はあと60日だ。
未開の山に鉄道を敷くなんて、通常なら数年はかかる大工事だぞ!?」
「……通常ならな」
ゼニスは、エリスを見た。
彼女は今、ナース服を着て、所在なげに立っている。
「……エリス。お前の『奇跡』が必要だ」
「……わたくしの、奇跡……?」
エリスが怯える。
彼女にとって奇跡とは、工場を壊し、人を不幸にした呪いのような力だ。
「……お前の力は『エントロピーの加速(風化)』だ。
それを、人ではなく『岩』に使え」
「……岩?」
「……線路を敷くには、山を切り崩し、トンネルを掘る必要がある。
ダイナマイトもツルハシも時間がかかる。
……だが、お前が岩盤に触れ、『土に還れ』と祈れば?」
「……!」
ロイドが手を叩いた。
「……なるほど!
数億年かかる『風化』を一瞬で起こして、硬い岩盤を『砂』に変えちまうってことか!
俺たちの重機で整地して、そこにレールを敷けば……爆速で開通できる!」
「……さらに、お前の『魔力感知』で、地下の岩塩と石炭を探し当てろ。
……命を吸うのではなく、地球の恵みを探し、道を切り拓くために、その力を使え」
「……!」
エリスの顔が、ぱあっと輝いた。
「……はい! やります!
わたくしの力が……誰かを傷つけずに、役に立つのなら!」
役者は揃った。
目的は、北の山岳地帯。
そこに眠る「塩」と「鉄」を食らい、鉄の血管を張り巡らせる。
「……総員、着工だ」
ゼニスは、北の空を指差した。
「……これより、アークライト領は『産業革命』の第2フェーズに移行する。
……タイムリミットは60日。
世界が俺たちを無視できなくなるまで、蒸気を上げろ」
封鎖された空の下。
鉄と蒸気の轟音が、産声を上げようとしていた。




