第六十七話『錆びつく心臓と、熱い雪』
灰色谷の午後は、死んだように静まり返っていた。
工場の稼働音も、子供たちの勉強する声も消えた。
あるのは、数百の蹄が地面を叩く音と、鎧が擦れる金属音だけ。
「……聖教騎士団」
ゼニスは、学校の前に整列した白銀の騎士たちを、冷徹に見据えていた。
その中央に停められた、純白の装甲馬車から、一人の老騎士が降り立つ。
異端審問官、ヴァルガス。
「……お初にお目にかかる、灰色谷男爵。
我々は聖教会の名において、貴公らが製造している『悪魔の兵器』の査察に参った」
「……兵器? 何のことでしょう」
ゼニスは、表情一つ変えずに即答した。
「……我々が作っているのは『農具』と『食料』だけです。
王都への報告書にも、そう記載しているはずですが?」
以前、グレイと共に仕込んだ隠蔽工作だ。
だが、ヴァルガスは鼻で笑った。
「……『農具』、か。
農具で、帝国軍の重装歩兵を貫けるのかね?」
「……ッ」
ゼニスの眉が、わずかに動く。
「……北の戦線から帰還した兵士たちが、酒場で怯えながら話しておるよ。
『雷のような音と共に、見えない刃が敵を薙ぎ払った』とな。
……貴公、紙切れ一枚の報告書で、神の目をごまかせると思ったか?」
ヴァルガスは、工場の黒い煙突を見上げた。
「……異常な戦果には、異常な理由がある。
そして、神の理を外れた力は、すべからく『異端』である」
ゼニスは、拳を握りしめた。
(……戦果が、大きすぎたか。
『勝利』そのものが、奴らを呼び寄せる狼煙になってしまった……!)
因果は巡る。
彼らが生き残るために生み出した「力」が、今、最大の「敵」を招いたのだ。
「……問答は不要だ。
隠しても無駄だぞ。『モノ』が語らずとも……『聖女様』には、全てお見通しなのだからな」
ヴァルガスが恭しく馬車の扉を開ける。
そこから、一人の少女が舞い降りた。
黄金の髪。宝石のような碧眼。
汚れ一つない純白のドレス。
その姿は、この煤けた工業地帯において、あまりにも異質で、あまりにも「神聖」だった。
聖女、エリス。
「……まあ」
彼女は、ゼニスを一瞥もしなかった。
武装したカエルも、怯えるギデオンも、彼女の眼中にはない。
彼女は、耳を塞ぐようにして、顔をしかめていた。
「……聞こえます。
……悲鳴が、聞こえますわ」
「……悲鳴?」
ゼニスが怪訝な顔をする。
工場は稼働しているが、ロイドの整備のおかげで異音はないはずだ。
だが、エリスの瞳が捉えていたのは、ただ一つ。
黒い煙突と、唸りを上げる巨大な工場そのものだった。
「……かわいそうに」
エリスの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……あんなに、熱を出して……。
あんなに、苦しそうに叫んで……。
……大地が、泣いていますわ」
彼女には、ロイドが心血を注いだ「スターリングエンジン」の駆動音が、断末魔の悲鳴に聞こえているのだ。
回転するシャフトが、無理やり動かされる拷問に見えているのだ。
それは、文明に対する、根源的な生理的嫌悪だった。
「……おい、待て」
ゼニスの背筋に、悪寒が走った。
殺気ではない。
もっと異質な、「理解不能なベクトル」からの干渉を予感した。
「……やめろ。あれに触れるな」
ゼニスが制止しようと踏み出す。
だが、ヴァルガスが剣の柄に手をかけ、立ちはだかる。
「……控えろ、異端者。
聖女様が、『救済』を捧げようとしておられる」
エリスは、周囲の制止など聞こえていないかのように、ふらふらと工場へ歩み寄る。
そして、工場の冷たい鉄の壁に、そっと白く華奢な手を触れた。
「……ごめんなさいね。
無理やり動かされて……痛かったでしょう?」
彼女は、聖母のような慈愛に満ちた笑顔で、告げた。
「……もう、眠っていいのよ」
彼女が、祈った。
その瞬間。
世界の色が、反転した。
「……ッ!?」
ゼニスの「具現設計」が、警報を鳴らす。
工場の鉄骨から、配管から、シャフトから。
「構成原子」が、急速に組み替えられていく。
ギギギギギギギギ……ッ!!
