第七十四話『生存率という名の審判』
翌朝。
灰色谷の空気は、張り詰めていた。
かつての大浴場――今は「第1隔離病棟」となった建物の前には、白銀の鎧を纏った聖教騎士団が、完全武装で整列していた。
その数、およそ五百。
対する灰色谷側は、丸腰のゼニスと、マスクと手袋をした数十人の「衛生部隊」のみ。
「……出てこい、異端者!」
異端審問官ヴァルガスの怒声が轟く。
「……聖女様を誘拐し、穢れた魔窟に連れ込むとは……!
その万死に値する暴挙、神に代わって裁きを下す!」
騎士たちが剣を抜き、一歩踏み出す。
殺気。
だが、ゼニスは白衣のポケットに手を突っ込んだまま、動じない。
「……誘拐? 人聞きが悪いな」
ゼニスは、背後の病棟を親指で指した。
「……俺たちは、泥の中で野垂れ死にかけていた『急患』を保護しただけだ。
お前たちが『試練』だと言って見捨てた、あの子をな」
「……貴様ッ!」
ヴァルガスが激昂する。
だが、その剣が振り下ろされることはなかった。
「……見ろ」
ゼニスが、周囲を指差したからだ。
そこには、数千の難民たちがいた。
彼らは遠巻きに、不安そうな目でこの対峙を見守っている。
昨日まで教会に縋り、見捨てられ、そして今、ゼニスたちの手によって水と食料を与えられた人々だ。
「……今、ここで俺たちを殺せば、お前たちは『聖女を救った恩人』を殺すことになる。
……その瞬間、教会の権威は地に落ち、彼らは暴徒と化すぞ」
「……民草の分際で、神の軍隊に逆らえると思うか!」
「……逆らえるさ。
『飢え』と『病』に追い詰められた人間は、神よりもパンを信じる」
ゼニスの言葉は、事実だった。
難民たちの目には、もはや以前のような盲目的な信仰の光はない。
あるのは、自分たちを見捨てた教会への「不信」と、自分たちを救ってくれたかもしれない「悪魔」への、揺れる期待だ。
ヴァルガスは、唇を噛み締めた。
政治的敗北。
ここで武力行使に出れば、教会は「救済者」の仮面を自ら剥ぎ取ることになる。
「……ならば、どうするつもりだ」
ヴァルガスは、剣を収めずに問うた。
「……聖女様を返せ。そして、この不浄な儀式をやめろ。
そうすれば、慈悲をもって処刑だけは免除してやる」
「……断る」
ゼニスは即答した。
「……彼女は今、予断を許さない状態だ。動かせば死ぬ。
それに……お前たちに返せば、また『祈り』だけで殺すつもりだろう?」
「……祈りこそが唯一の救いだ!」
「……なら、証明してみろ」
ゼニスは、広場の真ん中に、足で一本の「線」を引いた。
「……勝負だ、審問官」
ゼニスは、難民たちに向かって声を張り上げた。
「……ここにいる患者たちを、公平に分けよう!
