第六十五話『暴力の飼い慣らし方』
灰色谷は、急激に「都市」へと変貌していた。
人口は増え続け、今や千人規模に達している。
だが、人が増えれば、必ず「摩擦」が生まれる。
「……おい! 俺のパンを取っただろ!」
「……あぁ!? 落ちてたから拾っただけだ!」
食堂の隅で、取っ組み合いの喧嘩が始まった。
かつては全員が「死にかけの奴隷」だったため、争う気力さえなかった。
だが今、彼らは健康になり、体力を持て余している。
CEOルームの窓からそれを見ていたゼニスは、眉をひそめた。
「……衣食住が足りれば、次は『秩序』が不足する。
……カエルを呼べ。『暴力』を、『システム』に組み込む」
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代理看守長室。
呼び出されたカエルは、直立不動で主の言葉を待っていた。
「……カエル。広場での騒ぎ、見たか」
「……はっ。愚かな害虫どもです。
ゼニス様のお庭を汚す不敬、万死に値します。
直ちに全員、頭蓋骨を粉砕し、肥料として……」
「……カエル。それは『非効率』だ」
ゼニスは、一枚の羊皮紙と、真新しい「腕章」をテーブルに置いた。
「……お前を、灰色谷の『保安官』に任命する。
この谷の『法』を執行する、俺の『代行者』だ」
「……代行者……?」
カエルの目の色が、怪しく輝いた。
身体が震え出す。
「……この俺が……ゼニス様の手となり足となり……代行する、と?」
「そうだ。だが、条件がある」
ゼニスは、羊皮紙――『灰色谷・法典(バージョン1.0)』を指差した。
「……今後、暴力を振るっていいのは、この『ルール』に違反した奴だけだ。
そして、殴る回数も、殴る場所も、すべてこの『マニュアル』に従え」
カエルは、法典を手に取り、食い入るように見つめた。
そこには、殴打の角度から気絶させる秒数まで、細かい規定がびっしりと書かれている。
普通の暴れん坊なら、「面倒くさい」と吐き捨てたろう。
だが、カエルは違った。
彼はその細かい規定の中に、ゼニスの「完璧な計算」を見出したのだ。
「……なんと……」
カエルは、法典を持つ手を震わせた。
「……俺のような野蛮な獣が、感情に任せて腕を振るうなど……ゼニス様の美学に反する汚らわしい行為でした。
……これ(マニュアル)こそが、ゼニス様の求める『正しい暴力の形』なのですね?」
「……そうだ」
ゼニスは、冷徹に告げた。
「……カエル。お前の『感情』など、システムには不要だ。
俺が求めているのは、俺の定めた『法』を、機械のように正確に執行する『機能』だ。
……お前に、それが務まるか?」
その言葉は、カエルの信仰心を、極限まで満たした。
(……感情など不要……)
(……俺という『個』を消し去り、ゼニス様の『システム』の一部になれと……!)
それは、狂信者にとって、至上の喜びだった。
自我を捨て、神の意志そのものとなること。
カエルは、膝をつき、法典を額に押し当てた。
「……おお……! 感謝致します、ゼニス様!
俺のような無知な獣に、貴方様の『理性』を分け与えてくださるとは……!」
カエルは、床に頭を擦り付けた。
「……承知いたしました。
このカエル、今日より『感情』を捨て、貴方様の『法』となりましょう。
……害虫どもを、貴方様の『計算通り』に、処理してご覧に入れます」
「……いい心がけだ」
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翌日から、カエルの「巡回」が始まった。
「……おい! そこで立ち小便をするな!」
チンピラが絡んでくる。
以前のカエルなら、即座に殴り殺していただろう。
「……あ? なんだよカエル、偉そうに」
カエルは、ピクリとも表情を変えなかった。
怒りはない。あるのは「計測」だけだ。
彼は懐から「法典(聖書)」を取り出し、無機質に読み上げた。
「……対象の言動を確認。『軽犯罪法』第3条に抵触。
ゼニス様の定められた『美観』を損ねる行為は、存在を許されない」
「……はぁ? 何言ってんだおま……」
「……執行する」
ドゴォォン!!
正確無比な一撃。
だが、骨は折れていない。法典に定められた通り、「気絶」させるだけの、完璧にコントロールされた一撃だ。
「……マニュアル規定通り、打撃レベル2。……気絶を確認」
カエルは、気絶した男を見下ろし、法典の埃を払った。
その目には、達成感も興奮もない。ただ「正しく動いた」という事実への安堵だけがあった。
住民たちは、その姿に戦慄した。
かつての「暴れん坊」ではない。
話の通じない、冷徹な「ルールの化身」がそこにいた。
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そんなある日。事件が起きた。
「……泥棒だ!!」
倉庫から叫び声が上がる。新入りの男が、工具を盗んで逃げようとしていた。
カエルが追いつくと、男は隠し持っていたナイフを取り出し、あろうことか、近くにいた「ルナ」を人質に取った。
「……来るな! 近寄ると、この女を殺すぞ!」
ルナの細い首に、刃が突きつけられる。
同時刻。CEOルーム。
窓からその光景を見たギデオンの顔から、一瞬で全ての血の気が引いた。
「……ル、ルナ……!?」
ガタンッ!!