耳をつんざくような、金属の悲鳴。
ロイドが精魂込めて鋳造した、輝く鋼鉄のシャフトが。
見る見るうちに、赤黒く、醜い「錆(酸化鉄)」へと変貌していく。
「……なっ!?」
ロイドが絶叫した。
「……俺の鉄が!! 腐っていく!!」
だが、ゼニスが見ていたのは「錆」ではなかった。
彼の科学的視座が捉えたのは、その現象に伴う「物理的代償」だ。
鉄が錆びる。それは「酸化反応」だ。
酸化とは、緩やかな「燃焼」である。
通常、数十年かけて起きるその反応が、今、たった数秒に圧縮されているとしたら?
数十年分の「酸化熱」が、一瞬で放出されるとしたら?
「……ロイド!! 離れろ!!」
ゼニスは、喉が裂けよとばかりに叫んだ。
「……『熱』だ!! 爆発するぞ!!」
その警告と同時だった。
ドシュゥゥゥゥゥゥッ!!
錆びついた鉄塊から、猛烈な白煙が噴き上がった。
魔法の煙ではない。
鉄の急激な発熱により、冷却水が一瞬で沸騰した、「水蒸気爆発」だ。
「……あ、あつッ!?」
近くにいた工員たちが、熱波に煽られて吹き飛ぶ。
赤錆びたシャフトは、自らの発する高熱で飴細工のようにぐにゃりと曲がり、自重に耐えきれず崩落した。
ガギィィィィン!!
轟音。
工場の心臓部、スターリングエンジンのシリンダーが、熱膨張に耐えきれず破裂する。
高圧の蒸気が吹き荒れ、建屋の窓ガラスをすべて粉砕した。
「……嘘だろ……」
ギデオンが、へたり込む。
マルコが、悲鳴を上げて逃げ惑う。
地獄絵図。
だが、その爆心で。
聖女エリスだけが、熱風に髪を揺らしながら、無傷で微笑んでいた。
「……ほら。
悪い熱が、逃げていきます」
彼女は、赤熱し、崩れ落ちた鉄屑の山を見て、満足げに言った。
「……土に還してあげましょうね」
彼女の足元から、急速に「植物」が芽吹いた。
蔦が、蛇のように瓦礫に絡みつき、焼け焦げた工場を緑で覆い尽くしていく。
それは再生ではない。
人工物を自然物で塗り潰す、「文明の埋葬」だった。
数分後。
そこには、赤錆びた鉄屑と、それを飲み込む巨木だけが残された。
工場は、死んだ。
灰色谷の心臓は、物理的に、そして概念的に、停止した。
静寂が戻る。
だが、それは以前の心地よい稼働音のある静寂ではない。
文明が死滅した後の、墓場のような静けさだった。
「……あ、あぁ……」
ロイドが、瓦礫の前で膝をついた。
彼が命を削って作り上げた結晶が、ただの産業廃棄物になっている。
「……神様……」
その光景を見て、ルナが、震える声で呟いた。
彼女の目には、工場の爆発も、崩壊も映っていない。
ただ、爆炎の中で無傷で立ち尽くす、聖女の「奇跡」だけが焼き付いていた。
「……すごい……。
神様の力は……こんなにも、美しいなんて……」
ルナが、跪き、祈り始める。
それにつられて、動揺していた元奴隷たちの一部も、恐怖と畏敬の念から、聖女に向かってひれ伏し始めた。
「……ゼニス」
ギデオンが、青ざめた顔でゼニスの袖を引く。
「……あいつら、何を拝んでるんだ?
俺たちの工場を壊した女だぞ……?」
「……『理解』できないからだ」
ゼニスは、歯噛みした。
「……圧倒的な現象(奇跡)の前では、人間は思考を停止し、ひれ伏すことを選ぶ。
……奴は、工場を壊しただけじゃない。
俺たちが積み上げた『論理』への信頼を……『恐怖と信仰』で上書きしたんだ」
エリスが、こちらを振り向いた。
その笑顔には、一点の曇りも、悪意もない。
「……よかったですね、領主様。
これで、あなたも『悪魔の契約』から解放されましたよ」
彼女は、本気で、ゼニスを「救った」と思っている。
その、話の通じなさ。
物理法則すら無視する、絶対的な「断絶」。
空から、白い灰のようなものが降ってきた。
雪ではない。
急速な酸化反応で剥がれ落ちた、熱を持った「鉄の錆」だ。
熱い雪が、ゼニスの頬を焼く。
その痛みだけが、これが現実だと告げていた。
「……やってくれたな」
ゼニスは、崩れ落ちた心臓を見つめ、静かに、しかし煮えたぎるような怒りを込めて呟いた。
論理は、暴力に敗北した。
ここから始まるのは、復興ではない。
神殺しのための、泥沼の戦争だ。




