第六十四話『CFOの弱点と、王都からの密航者』
その日、灰色谷の代理看守長室(CEOルーム)は、かつてない緊張感に包まれていた。
「……おい、マルコ!窓の桟に埃が残っているぞ!拭け!」
「……ボルカス!道の舗装は済んだか!?馬車が揺れたらどうする!」
「……エララ!スープの温度は!?熱すぎたら舌を火傷するだろうが!」
CFOギデオンが、怒号を飛ばしている。
いつもの冷徹な金勘定の姿はない。
そこにあるのは、ただの「心配性の兄」の姿だった。
ゼニスは、呆れたようにコーヒーを啜った。
「……落ち着け、ギデオン。
お前がどれだけ叫んでも、到着時間は変わらん」
「……うるさい!お前に何が分かる!
あいつは……ルナは、ガラス細工より脆いんだ!
少しの衝撃、少しの埃、少しのストレスで……壊れてしまうかもしれないんだぞ!」
ギデオンは、爪を噛みながら部屋を往復する。
「……あいつは、俺の『弱点(アキレス腱)』だ。
あいつが生きていてくれるなら、俺は悪魔に魂を売ってもいい。
……いや、もう売ったな。お前にな」
「……違いない」
ゼニスは苦笑する。
だが、その「弱点」こそが、ギデオンという男を最強の財務責任者に変えた原動力でもある。
「……来るぞ」
窓の外を見ていたゼニスが言った。
谷の入り口。
サイラスの荷馬車が、ゆっくりと、しかし慎重に入ってくるのが見えた。
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広場には、清潔になった住人たちが出迎えのために集まっていた。
荷馬車が止まる。
御者台から降りたサイラスが、疲弊しきった顔でギデオンに敬礼した。
「……ひぃ、ひぃ……。到着、しましたぜ。
検問の兵士に『金貨5枚』も握らせて……寿命が縮むかと思いました」
「……ご苦労。金は払う」
ギデオンはサイラスを無視し、荷台の幌に手をかけた。
その手が、震えている。
「……ルナ?」
返事はない。
ギデオンが、恐る恐る幌を開ける。
そこには、毛布にくるまり、小さく丸まって眠る少女がいた。
透き通るような白い肌。折れそうなほど細い手足。
長く伸びた銀髪は美しいが、その唇には血の気がなく、浅い呼吸を繰り返している。
「……兄……さん……?」
光を感じて、少女が薄目を開けた。
「……ああ、ルナ。兄さんだ。
……着いたぞ。ここが、新しい家だ」
ギデオンが、壊れ物を扱うように、少女を抱き上げる。
そのあまりの軽さに、周囲の空気が痛ましく張り詰めた。
「……空気が……綺麗……」
ルナが、小さく息を吸い込む。
王都のスラムに充満していた腐臭と煤煙は、ここにはない。
あるのは、森の澄んだ空気と、石鹸の清潔な香り。
「……ええ。とても……息がしやすい……」
少女の蒼白だった頬に、わずかに赤みが差す。
それを見たギデオンの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……よかった……。本当によかった……」
彼は、妹を強く抱きしめた。
冷徹なCFOが、人目もはばからず涙を流す姿に、マルコたちも貰い泣きをしている。
「……さあ、行こう。
温かいスープと、ふかふかのベッドが用意してある」
ギデオンは、妹を抱えたまま、用意していた宿舎(最も日当たりが良い部屋だ)へと歩き出した。
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その夜。
ルナの歓迎会(といっても、彼女の体調を考慮した静かな食事会だ)が開かれた。
テーブルには、エララが作った「消化に良い野菜スープ」と「柔らかい白パン」。
そして、リーナが調合した「栄養剤」が並ぶ。
「……美味しい……」
ルナは、スープを一口飲んで、微笑んだ。
その笑顔は、儚げだが、聖母のように穏やかだった。
「……兄さん。夢のようです。
こんなに綺麗な場所で、こんなに美味しいものが食べられるなんて……」
「……ああ。全部、俺たちが作ったんだ」
ギデオンは、胸を張った。
「……このスープも、パンも、この建物も。
俺たちが知恵を絞り、働き、稼いだ『金』と『技術』で作ったんだ。
