第七十三話『隔離病棟の悪魔』
泥の海に沈む難民キャンプ。
嘔吐と呻き声、そして死臭が充満するその地獄に、異質な集団が現れた。
頭から足先まで、真っ白な「作業着」に身を包み、顔には厚手の布、手にはゴム引きの手袋。
武器は持たず、代わりに担架と木箱を抱えた数十人の男たち。
彼らは無言で、しかし軍隊のような統率で、パニックに陥る民衆の中へ割って入った。
「……な、なんだあいつらは?」
「……教会の増援か? いや、十字架がないぞ……」
動揺する人々の前に、一人の男が進み出た。
CFO、ギデオンだ。
彼はマスク越しに、よく通る声で告げた。
「……聞け! 我々は灰色谷男爵の『公衆衛生部隊』だ!」
ギデオンは、倒れ伏す人々を見渡した。
「……教会は、お前たちを見捨てた。
『信仰が足りない』『試練だ』と言って、治療を放棄した」
ギデオンは、遠巻きにこちらを睨む聖教騎士団を指差した。
彼らは剣を構えているが、感染を恐れて一歩も近づこうとしない。
「……だが、我々は違う。
我々は、お前たちの命を『買い取る』」
「……か、買い取る……?」
瀕死の男が、うわ言のように聞き返す。
「……そうだ。
生きたい奴は、我々の指示に従え!
その代わり、治った暁には……その体で働いて返してもらうぞ!」
それは、悪魔の契約だった。
だが、見捨てられた彼らにとって、それは唯一の蜘蛛の糸だった。
「……助けてくれぇ……!」
「……働きます! 何でもしますからぁ!」
契約成立。
ギデオンが手を振り下ろす。
「……総員、作業開始!
『商品(患者)』を傷つけるな! 丁重に運べ!」
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最前線。
マルコは、泥の中に倒れている聖女エリスの元へとたどり着いた。
「……うぅ……」
エリスは、高熱に浮かされ、浅い呼吸を繰り返している。
その白いドレスは、自身の吐血と泥で、見るも無惨に汚れていた。
「……触るな、下賤な者よ!」
数メートル離れた場所から、ヴァルガスが叫んだ。
彼は剣を向けているが、その切っ先は震えている。
「……その女は『穢れ』た!
神の試練に耐えきれず、堕落したのだ!
そのような汚らわしいものに触れれば、貴様も呪われるぞ!」
マルコは、ヴァルガスを一瞥した。
軽蔑。
かつては恐怖の対象だった権威が、今はただの臆病な老人に見えた。
「……うるせぇ」
マルコは吐き捨てた。
「……あんたたちが守らなかった女の子だ。
俺たちが貰っていく」
マルコは、エリスの身体を担架に乗せた。
軽い。
数千人の命を背負い、削り続けてきた少女の体は、羽のように軽かった。
「……行くぞ!」
マルコたちが走り出す。
ヴァルガスは、それを止めなかった。
いや、止められなかった。
「穢れ」を連れ去ってくれるなら、好都合だとすら思っていたのだ。
「……連れて行け!
その『汚物』と共に、谷ごと滅びるがいい!」
負け惜しみが響く中、公衆衛生部隊は、数百名の重症患者と聖女を回収し、撤収を開始した。
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灰色谷。
かつての大浴場は、「第1隔離病棟」へと改造されていた。
「……急げ! 服を全部脱がせて焼却しろ!」
「……お湯だ! 全身を洗え!」
エララが指揮を執り、女性スタッフたちが患者の泥と汚物を洗い流す。
カミミの石鹸の香りが、死臭を上書きしていく。
「……寒い……寒いよぉ……」
震える患者たちは、清潔なシーツが敷かれたベッド(床に並べられたマットだが)に寝かされた。
床下には、ロイドが全開で回しているボイラーの配管が通っており、床暖房のように暖かい。
そこへ、白衣を着たゼニスと、マスクをしたリーナが現れた。
「……治療を開始する」
ゼニスは、木箱から大量の「小瓶」を取り出した。
中に入っているのは、透明な液体。
「……これは?」
意識を取り戻した患者の一人が、縋るように尋ねる。
「……聖水……ですか?」
「……いいや」
ゼニスは、冷徹に答えた。
「……ただの『塩』と『砂糖』を溶かした水だ」
「……は?」
患者が絶句する。
死にかけている人間に、砂糖水を飲ませる?