半数は、教会が引き取れ。
残りの半数は、俺たちが預かる!」
ざわめきが広がる。
「……期限は『三日』だ。
三日間、お前たちは『祈り』と『聖水』で治療しろ。
俺たちは、『論理』と『衛生』で管理する」
ゼニスは、ヴァルガスを射抜くように見据えた。
「……三日後。
『生き残った数』が多い方が……『正義』だ」
生存率という名の、公開審判。
それは、信仰という曖昧なものを、冷徹な「数字」の土俵に引きずり込む、ゼニスの罠だった。
ヴァルガスは、鼻で笑った。
「……愚かな。
神の奇跡を、数字などで測れるものか。
だが……よかろう。
その身の程知らずな賭け、乗ってやる」
ヴァルガスには、勝算があった。
聖女は倒れたが、教会にはまだ「聖水」がある。
そして何より、神が異端者に負けるはずがないという、狂信的な自負があった。
「……ただし、条件がある。
もし貴様らが負ければ……その首、広場で晒しものにしてやる」
「……構わん」
ゼニスは、不敵に笑った。
「……だが、もし俺たちが勝てば。
……お前たちの『神』が、無能であることを認めてもらおう」
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「……臨床試験」が始まった。
広場の右側。教会陣営。
清潔なテントなどない。泥の上に敷かれた筵。
そこに、百人の重症患者が並べられた。
「……祈れ! 信仰のみが汝らを救う!」
騎士たちが香を焚き、聖典を読み上げる。
そして、患者たちに「聖水」を振りかけ、飲ませていく。
「……ありがたや……ありがたや……」
患者たちは、涙を流して感謝する。
だが、その顔色は土気色のままだ。
排泄物は垂れ流され、嘔吐物は地面に染み込み、ハエがたかっている。
「清められた」はずの聖水は、不衛生な革袋から注がれ、回し飲みされている。
対する左側。灰色谷陣営。
仮設のテント村。
入り口には、石灰が撒かれ、手洗い場が設置されている。
「……次! 服を脱げ! 焼却だ!」
「……体を拭け! 消毒液を行き渡らせろ!」
マルコたち衛生部隊が、機械のように動く。
患者たちは清潔な布にくるまれ、個別に隔離される。
そして、嫌がる患者の口に、「不味い水(経口補水液)」が流し込まれる。
一日が過ぎた。
教会側の患者が、祈りながら息絶えていく。
死体は「浄化された」として、そのまま放置される。
「……クソッ! まだ死ぬな!」
灰色谷側の患者が痙攣する。
マルコが必死に体をさすり、リーナが点滴の速度を調整する。
死体が出れば、即座に袋詰めされ、生石灰と共に埋葬(隔離)される。
そして、運命の二日目。
その差は、素人の目にも明らかになりつつあった。
教会側の陣地からは、絶え間なく死臭が漂い、お経のような祈りの声が、次第に悲鳴と嗚咽に変わっていく。
「……水……水をくれ……」
「……聖水じゃ、治らない……」
対する灰色谷側。
テントから出てくる患者たちの顔には、「生気」が戻り始めていた。
自力で立ち上がり、粥をすする者さえいる。
「……お、おい……。あっちの患者、治ってるぞ……」
教会側の騎士の一人が、震える声で呟いた。
目の前で死んでいく自軍の患者と、回復していく敵軍の患者。
その圧倒的な現実の前に、信仰が揺らぐ。
「……隊長。あの……我々も、あちらの水を分けてもらうべきでは……」
若い騎士が、ヴァルガスに進言した。
だが、その瞬間。
バキィッ!!
乾いた音が響き、若い騎士が地面に転がった。
ヴァルガスが、拳で殴り飛ばしたのだ。
「……戯け者ッ!!」
ヴァルガスは、血走った目で絶叫した。
「……貴様、悪魔の水に魂を売る気か!
これは試練だ! 神が我々の信仰心を試しておられるのだ!
死ぬ者は、信仰が足りぬから死ぬのだ!」
「……し、しかし……!」
「……黙れ! 次に弱音を吐けば、貴様も異端として処刑する!」
ヴァルガスは剣を抜き、動揺する部下たちを威圧した。
彼は気づいていたのだ。
敗北しつつある現実に。
だが、それを認めることは、自分の人生の全てを否定することになる。
だからこそ、彼は暴力と恐怖で、崩れかける組織を無理やり繋ぎ止めるしかなかった。
「……祈れ! 祈り続けろ!
奇跡は必ず起きる!」
その狂気じみた叫びは、もはや祈りではなく、自分自身への言い聞かせだった。
騎士たちは、恐怖に支配され、死んでいく患者の前で、虚ろな目で聖句を唱え続けるロボットと化した。
難民たちの視線が、完全に冷めきっていく。
あそこにあるのは救済ではない。
ただの「死のカルト」だ。
そして、運命の三日目の朝が来た。
ゼニスは、白衣を翻し、広場の中央に進み出た。
その手には、一枚の「集計表」が握られていた。
「……時間だ、審問官」
ゼニスは、冷酷に告げた。
「……『答え合わせ』をしようか」




