第七十五話『神殺しの試薬』
運命の三日目。
朝霧が晴れると共に、広場には数千の難民と、沈黙する聖教騎士団が集まっていた。
ゼニスは、広場の中央に掲示板を立てた。
そこには、残酷なまでの「事実」が記されていた。
『教会側生存率:48%』
『灰色谷側生存率:94%』
「……これが、結果だ」
ゼニスは、冷徹に告げた。
「……神に祈った者の半分が死に、俺たち(システム)に従った者の殆どが生き残った。
数字は嘘をつかない。……お前たちの『奇跡』は、敗北したんだ」
広場がどよめく。
生存者たちの顔色の差は歴然だった。教会側の患者は未だ土気色で呻いているのに対し、灰色谷側の患者は自力で歩けるまでに回復している。
「……デタラメだッ!!」
ヴァルガスが絶叫した。
彼は、震える指でゼニスを弾劾する。
「……貴様らが! 貴様らが何かしたのだ!
魔術で死体を動かしているのか、あるいは……我々の水に『毒』を盛ったなッ!?」
「……毒、か」
ゼニスは、待っていたとばかりに笑った。
「……いいだろう。ならば『毒』の正体を、今ここで暴いてやろう」
ゼニスは、テーブルの上に三つのガラス杯を用意した。
そして、懐から小瓶を取り出す。
中に入っているのは、無色透明な液体――リーナが魔力感知能力を応用して調合した、「特定有機物に反応して変色する試薬」が入っている。
「……これは、水の中の『見えない汚れ(病原菌)』に反応して、色を変える薬だ」
ゼニスは、一つ目の杯に、ロイドの蒸留器で作った「純水」を注いだ。
試薬を垂らす。
……色は、変わらない。透明なままだ。
「……見ろ。汚れのない水は、透明なままだ」
次に、ゼニスは足元の泥水を掬い、二つ目の杯に入れた。
試薬を垂らす。
……ジュワッ。
液体は瞬時に、ドス黒く、毒々しい色に変色した。
「……ひっ!?」
最前列の難民が悲鳴を上げる。
「……汚れた水は、黒くなる。……ここまではいいな?」
ゼニスは、最後の杯を指差した。
そこには、教会が配っていた「聖水」がなみなみと注がれている。
「……では、審問官。
お前たちが『清浄』だと信じ、患者に飲ませ続けてきたその水……。
果たして、何色に変わるかな?」
「……や、やめろ……!」
ヴァルガスの制止を無視し、ゼニスは試薬を垂らした。
ポチャン。
一瞬の静寂。
そして――
ドロリ。
聖水は、泥水よりも濃い、漆黒の闇色へと染まった。
「……あ……あぁ……」
広場が、凍りついた。
ヴァルガスの顔から、完全に血の気が引く。
「……バカな……。聖水だぞ……?
神の祝福を受けた、清らかな水のはずだぞ……!?」
「……これが現実だ」
ゼニスは、黒く染まった杯を掲げた。
「……お前たちは、祈りを込めたつもりだろうが……。
実際には、不潔な皮袋と、汚れた手で回し飲みをさせたことで、聖水を『病原菌の培養液』に変えていたんだ」
ゼニスは、その黒い水を地面にぶちまけた。
「……見ろ。これが、お前たちが信じた『救済』の正体だ。
お前たちは人を救っていたんじゃない。……『毒』を飲ませて、殺していたんだよ」
その一言が、決定打だった。
「……う、嘘だろ……」
「……俺たちは、毒を飲まされていたのか……?」
「……神様は……俺たちを殺そうとしていたのか……?」
難民たちの目に宿っていた信仰の光が、急速に消えていく。
代わりに宿ったのは、騙されていたことへの、どす黒い「殺意」だった。
「……人殺しッ!!」
誰かが叫んだ。
石が飛んだ。
ガゴンッ!
ヴァルガスの鎧に当たり、乾いた音を立てる。
「……へ、陛下に対する反逆かッ!?」
ヴァルガスが剣に手をかける。
だが、部下の騎士たちは動けなかった。
彼らは見てしまったのだ。
自分たちが信じていた「聖水」が、泥水よりも汚れた「毒」に変わる瞬間を。
それは、彼らの精神的支柱(信仰)がへし折られた瞬間だった。
(……我々は、守られていないのか?)
(……神のご加護がないなら……あの『病気の群衆』に触れれば、俺たちも死ぬのか……?)