ふざけているのか?
「……飲め」
ゼニスは、無理やり患者の口に小瓶を押し込んだ。
「……お前たちの体は、下痢と嘔吐で『水分』と『電解質』を失っている。
ただの水を飲んでも吸収されない。
だが、この比率なら、腸が水を吸い上げる」
経口補水液(ORS)。
現代医療において、コレラ患者の死亡率を劇的に下げた、最もシンプルで強力な「特効薬」。
「……美味しくない……」
患者が顔をしかめる。
涙と汗の味がする。
「……良薬は口に苦し。
祈る暇があったら、それを飲め。
吐いてもいい。吐いた分だけ、また飲め」
ゼニスの指示は、冷酷なまでに徹底していた。
「……ロイド、室温を上げろ! ウイルス(菌)の活動を抑え、免疫を活性化させる!」
「……エララ、排泄物は即座に石灰で消毒しろ! 二次感染を防げ!」
「……リーナ、追加の補水液だ! 重症者には『点滴』を用意しろ!」
戦場のような忙しさ。
だが、そこには「迷い」がなかった。
何をすれば助かるのか。その「正解」が、共有されていたからだ。
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数時間後。
隔離病棟の隅にある、特別室(個室)。
そこに、エリスが寝かされていた。
天井からは、「真鍮のパイプ」と「ガラス瓶」で組まれた複雑な装置が吊るされている。
そこから伸びた管の先には、極細の銀色の針。
それは、ロイドが顕微鏡を覗き込みながら、神経をすり減らして削り出した、世界に数本しかない「中空の針」だった。
その針が、エリスの細い血管に刺さっている。
ポタポタと、命の水(生理食塩水とブドウ糖)が送り込まれていく。
「……う……ん……」
エリスが、うっすらと目を開けた。
視界に映ったのは、見慣れない木の天井と、鈍く光る真鍮の機械類。
そして、彼女を見下ろす、冷たい目をした男。
「……気づいたか」
「……あなたは……」
エリスは、起き上がろうとして、力の入らない体に気づく。
「……わたくしは……。
……ここは、天国ですか……?」
「……残念ながら、ここは『灰色谷』だ」
ゼニスは、点滴の速度を調整しながら言った。
「……お前は教会に見捨てられ、俺たちが拾った。
今、お前の体には、俺たちが作った『論理』が流れている」
「……くすり……?」
エリスは、自分の腕に繋がれた管を見た。
神の力ではない。職人と学者が作り上げた、人工的な器具。
「……いや……。
いやぁぁぁぁッ!!」
エリスは、半狂乱になって叫んだ。
「……汚らわしい! 抜いて!
わたくしは神の愛し子……!
悪魔の薬なんて……体が、穢れてしまう……!」
彼女は、点滴を引き抜こうと暴れる。
だが、衰弱した力では、ゼニスの腕を振りほどくことすらできない。
「……落ち着け」
ゼニスは、暴れるエリスの両手首を、片手で制圧した。
「……お前の『祈り』は、誰も救えなかった。
お前自身の命さえ、守れなかった」
「……ッ!」
「……だが、この『悪魔の薬(砂糖水)』は、お前を生かす。
現実を見ろ、聖女。
……神はお前を殺そうとしたが、俺はお前を許さない」
ゼニスは、エリスの耳元で、死刑宣告のように囁いた。
「……死ぬことは許さん。
生きて……お前の信じた神が敗北する様を、その目で見届けろ」
「……あ……あぁ……」
エリスの目から、涙が溢れる。
それは、感謝の涙ではない。
信じてきた全てを土足で踏み躙られた、絶望と屈辱の涙だった。
ゼニスは、手を離し、部屋を出ていく。
廊下には、マルコが待っていた。
「……ゼニス様。
患者たちの容体……安定してきました。
顔色が戻り始めています」
「……そうか」
ゼニスは、一度だけ振り返り、病室の扉を閉めた。
「……峠は越えた。
あとは、『数字』が出るのを待つだけだ」
生存率という名の、動かぬ証拠。
それが揃った時、本当の「審判」が下される。
隔離病棟の夜は更ける。
悪魔と呼ばれた男たちが、神に見捨てられた命を、一つ、また一つと拾い上げていく。




