第六十六話『教室の窓から見える白い絶望』
灰色谷の「システム」は完成した。
食料、衛生、治安。人が生きるための基盤は整った。
だが、ゼニスは知っていた。
システムを長期的に維持し、発展させるために不可欠な、最後のピースがあることを。
それは、「ソフトウェア(人間)」のアップデート――すなわち、「教育」だ。
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工場の隣に建てられた、質素だが日当たりの良い木造校舎。
入り口には、『灰色谷・技術学校』の看板が掲げられている。
「……いいか、よく聞け」
教室の教壇に立っているのは、ゼニスだ。
生徒は、谷の子供たち。そして、マルコやカエルのような、読み書きのできない若手の労働者たちだ。
その中には、最前列で目を輝かせているルナの姿もあった。
ゼニスは、黒板に「1+1=2」と書いた。
「……この世界には、魔法がある。神と呼ばれる存在もいるかもしれない。
だが、この『数式』だけは、神だろうと魔王だろうと、絶対に捻じ曲げることはできない」
ゼニスは、チョークを置いた。
「……なぜ、建物が崩れないのか。なぜ、蒸気で機械が動くのか。
それは神の気まぐれではない。『物理法則』に従っているからだ」
ゼニスは、生徒たちを見渡した。
「……このルールを知ること。それが『知性』だ。
知性があれば、お前たちは騙されない。搾取されない。
……祈る前に、考えろ。
世界は、お前たちの『頭』で、解き明かすことができる」
子供たちの目が、キラキラと輝く。
かつて「奴隷の子」として生まれ、一生を泥の中で終えるはずだった彼らが、初めて「世界」を理解する武器を手に入れたのだ。
「……すげぇや、ゼニス先生!」
「……僕にも、設計図が読めるようになるかな?」
「……なれる」
ゼニスは断言した。
「……お前たちは、もう奴隷じゃない。『設計者』の卵だ」
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次の時間は、ギデオンによる「経済」の授業だ。
「……おい、そこの鼻垂れ。
金貨一枚で、パンがいくつ買える?」
「……えっと、たくさん!」
「……0点だ。座れ」
ギデオンは、教鞭をビシッと振るう。
「……いいか。物の『価値』は、絶対じゃない。
相手が欲しがれば上がり、余っていれば下がる。
……お前たちの『労働』も同じだ」
ギデオンは、熱弁を振るう。
「……ただ漫然と働くな。
『自分には価値がある』と、胸を張って言える技術を身につけろ。
そうすれば、誰もお前たちを安く買い叩くことはできない。
……自分の価値は、自分で決めるんだ」
ルナは、兄の授業を真剣に聞いていた。
彼女の知る兄は、ただの守銭奴だった。
だが、今の兄は、「生きる力」を子供たちに授ける、誇り高い教師に見えた。
(……兄さんは、神様に頼らずに……こんなに強い人たちと一緒に、戦っていたのね……)
ルナは、胸元の十字架を握りしめた。
ゼニスの説く「物理法則」と、ギデオンの説く「経済」。
それらは、教会で教わった「全ては神の御心のままに」という教えとは、正反対のものだ。
だが、この谷の豊かさは、確かにその「人間の知恵」によって作られている。
(……神様。
……私が信じてきたことは……間違いだったのでしょうか……?)
ルナの心に、小さな、しかし決定的な「問い」が芽生え始めていた。
それは、盲目的な信仰から脱却するための、最初の一歩だったのかもしれない。
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午後の授業は、自習時間だった。
平和な日差しが、教室に差し込んでいる。
窓の外からは、工場の規則正しい稼働音と、鳥のさえずりが聞こえてくる。
「……平和だなぁ」
マルコが、鉛筆を転がしながら欠伸をした。
「……勉強ってのも、悪くねぇな。
……こんな日が、ずっと続けばいいのに」
「……サボるな、マルコ。カエルに言いつけるぞ」
「……ひぃッ! 勉強します!」
子供たちが笑う。
ゼニスは、教室の後ろからその光景を眺め、目を細めた。
教育という種は蒔かれた。
彼らが育てば、この谷は「工場」から「国家」へと進化する。
どんな理不尽な暴力も、確立された「知性」の連帯を崩すことはできない。
システムは、盤石だ。
「……ゼニス様」
ふと、窓際の席にいたルナが、声を上げた。
「……あれは、何でしょうか?」
「……ん?」
ルナが、窓の外、遠くの街道を指差していた。
「……とても、綺麗な……白い、鳥?
いいえ……馬車、でしょうか……?」
ゼニスが窓辺に歩み寄る。
ギデオンも、つられて顔を上げた。
街道の彼方。
新緑の森を切り裂くように、一直線に進んでくる「白」があった。
それは、商人の馬車ではない。
サイラスの荷馬車のような、生活感のある汚れなど微塵もない。
純白に輝く、装甲馬車。
そして、それを護衛するように整然と行進する、数百の騎兵。
彼らが纏う鎧は、太陽の光を反射して、目が眩むほどに白く輝いている。
そして、その頭上に翻る、巨大な旗。
「……ッ!?」
ギデオンが、息を呑んだ。
ルナが、目を見開いた。
その旗に描かれていたのは、ルナが握りしめている十字架と同じ。
「十字と太陽」。
聖教会の紋章だった。
「……来たか」
ゼニスの声は、低く、冷たかった。
教室の空気が、一瞬で凍りつく。
子供たちが、本能的な恐怖を感じてざわめきだす。
「……ゼニス先生……あれ、なに……?」
「……なんか、怖いよ……」
平和な教室。積み上げた論理。育み始めた知性。
そのすべてを、真っ白に塗り潰すかのような、圧倒的な「異物」。
ゼニスは、子供たちを振り返り、静かに告げた。
「……授業は終わりだ。
全員、家に帰って、戸締まりをしろ」
「……え?」
「……カエル! ボルカス!
『第1種警戒態勢』だ! 工場を止めろ! 住民を避難させろ!」
ゼニスが、窓を開け放ち、怒号を飛ばす。
非常ベルが鳴り響く。
平和な午後は、唐突に終わりを告げた。
街道を進む白い馬車。
その窓から、一人の少女が顔を覗かせた。
黄金の髪。宝石のような瞳。
そして、この世の全ての汚れを知らないかのような、無垢な笑顔。
聖女、エリス。
彼女は、黒煙を上げる灰色谷の工場を見て、悲しげに、しかし嬉しそうに呟いた。
「……まあ。かわいそうに。
あんなに苦しそうな『悪魔の心臓』……。
わたくしが、『救済』してあげますね」
論理の城壁の前に。
理屈の通じない「奇跡」が、到着した。