ギデオンが椅子を蹴り倒し、窓枠に身を乗り出す。
その目は極限まで見開かれ、正気を失っていた。
「……やめろ……やめろぉぉぉッ!! 俺の妹だぞ!!
殺すな! 頼む、殺さないでくれぇぇぇ!!」
ギデオンは窓から飛び降りようとする。
だが、鋼のような手がその襟首を掴み、力任せに引き戻した。
「……放せゼニス!! ルナが! ルナが殺される!!」
「……落ち着け、ギデオン」
ゼニスの声は、氷点下のように冷たい。
暴れるギデオンを、無表情で壁に押し付ける。
「……今お前が行って何になる。カネで犯人を説得するか?
逆上させて、妹君の喉を掻っ切らせるのがオチだ」
「……だが!! カエルだぞ!? あの暴力の塊だぞ!?
あいつが暴れたら、ルナごとミンチになる!!」
ギデオンは涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら絶叫した。
「……俺の全てなんだ……!
あいつを失ったら……俺は……俺はァァァ!!」
「……見ろ」
ゼニスは、ギデオンの顔を無理やり窓の方へ向けさせた。
「……俺の『システム』を信じろ」
広場。
カエルの目が、対象をスキャンする。
ルナは、ゼニス様が「保護対象」と定めた重要人物だ。
対して、犯人は「排除対象」。
カエルが棍棒を握る手に、力がこもる。
脊髄反射的な殺意が湧き上がる。
(……殺す。今すぐ、ミンチにして……)
だが、その瞬間。
脳裏に、ゼニスの言葉が、神の啓示のように響く。
『……俺が求めているのは、機械のように正確な執行だ』
カエルは、ピタリと止まった。
(……いかん。感情で殺せば、それは「カエル」の暴力だ。ゼニス様のシステムに「ノイズ」が混じる)
カエルは、棍棒を、地面に捨てた。
「……なっ?」
犯人が動揺する。
「……おい、愚か者。
そのお方は、ゼニス様の『所有物』だ。傷一つ付けることは許されない」
カエルは、丸腰で、機械のように歩み寄る。
「……代わりに、俺を刺せ。
俺という『部品』なら、交換が効く」
「……く、来るな! お前、狂ってるのか!?」
「……狂っている?」
カエルは、無表情で首を傾げた。
「……いいや。俺は『正常』に稼働している。
ゼニス様の『システム』を守るためなら、この命など、とうの昔に捨てている」
その、圧倒的な「信仰」のオーラ。
犯人は、その異質さに飲まれ、震え、ナイフを取り落とした。
その瞬間。
カエルは疾風のように踏み込み――関節を極めて「確保」した。
「……『治安維持法』第1条。……拘束する」
「……カエル様……」
解放されたルナが、へたり込み、涙目でカエルを見上げる。
「……ありがとうございます。……貴方様も、神を信じているのですね?」
「……神?」
カエルは、CEOルームの方角を仰ぎ見た。
「……ああ。いるぞ。そこに、な」
CEOルーム。
一部始終を見ていたゼニスは、拘束していたギデオンの手を離した。
ギデオンはその場に崩れ落ち、床に手をついて荒い息を吐いた。
全身が、止まらない震えに襲われている。
「……はぁ、はぁ……、あ、あぁ……」
「……どうだ、CFO。
これが、『飼い慣らされた暴力』だ」
ギデオンは、震える手で顔を覆った。
恐怖が去り、安堵のあまり、嗚咽が漏れる。
「……助かった……。あいつが……無事で……」
ギデオンは、ふらふらと立ち上がり、窓の外のカエルを見た。
かつては野蛮な獣と侮蔑していた男。
だが今は、自分の命よりも大切なものを守ってくれた、恩人。
「……礼を、言わんとな……。
金貨でも、酒でも……あいつが望むなら、俺の靴を舐めろと言われても、構わん……」
冷徹な守銭奴の仮面は剥がれ落ち、そこにはただの「無力な兄」がいた。
「……『信仰』は、時として『理性』以上の抑制力を生む。
……使いようだな」
ゼニスは、静かにコーヒーを啜った。
食料、衛生、そして治安。
灰色谷(国家)としての機能(OS)は、これですべて実装された。
カエルという「暴力装置」が、ゼニスへの信仰心によって完全に制御下に置かれたことで、内部の憂いは消えた。
「……さて」
ゼニスは立ち上がる。
「……これで、内側の守りは盤石だ。
次は、未来への投資……『教育』の仕上げにかかるとしよう」
平和な夕暮れ。
だが、その静寂は、嵐の前のそれに過ぎなかった。
完成したシステム。
だが、それは間もなく、システムそのものを否定する「理不尽」と対峙することになる。




