第七十二話『聖女の倒れる日』
灰色谷の外縁に広がる難民キャンプは、静寂と絶望が入り混じる異界と化していた。
「……聖女様、こちらへ!」
「……私の子供を先に!」
泥と汚物にまみれた手、手、手。
数千の手が、純白のドレスを纏った少女に群がっている。
エリスは、もはや立っているのが不思議な状態だった。
純白だったドレスは泥と患者たちの吐瀉物で汚れ、美しい金髪は汗で張り付いている。
顔色は死人のように白く、唇は乾ききってひび割れていた。
「……はい……。大丈夫ですよ……」
彼女の声は、糸のように細かった。
それでも、彼女は祈りを止めない。
目の前の老婆に手をかざし、光を灯す。
老婆の顔色が戻る。歓声が上がる。
だが、エリスがふらりとよろめいた瞬間、その背後で、さっき治したはずの若者が再び倒れた。
「……あ、あれ……? また……?」
若者が腹を押さえて嘔吐する。
その嘔吐物が、近くの子供の足にかかる。
子供が泣き出し、母親がそれを汚れた手で拭う。
感染の連鎖。
目に見えない病原菌は、エリスの祈りよりも遥かに速い速度で、水を介し、手を介し、爆発的に増殖していた。
「……どうして……」
エリスの瞳が、焦点の定まらないまま彷徨う。
「……わたくしは、全て捧げました……。
命も、祈りも、全て……。
なのに、どうして減らないのですか……?」
彼女の献身は、完璧だった。
だが、「個人の献身」では「物理現象」には勝てない。
それは、バケツで洪水を止めようとするような、絶望的な徒労だった。
「……聖女様! お休みください!」
側近の騎士が、たまらず声をかけた。
騎士自身も、エリスへの「リソース供給(命の譲渡)」によって、頬がこけ、目が窪んでいる。
「……このままでは、聖女様のお体が持ちません!」
「……いいえ」
エリスは、うわ言のように首を振った。
「……救わなきゃ……。
神様が……私に力をくださったのは……救うため……。
休むなんて……罪です……」
彼女は、狂信という名の鞭で、限界を超えた肉体を無理やり動かしていた。
だが、物理的な限界は、精神論では覆せない。
その時が、来た。
「……あ……」
エリスが、ふらりと、大きく傾いだ。
彼女の視界が暗転する。
世界が回る。
そして、彼女の腹の底から、熱い塊が込み上げてきた。
「……ごほっ……!!」
エリスの口から、大量の鮮血と、どす黒い胆汁が噴き出した。
白いドレスが、毒々しい黒赤色に染まる。
「……せ、聖女様ァッ!?」
ヴァルガスが悲鳴を上げ、駆け寄ろうとした。
だが。
「……ひっ!?」
ヴァルガスの足が、ピタリと止まった。
彼が見たのは、聖女の吐瀉物の「色」と、彼女の肌に浮き出た「黒い斑点」だった。
それは、キャンプで次々と死んでいった者たちと、同じ印。
「……け、穢れだ……!」
死の恐怖。
本能的な拒絶反応が、ヴァルガスの足をすくませた。
触れれば、死ぬ。
その恐怖をごまかすように、ヴァルガスは裏返った声で叫んだ。
「……さ、触れるな! 誰も近寄るな!」
「……し、しかし、聖女様が!」
「……これは『試練』だ!
聖女様は今、一身に人々の罪を受け止めておられるのだ!
凡俗な我々が触れれば……その神聖な儀式を汚すことになる!」
それは、恐怖を正当化するための、醜い詭弁だった。
だが、同じように感染を恐れていた騎士たちは、その言葉に縋り付いた。
「……そ、そうだ……試練だ……」
「……祈ろう。我々にできるのは祈りだけだ……」
彼らは、倒れたエリスを取り囲み、遠巻きにして祈り始めた。
誰も、彼女を抱き起こさない。
誰も、泥にまみれて喘ぐ彼女の背中をさすらない。
「……うぅ……あぁ……」
エリスは、薄れゆく意識の中で、遠ざかっていく騎士たちの声を聞いていた。
誰も助けてくれない。
神の使徒である彼らが恐れているのは、神ではなく、「病」なのだ。
それが、彼女が信じ、尽くしてきた組織の正体だった。
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灰色谷・CEOルーム。
ゼニスは、懐中時計の蓋を、パチンと閉じた。
「……崩壊したな」
窓の外。
望遠鏡を覗いていたギデオンが、息を呑んで振り返る。
「……倒れた。……騎士団は……誰も助けようとしない。
……あいつら、聖女が汚れた途端に、見捨てやがった」
「……想定通りだ」
ゼニスは、椅子から立ち上がった。
その表情に、憐憫はない。あるのは、これから始まる「仕事」への、冷徹な集中力だけだ。
「……システムがダウンした。
今、あのキャンプは無政府状態だ。
『信仰』という名のOSが機能を停止し、民衆は路頭に迷っている」
ゼニスは、部屋に待機していたメンバーを見渡した。
ロイド、エララ、リーナ。後方支援部隊の準備は万端だ。
そして、最前線へ向かうマルコと若手労働者たち。
彼らは、口元を布で覆い、手袋をしているが、その顔は蒼白だった。
「……行くぞ」
ゼニスは、白衣(清潔な作業着)を羽織った。
「……マルコ。第一班は『隔離』だ。
重症患者と軽症患者を分けろ。
そして、倒れている聖女エリスを……最優先で確保しろ」
「……えっ? 聖女を、ですか?」
マルコの声が震える。
「……あの中へ……飛び込めって言うんですか?
あの『黒い泥』に触れたら……俺たちだって……」
恐怖。
見えない死神への、根源的な恐れ。
騎士団ですら足がすくんだ地獄へ、踏み込めという命令。
ゼニスは、マルコの両肩を掴んだ。
「……マルコ。恐怖は『無知』から来る」
ゼニスは、マルコの口元の布と、手袋を指差した。
「……その装備は、ただの布じゃない。俺が設計した『防壁』だ。
接触と飛沫さえ防げば、病原菌は侵入できない。
……俺の『計算』を信じろ」
マルコは、ゼニスの瞳を見た。
そこには、一点の曇りもない「確信」があった。
今まで、廃鉱山の危機も、冬将軍の脅威も、すべて計算通りに乗り越えてきた男の目。
マルコは、震える手で、口元の布をきつく縛り直した。
「……信じます。
……あなたが『大丈夫だ』って言うなら……地獄の底でも行きますよ」
若者たちの目に、覚悟の光が宿る。
それは狂信ではない。
「知識」と「信頼」に裏打ちされた、本物の勇気だ。
「……よし」
ゼニスは、ギデオンに向き直る。
「……ギデオン。お前は『交渉』だ。
パニックになった民衆に、こう告げろ。
『教会が見捨てた命を、我々が買い取る』と」
「……了解だ。
……悪魔の契約、結んでくるぜ」
ゼニスは、最後に全員に告げた。
「……これは『治療』ではない。『戦争』だ。
敵は目に見えない病原菌。そして、凝り固まった『信仰』だ」
ゼニスが、扉を開け放つ。
清潔な風が、淀んだ部屋の空気を吹き飛ばした。
「……総員、出動。
『公衆衛生部隊』、ミッションを開始する」
「「「応ッ!!」」」
灰色谷の門が開く。
飛び出したのは、武器を持たない軍隊。
石鹸と水と、論理で武装した、神殺しの部隊。
泥の海に沈む難民キャンプへ。
今、本当の「救済」が、介入を開始する。