信仰という鎧を剥がされた彼らは、ただの「死を恐れる人間」に戻っていた。
押し寄せる群衆が、人間ではなく、触れれば死ぬ「穢れ」の塊に見える。
「……く、来るな! 汚らわしい!」
「……触るな! 俺に感染すな!」
騎士たちが、悲鳴を上げて後ずさる。
戦意喪失。
彼らは剣を振るうことさえ忘れ、我先にと背を向けた。
「……撤退だ! 撤退しろぉぉッ!!」
ヴァルガスは、這うようにして馬車に逃げ込んだ。
聖教騎士団は、泥と石つぶてを浴びながら、無様に逃走を開始する。
神の権威は、地に落ちた。
論理と、視覚的な証拠の前に、信仰は敗北したのだ。
・
・
・
その騒乱から離れた、隔離病棟の個室。
エリスは、窓からその光景を見ていた。
点滴によって一命を取り留め、意識を取り戻した彼女は、自分が信じてきた組織が、民衆に石を投げられ逃げ惑う様を、ただ呆然と見つめていた。
ガチャリ。
扉が開く。ゼニスが入ってきた。
「……見たか、聖女」
「……はい……」
エリスの声は、枯れていた。
「……わたくしの祈りは……届かなかったのですね」
「……届かなかったのではない。
お前の祈りが、状況を悪化させていたんだ」
ゼニスは、容赦なく事実を突きつける。
「……お前が『奇跡』で無理やり生かそうとしたせいで、彼らは苦しみを長引かせ、さらなる感染源となった。
……お前の献身は、結果として『虐殺』に加担したんだ」
「……あ……ぅ……」
エリスが、胸を掻きむしる。
信じてきた正義。捧げてきた命。
その全てが、否定された。
「……そして、お前を救ったのは、神ではない」
ゼニスは、空になった点滴瓶を指差した。
「……ただの『塩』と『砂糖』と『水』だ。
お前が『悪魔の薬』と呼んだ、俺たちの『知恵』だ」
「……どうして……」
エリスは、涙を流しながらゼニスを見た。
「……わたくしの祈りは毒で……。
……あなたの砂糖水が、薬だったのですか……?」
「……そうだ」
ゼニスは、頷いた。
「……それが『物理法則』だ。
神はサイコロを振らない。奇跡も起きない。
あるのは、原因と結果だけだ」
エリスの中で、何かが砕け散る音がした。
彼女を支えていた「信仰」という背骨が折れ、彼女はただの「無力な少女」へと戻った。
「……わたくしは……ずっと……間違っていた……」
彼女は、顔を覆って泣き崩れた。
その慟哭は、聖女の死と、人間の再生を告げる産声のようにも聞こえた。
ゼニスは、それ以上何も言わず、部屋を出た。
廊下では、マルコたちが勝利に沸いている。
だが、ゼニスの表情は険しかった。
彼は知っていた。
「権威」を失った組織が、最後に何をするかを。
「……物理で勝てなければ、次は『政治』で来るぞ」
その予感は、即座に的中した。
逃走したヴァルガスは、安全圏まで退くと、アークライト領の方角に向かって、血を吐くような呪詛と共に宣言したのだ。
『……聞け! アークライトの民よ!
貴様らは神に弓引く悪魔に魂を売った!
よって、聖教会はアークライト公爵領全土に対し、最大の罰……「破門」を宣告する!』
『……今後、この地には一粒の麦も、一滴の酒も入ることはない!
世界から孤立し、干からびて死ぬがいい!』
完全封鎖。
物流の、完全なる停止。
それは、疫病以上の「死」を意味していた。
だが。
CEOルームに戻ったゼニスは、その報告を聞いても、不敵に笑っていた。
「……上等だ」
ゼニスは、地図を広げた。
そこには、領内を縦断する一本の「線」が引かれていた。
「……外から入ってこないなら、中で回せばいい。
道が閉ざされたなら……こじ開ければいい」
ゼニスは、ロイドを呼んだ。
「……ロイド。エンジンの修理は済んだか?」
「……おうよ。だが、また据え置き型を作るのか?
あんなデカブツ、また聖女みたいな奴に来られたら、いい的だぜ?」
「……ああ。だから『変える』」
ゼニスは、以前、エリスによって破壊された工場の残骸を指差した。
「……固定された心臓は、狙われれば脆い。
ならば……『動かせばいい』」
「……動かす……だと?」
「……次は『動く工場』を造る。
エンジンに車輪をつけ、鉄のレールの上を走らせるんだ」
ゼニスは、地図上の線を指でなぞった。
「……『蒸気機関車』だ。
この圧倒的な動力で、封鎖網を物理的に突破する」
神殺しは終わった。
次は、世界への反逆だ。




