第六十八話『燃える教科書』
灰色谷の朝は、死んでいた。
かつて響いていた工場の稼働音も、蒸気の噴き出す音も、今はもうない。
あるのは、赤錆びて崩れ落ちた鉄骨の山と、それを飲み込むように異常繁茂した蔦の緑だけ。
「……仕事が、ねぇ」
広場に集まった元奴隷たちが、呆然と立ち尽くしている。
工場が止まれば、製麦所も止まる。燃料も要らない。輸送も要らない。
たった一日で、彼らの「生活」は崩壊した。
そこへ、白い影が忍び寄る。
聖教騎士団の兵士たちが、不安に怯える住民たちの間を歩き回り、甘い毒のような言葉を囁き始めたのだ。
「……見たか? あの爆発を」
「……あの黒い煙が、空を汚していたからだ」
「……聖女様が『浄化』してくださらなければ、お前たちは全員、あの業火に焼かれていたのだぞ」
巧みな「すり替え」だった。
実際にはエリスが引き起こした爆発を、彼女が「食い止めた」かのように流布する。
だが、それだけではない。彼らは、元奴隷たちが抱える、さらに深い「劣等感」を刺激した。
「……聞いたぞ。男爵は、お前たちに『文字』や『計算』を強制しているそうだな?」
兵士は、同情するように住民の肩を抱いた。
「……辛かったろう。
お前たちは、そのままで素晴らしいのに。
なぜ、わざわざ『難しいこと』を考えなきゃいけないんだ?」
「……え?」
「……文字なんて読めなくても、神様は愛してくださる。
知恵の実を齧ったから、人間は楽園を追放されたのだ。
……難しいことを考えるから、不幸になる。
何も考えず、ただ祈ればいい。そうすれば、神が全てを与えてくださる……」
それは、ゼニスが強いた「自立(おも荷)」からの、甘美な逃避の提案だった。
昨日まで、「勉強しなければ」と必死になっていた彼らの心が、その言葉に救いを見出してしまう。
「……そうか。俺たちが悪かったのか……?」
「……俺たちみたいな馬鹿が、賢くなろうとしたから……バチが当たったんだ」
恐怖と劣等感が、化学反応を起こす。
昨日までの「向上心」が、一瞬にして「憎悪」へと反転した。
「……全部、あいつらのせいだ!」
「……俺たちを唆かした、悪魔の道具を壊せ!」
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午後。
広場で誰かが叫んだ。
「……元凶はどこだ!」
「……俺たちを不幸にする、呪いの文字だ!」
「……そうだ! 『学校』だ!!」
数百人の群衆が、鍬や棒を手に、木造の校舎へと殺到する。
そこには、マルコが立ちはだかっていた。
「……や、やめろ! みんな、どうしちまったんだよ!」
マルコは、必死に両手を広げた。
「……ここは、子供たちが勉強する場所だぞ!
ゼニス様が……俺たちのために作ってくれた、未来なんだぞ!」
「……うるせぇ! どけマルコ!」
かつての同僚が、血走った目でマルコを突き飛ばす。
「……未来だと? 工場が爆発するのが未来かよ!」
「……俺たちは、もう『勉強』なんてしたくないんだ!」
「……燃やせ! 悪魔の本を燃やせば、許してもらえる!」
群衆が、校舎になだれ込む。
机がひっくり返され、黒板が叩き割られる。
そして、子供たちが大切に使っていた「教科書」――ゼニスとギデオンが手書きで作った、知識の結晶――が、次々と校庭に放り出された。
「……やめて……やめてよぉ……」
子供たちが泣き叫ぶ。
だが、恐怖に駆られた親たちは止まらない。
誰かが、松明を投げ込んだ。
ボッ。
乾燥した紙が、炎を上げる。
『1+1=2』。
『価値は自分で決める』。
ゼニスが教えた「論理」と「自立」の言葉が、炎の中で黒く縮れ、灰になっていく。
その炎の向こう。
聖女エリスが、馬車の窓からその光景を見ていた。
彼女は、満足げに微笑み、胸の前で十字を切った。
「……よかった。
これで、子供たちの魂も……『穢れ』から解放されますね」
彼女には、焚書の炎が、浄化の聖なる灯火に見えているのだ。
その横で、ルナが震えていた。
「……兄さんが作った本が……」
ルナは、十字架を握りしめる。
悲しい。胸が張り裂けそうだ。
だが、彼女は止めることができなかった。
(……これは、神様の御心なの?
……兄さんたちは、間違っていたの?
……だから、あんな恐ろしい爆発が起きたの……?)
彼女の純粋な信仰が、目の前の暴力を正当化しようとしていた。
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CEOルーム。
窓ガラスに、校庭の炎が赤く反射している。
部屋の中には、重苦しい殺気が充満していた。
カエルが、血走った目で棍棒を握りしめ、ゼニスの前に跪いている。
「……ご命令を、ゼニス様」
カエルの声は、地獄の底から響くようだった。
「……あれは、暴動です。
『治安維持法』に基づき、武力鎮圧を許可してください。
……俺と警備隊が出れば、5分で制圧できます」
ギデオンも、真っ青な顔で叫ぶ。
「……やらせろ、ゼニス!
このままじゃ、俺たちの投資が全部灰になる!
あいつら、恩を忘れやがって……力ずくでも止めなきゃダメだ!」
ゼニスは、窓の外を見つめたまま、動かなかった。
その拳は、白くなるほど強く握りしめられ、爪が食い込んで血が滲んでいる。
止めたい。
今すぐ飛び出して、あの愚かな暴徒たちを怒鳴りつけ、炎を消し止めたい。
あそこにあるのは、ただの紙束ではない。
彼がこの世界で初めて見出した希望――「次世代への教育」そのものなのだから。
だが。
「……ならん」
ゼニスは、絞り出すように言った。
「……カエル。待機だ」
「……なっ!? なぜですか!」
カエルが食い下がる。
「……今、俺たちが武力で彼らを制圧すればどうなる?
……教会はこう言うだろう。『見ろ、やはり悪魔は正体を現した』とな」
ゼニスは、血の滲む拳を開いた。
「……彼らは今、『恐怖』に支配されている。
そこで俺たちが『暴力』を使えば、俺たちは彼らにとって『支配者』と同じになる。
……そうなれば、民心は永遠に離れ、二度と戻らない」
「……ですが……!」
「……耐えろ」
ゼニスの声には、悲痛な響きがあった。
「……教科書は、また書けばいい。校舎は、また建てればいい。
だが……『信頼』は、一度壊せば、二度と戻らない。
……今は、彼らに『吐き出させる』しかないんだ」
それは、合理的な判断だった。
だが同時に、設計者としては、身を切られるような決断だった。
自らの作品が燃やされるのを、指をくわえて見ていることしかできないのだから。
校庭の隅。
泣きながら燃える教科書を見つめる、数人の子供たちと、マルコの姿があった。
彼らは、親たちのように狂乱していない。
ただ、奪われた理性を、悲しんでいる。
「……見ろ。学校は燃えたが、彼らは『知識』までは燃やせていない」
ゼニスは、その小さな希望だけを心の支えにし、燃え落ちる校舎を見届けた。
「……一度『知性』の味を知った者は、簡単には元に戻れない。
……火種は残っている」
騒乱が鎮まり、夜が来た。
灰色谷は、深い絶望と、気まずい沈黙に包まれていた。
そこへ、最後の追い打ちがかかる。
アークライト公爵がいる、北の砦からの「伝令」が届いたのだ。
その内容は、教会による弾圧よりもさらに冷酷な、
ゼニスたちへの「死刑宣告」にも等しいものだった。




