第七十一話『泥の病とパンデミック』
灰色谷の外縁、かつては新緑が広がっていた草原は、今やどす黒い泥濘に変貌していた。
聖女の奇跡を求め、周辺の村々から押し寄せた難民や巡礼者は、数千人規模に膨れ上がっていた。
彼らはテントを張り、密集し、排泄物を垂れ流し、そして泥水を啜っていた。
悪臭が充満するキャンプ。
衛生観念など存在しない、中世の地獄絵図。
そこへ、見えない死神が舞い降りた。
「……お、おい! どうした!」
一人の男が、突然激しい嘔吐と共に倒れた。
続いて、激しい下痢。
排泄物は泥水のように止まらず、急速に脱水症状に陥り、肌が土気色に変色していく。
「……泥の病だ!」
誰かが叫んだ。
この世界で最も恐れられる、原因不明の致死病。
現代で言う、「コレラ」あるいは「赤痢」の発生だった。
感染は、爆発的だった。
汚染された井戸水を飲み、汚物にまみれた手でパンを食べた人々が、次々と倒れていく。
数時間で、キャンプはうめき声と死臭に包まれた。
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「……静まれ! 恐れることはない!」
パニックに陥る民衆の前に、異端審問官ヴァルガスが立った。
彼は、遠くに見える灰色谷の工場――今は残骸となっているが――を指差して叫んだ。
「……これは『呪い』だ!
あの悪魔の工場が吐き出した、黒い煙が空気を汚し、お前たちに病をもたらしたのだ!」
巧みな扇動だった。
衛生環境の悪化という「物理的原因」を、工場の「呪い」という「オカルト」にすり替える。
民衆の憎悪が、灰色谷に向けられる。
「……殺せ! 男爵を殺せば病は治る!」
暴徒と化した一部が、谷の入り口へ殺到しようとする。
だが、彼らは数歩走っただけで、膝から崩れ落ちた。
脱水による衰弱。
怒り狂う力さえ、病魔は奪っていた。
「……聖女様! お助けください!」
「……もう、あなたしかいないのです!」
絶望した人々は、最後の希望、純白の馬車へと群がった。
泥だらけの手が、白い車体に無数に伸びる。
馬車の扉が開いた。
エリスが降り立つ。
その顔は蒼白で、足元はふらついていた。
連日の「奇跡」の乱発で、彼女のリソースは限界に近い。
だが、彼女は慈愛の笑みを浮かべた。
「……かわいそうに。
大丈夫ですよ。わたくしが、全て『浄化』してあげますから」
エリスは、瀕死の老婆に手をかざした。
祈りを捧げる。
――カッ!
光が溢れ、老婆の顔色が戻る。
下痢が止まり、熱が引く。完全な治癒。
「……おお! 治った! 奇跡だ!」
「……聖女様万歳!」
歓声が上がる。
エリスは次々と患者に触れ、治していく。
十人、二十人、五十人……。
だが、治しても治しても、行列は減らなかった。
むしろ、噂を聞きつけた患者が後ろに並び、列は伸びていく一方だった。
「……はぁ、はぁ……」
エリスの額に、脂汗が浮かぶ。
眩暈がする。だが、求めてくる手は無くならない。
(……おかしいわ)
エリスは、ふと違和感を覚えた。
さっき治したはずの子供が、列の少し離れたところで、泥のついた手でパンを食べている。
そして、そのパンを、まだ治っていない病気の父親と分け合っている。
(……仲が良いのは素敵だけれど……)
数時間後。
その違和感は、絶望へと変わった。
「……せ、聖女様……!」
担架で運ばれてきたのは、さっき完治させたはずの、あの子供だった。
再び顔色は土色になり、激しく嘔吐している。
「……え?」
エリスの手が止まった。
「……どうして?
わたくし、さっき、完全に治したはずですわ……?」
「……わ、わかりませぬ!
治ったと思って水を飲んだら、また急に……!
聖女様、どうか、どうかもう一度!」
父親が泣きすがる。
エリスは混乱した。
奇跡は完璧だったはずだ。神の力に間違いなどないはずだ。
なのに、なぜ?
「……祈りが、足りなかったの?」
彼女は再び奇跡を行使する。子供は治る。
だが、その横で、今度はその父親が倒れる。
そして、その父親の看病をしていた母親も倒れる。
治せば治すほど、患者が増えていく。
まるで、穴の開いた船から水を掻き出しているような、終わりのない徒労感。
「……どうして……減らないの……?」
エリスの瞳から、光が消えていく。
神の愛し子である彼女には見えていなかったのだ。
目に見えない「病原菌」という悪魔が、水と接触を通じて、幾何級数的に増殖している現実が。
個人の奇跡が、物理的な感染拡大数に、完全敗北しつつあった。
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灰色谷・CEOルーム。
ゼニスは、遠見の魔導具でその地獄絵図を冷徹に観察していた。
「……始まったな」
傍らのギデオンが、青ざめた顔で口元を押さえる。
「……ひでぇ……。
治しても治しても、次から次へと感染してる……。
あれじゃあ、聖女がいくら頑張っても無駄だ」
「……当然だ」
ゼニスは、ホワイトボードに「感染率(Rノート)」のグラフを描いた。
「……公衆衛生学の基本だ。
感染源(水と排泄物)を隔離しない限り、治療行為は『無駄』だ。
……彼女は今、感染の連鎖という『システム』と戦っている。個人で勝てる相手じゃない」
「……ゼニス様!」
マルコが、悲痛な声を上げて飛び込んできた。
「……助けましょうよ!
谷には『石鹸』も『綺麗な水』もある!
俺たちが行けば、彼らを助けられるはずです!」
ルナも、涙ながらに訴える。
「……兄さん、ゼニス様。
あそこには、子供たちもいるんです。
聖女様お一人では、もう無理です……!」
二人の訴えは正しい。
人道的には、今すぐ動くべきだ。
だが、ゼニスは首を横に振った。
「……まだだ」
「……どうしてですかッ!」
「……見ろ」
ゼニスは、窓の外を指差した。
パニック状態のキャンプでは、未だにヴァルガスが叫んでいる。
『……祈れ! 信仰が足りないから再発するのだ!』
『……灰色谷の悪魔が、新たな呪いをかけたに違いない!』
民衆は、その言葉を信じ、灰色谷の方角に石を投げている。
「……彼らはまだ、俺たちを『敵』だと思っている。
今、俺たちが『水』や『石鹸』を持って行っても、彼らはそれを『毒』だと思って拒絶するだろう。
……あるいは、暴徒となって俺たちを殺し、物資を奪うだけだ」
ゼニスは、冷酷に告げた。
「……『信頼』なき『支援』は成立しない」
「……っ!」
「……待つのだ。
彼らの『信仰』という名の酔いが覚めるのを。
……目の前の奇跡が、自分たちを救えないのだと、骨の髄まで理解する時を」
それは、トリアージ(命の選別)だった。
システムをインストールするためには、まず古いOS(信仰)が完全にクラッシュする必要がある。
「……見ていろ」
ゼニスは、望遠鏡を、ふらつく聖女へと向けた。
キャンプの中央。
エリスは、もはや立っているのも不思議なほど消耗していた。
顔色は死人のように白く、呼吸は浅い。
それでも、彼女は震える手で患者に触れ続けている。
「……救わなきゃ……。
わたくしが……神様の御心を……」
彼女のドレスは泥と汚物にまみれ、かつての神々しさは見る影もない。
あるのは、狂気じみた自己犠牲と、終わらない徒労だけ。
「……限界点は、近い」
ゼニスは、懐中時計を取り出した。
秒針が、無機質に時を刻む。
「……彼女という『個』のシステムが焼き切れるまで、あと僅かだ。
……その瞬間こそが、俺たちが介入できる唯一の『特異点』だ」
ゼニスは、動かない。
ただ、その時を待つ。
聖女の祈りが届かなくなる、その瞬間を。
神の奇跡が、物理的な限界に敗北する、その時を。
灰色谷は、嵐の前の静けさの中で、
崩壊のカウントダウンを刻み続けていた。




