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第七話『闇商人の影』


ささやかな奇跡から、三日が過ぎた。


灰色谷は静かだった。

だが、その静けさの質は、以前とは明らかに異なっていた。


俺の挑戦を受け入れたボルカスは、公式には何も行動を起こさなかった。

墓守は、墓守の仮面を決して外さない。


だが、彼は俺の行動を「黙認」した。

まず、配下の奴隷たちのほとんどにこう告げたらしい。



「……あの小僧は新しい墓標を立てようとしている。死にたくなければ、近づくな」



ただし、彼は自らが最も信頼する部下だけには、こう付け加えていた。



「――だが、万が一あの小僧の設計図が本物なら、この谷は変わる。


ワシは表立っては動かん。だが、お前たちの技術が何かの間違いであの小僧の助けになったとしても……ワシは、それを見なかったことにしよう」



それは、この谷において事実上の「許可」を意味した。



俺はすぐに行動を開始した。

と言っても、大々的なものではない。


協力者は、俺を含めてたったの五人。

ボルカスの息のかかった、腕の良い石工や、測量の心得がある老人たちだけだ。

俺たちは、夜の見張りの目が緩むわずかな時間を見つけては、秘密裏に寝床の排水計画を進めた。

それは、地味で、骨の折れる作業だった。


だが、変化は確実に現れた。

三日後には、常に澱んでいた寝床の隅の汚水が、俺の設計した目に見えないほどの傾斜がついた溝を伝って、岩盤の裂け目へと静かに流れ落ちるようになったのだ。


空気が、変わった。

鼻を突く腐臭が和らぎ、病を訴える者の数が明らかに減った。

それは革命などという大げさなものではない。

ほんのささやかな、しかし、目に見える「希望」だった。


奴隷たちの俺を見る目が、少しずつ変わっていく。

嘲笑と侮蔑は、畏怖と、そして、かすかな期待へと。


彼らはまだ、俺を完全には信じていない。

だが彼らの心の中に、「暴力以外の何か」がこの谷を変えるかもしれないという、小さな種が植え付けられたことだけは確かだった。


俺はその変化を、冷静に観察していた。

ボルカスとの賭けに勝って得た、あの温かい高揚感。

だが、今の俺の心を占めているのは、それとは別の新しい感覚だった。


俺のシステムが、警鐘を鳴らす。

これは予感などという非合理なものではない。

システム監査だ。


俺は、この灰色谷という名の閉じたシステムに変更を加えた。

入力インプットは、俺の知識。

出力アウトプットは、3%の生産性向上。


だが、このシステムにはまだ俺が観測できていない、無数の『隠れた変数』が存在する。

俺の『利益』は、必ずどこかの『損失』と相殺されていなければ、計算が合わない。

問題は、その損失を被った変数が、いつ、どのような形で俺に牙を剥くか、だ。



――その頃。


灰色谷から、荷馬車で半日ほど離れた宿場町。

その薄汚れた酒場の一番奥の席で、一人の男が忌々しそうに酒を呷っていた。


男の名は、サイラス。


表向きは、しがない行商人。

だが、その裏の顔は、灰色谷の腐敗が生み出す「富」を谷の外へと流す闇商人だった。

彼の目の前には、ガルト――灰色谷の看守長――の腹心の部下が、額に汗を浮かべながら座っている。



「――で、今週はこれだけか?」



サイラスは、テーブルの下で受け取った麻袋の重さを確かめながら、低い声で言った。

袋の中身は、灰色谷から横流しされた黒パンの原料、ライ麦粉だった。


看守長ガルトが、病欠した奴隷の数を水増しして報告し、その差額分の原料をこうしてサイラスに売りさばいているのだ。

それは、彼らの長年の、そして、安定した収入源だった。



「……申し訳ありません、サイラス様」



ガルトの部下が頭を下げる。



「それが、どうも、最近……」



「何だ、歯切れが悪いな」



サイラスの目が鋭く光る。



「いいから言ってみろ。」



その問いに、ガルトの手下は忌々しそうに吐き捨てた。



「…少し、谷で賢い鼠が湧いてまして」



「鼠?」



「ええ。何やら、奴隷の寝床を勝手にいじくり回している奴がいるらしくて。そのせいで病気になる奴が減っちまったんですよ」



「……ほう。賢い鼠、か」



サイラスは、面白そうに口の端を吊り上げた。

その目はもはや、笑っていない。

自らのテリトリーに現れた未知の競合相手を分析する、冷徹な商人の目だ。



「――いいか。ガルトに伝えておけ。その鼠がただの気まぐれな善人なら、問題ない。

だが、もし、その鼠が俺たちの『市場』に興味を持っているのだとしたら…」



サイラスは一度、言葉を切った。 そして、絶対零度の声でこう告げる。



「――ハイエナの縄張りでビジネスを始めるのがどういうことか。

教えてやる必要がある、とな」



その言葉に、手下は満足そうに頷いた。

そして酒を一気に飲み干す。


グラスをテーブルに、ドン、と叩きつける。

その音は酒場の喧騒には少しも響かなかった。


だがそれは、狙撃銃の引き金が引かれた音に、よく似ていた。

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