……神様なんかじゃない。俺たちの力だ」
ギデオンは、少しだけ声を強めて言った。
彼は、妹に伝えたかったのだ。
不条理なスラムで祈り続けても救われなかった彼女を救ったのは、祈りではなく、現実的な「努力」と「計算」なのだと。
だが。
「……いいえ、兄さん」
ルナは、首を横に振った。
そして、胸元から、大切そうに「何か」を取り出した。
それは、銀色の「十字架」。
聖教会のシンボルだった。
「……これは、神様のお導きです」
ルナは、十字架を握りしめ、目を閉じて祈り始めた。
「……主よ。罪深い私たちをお救いくださり、感謝いたします。
兄さんに知恵を与え、この場所へと導いてくださったのは、すべて貴方様の御心です……」
室内の空気が、凍りついた。
ギデオンの笑顔が、引きつる。
ゼニスが、目を細める。
リーナが、不快そうに眉をひそめる。
この灰色谷は、「神なき世界」だ。
神に頼らず、自らの手で運命を切り開いてきた者たちの国だ。
そこにおいて、「全ての成果を神に帰結させる」という行為は、彼らの努力への冒涜にも等しい。
だが、ルナに悪気はない。
彼女は本気で、純粋に、神に感謝しているのだ。
「……ルナ……」
ギデオンが、何かを言いかける。
『違う。神なんていない。俺たちがやったんだ』と。
だが、妹の穏やかな祈り顔を見て、言葉を飲み込んだ。
病弱な彼女にとって、その信仰だけが、過酷なスラムで生き抜く唯一の「支え」だったことを、彼は知っていたからだ。
それを否定することは、彼女の心を殺すことになる。
「……そう、だな」
ギデオンは、苦渋の表情で、話を合わせた。
「……感謝、しないとな」
祈りを終えたルナは、無垢な瞳でゼニスを見た。
「……あなたが、ゼニス様ですね?
兄から聞いています。この谷の指導者だと」
「……ああ」
「……あなたもきっと、敬虔な信徒様なのですね。
これほど素晴らしい場所を作れるなんて……神様に愛されている証拠です」
ゼニスは、肯定も否定もしなかった。
ただ、冷徹に分析していた。
(……『悪意のない信仰』)
(……これは、厄介だ)
彼女は、敵ではない。
だが、彼女の存在は、この谷の「合理性」というOSに、致命的なバグを引き起こす可能性がある。
「……ルナ。疲れただろう。もう休め」
ギデオンが、逃げるように妹を部屋へ促す。
「……はい、兄さん。
おやすみなさい、皆様。……神のご加護がありますように」
ルナは、十字を切って去っていった。
残されたCEOルームには、重苦しい沈黙が落ちた。
「……参ったな」
ボルカスが、頭をかいた。
「……あんなにいい子なのに、言うこと全部が『神様』かよ」
「……教育が必要ね」
リーナが、不機嫌そうに言う。
「……小麦が育つのも、病気が治るのも、全部『科学』と『魔法』の理屈よ。
神様の気まぐれなんかじゃないわ」
「……待て」
ギデオンが、低い声で制した。
「……あいつの信仰を、奪わないでくれ。
……あいつには、それしか、縋るものがなかったんだ。
身体が良くなるまでは……夢を見させてやってくれ」
CFOの、悲痛な願い。
誰も、それ以上は言えなかった。
ゼニスは、窓の外を見た。
清潔で、平和な灰色谷。
だが、その中心に、「異物」が入り込んだ。
「……皮肉なものだ」
ゼニスは独白する。
「……俺たちは、外からの『干渉』と戦う準備をしていた。
物理的な圧力、経済的な封鎖……それらには、論理で対抗できる」
ゼニスは、ルナが去っていった扉を見つめた。
「……だが、内側から芽生えた『純粋な信仰』。
……こればかりは、計算では排除できない」
ギデオンの「弱点」であり、谷の「異物」。
ルナという少女は、悪意なき「聖女」のように、この谷に祈りを捧げている。
その姿は、結束していたはずの灰色谷の空気を、少しずつ、しかし確実に変質させていくだろう。
「……システムにとって最大の脅威は、ウイルスではない。
……『悪気のないユーザー(信者)』だ」
ゼニスは、石鹸の香りが漂う風の中に、微かな火種の匂いを感じ取っていた。
そして、その微細な亀裂を狙い澄ましたかのように。
本当の「嵐」が、すぐそこまで迫っていた。




