第六十三話『石鹸と蒸気の、清潔な文明開化』
「……臭うな」
代理看守長室(CEOルーム)。
ゼニスは、開口一番、そう言った。
CFOギデオンが、ビクッと反応する。
「……お、俺か? 昨日、リーナの洗濯機でシャツを洗ったばかりだぞ?」
「……服ではない。……『中身(お前たち)』だ」
ゼニスは、窓の外を指差した。
そこには、リーナの発明した全自動洗濯機によって、真っ白になったシャツを着た労働者たちが歩いている。
だが、その首筋は煤と泥で黒ずみ、髪は脂でベタついている。
「……服が綺麗になった分、身体の汚れが際立っている。
表層はアップデートされたが、ハードウェア(肉体)のメンテナンスが追いついていない状態だ」
ゼニスは、ギデオンの机の上にある「書きかけの手紙」に目をやった。
宛名は『ルナ』となっているが、まだ封はされていない。
「……ギデオン。妹君を呼ぶ件、まだ迷っているのか?」
「……ああ」
ギデオンは苦渋の表情でペンを置いた。
「……サイラスのルートは確保した。カネもある。いつでも呼べる状態だ。
……だが、呼べない」
ギデオンは、自分の脂じみた手と、窓の外の煤けた空気を見た。
「……ルナは肺が悪い。
王都のスラムのような汚れた空気では、長くはもたないと言われていた。
……今の灰色谷は、活気はあるが、空気は煤煙だらけ、男たちは汗臭い。
……こんな不衛生な場所に連れてくれば、あいつの寿命を縮めるだけだ」
ギデオンは、書きかけの手紙を握り潰そうとした。
「……もっと衛生環境が改善されるまで……あいつは呼べない」
「……ならば、環境を変えるまでだ」
ゼニスは立ち上がった。
「……その手紙、捨てなくていいぞ」
「……なに?」
「……『公衆衛生計画』を発動する。
三日以内に、この谷を……王都の貴族街よりも清潔な『無菌室』に変える。
……招待状を出すのは、それからだ」
・
・
・
一時間後。
工場の裏手、スターリングエンジンの排熱ダクト前。
いつものメンバーが招集された。
「……フロ、だと?」
工場長ロイドが、呆れたように言う。
「……ゼニス様。あんた、俺の排熱をなんだと思ってるんだ?
ピザの次は、お湯沸かし器かよ?」
「……エネルギーの有効活用だ。
ロイド、お前のエンジンは優秀だが、捨てている『熱量』も莫大だ。
その排熱をパイプに通し、川から引いた水を温めれば、燃料コストゼロで、大量の『温水』が手に入る」
ゼニスは、地面に巨大な「浴槽」の設計図を描いた。
「……男湯と女湯。同時に五十人は入れる規模だ。
配管は、リーナの洗濯機で使った『高圧ポンプ』を流用しろ。
……循環濾過システムも組み込む。常に清潔な湯を供給するんだ」
「……チッ。配管工の真似事かよ。
……まあいい、昨日の洗濯機で『水回り』のノウハウは溜まってる。
木材加工はカエルたちにやらせろ。……徹夜で組んでやるよ」
ロイドが工具箱を担いで動き出す。
次に、ゼニスはエララに向き直った。
「……エララ。湯だけでは汚れは落ちない。
『化学』の力が必要だ」
「……化学、ですか?」
「……『石鹸』だ」
ゼニスは、厨房から持ってきた「牛の脂」と、暖炉から集めた「木灰」を指差した。
「……油汚れを落とすには、油を使う。毒を以て毒を制す、化学反応だ」
ゼニスは、エララに「鹸化」のプロセスを教えた。
木灰から取ったアルカリ水と、牛脂を混ぜ、煮込む。
さらにそこに、リーナが育てた「カミミ(ハーブ)」の精油と、蒸留所から出た「グリセリン(保湿成分)」を加える。
「……なんとまあ」
エララは、大鍋の中で白く固まっていく物体を見て、目を丸くした。
「……ただの灰と脂が……こんなに良い香りのする『白い石』になるなんて」
「……殺菌作用と洗浄力。そして保湿。
これで皮膚病の発生率は、90%低下するはずだ」
・
・
・
翌日の夕刻。
工場の横に、突貫工事で巨大な木造の建屋が完成した。
入り口には、ボルカスが筆で書いた看板が掛かっている。
『灰色谷・大衆浴場』
作業を終えた労働者たちが、怪訝な顔で集まってくる。
「……おい、なんだこれ?」
「……風呂? 貴族じゃあるまいし、俺たちが毎日身体を洗うのか?」
「……どうせまたすぐ汚れるんだ。無駄じゃねぇか?」
長年の奴隷生活で染み付いた「諦め」と「不潔への慣れ」。
それを打破するために、ゼニスは一番の「実験台」を指名した。
「……マルコ。一番風呂だ。入れ」
「(……また俺ですかぁぁ!?)」
マルコは泣きながら、脱衣所で服を脱いだ。
そして、湯気が立ち込める浴室へと足を踏み入れる。
「……うわぁ」
そこは、別世界だった。
ロイドが組んだ配管から、とうとうと注がれる透き通ったお湯。
ヒノキ(に似た木材)の香りと、蒸気の温かさ。
マルコは、恐る恐る、湯船に足をつけた。
「……あ、熱っ……いや、熱くない……?」
絶妙な湯加減。
彼は、肩までじっくりと浸かった。
「……はぁぁぁぁ…………」
声にならないため息が漏れる。
筋肉の緊張が解け、骨の芯まで温もりが染み渡っていく。
一日の疲れが、お湯の中に溶け出していくようだ。
「……こ、これは……」
そこへ、エララが入ってきた(男湯だが、清掃係として)。
「はい、マルコ。これを使って」
渡されたのは、白い固形物――石鹸だ。
マルコは言われた通り、それをタオルにつけて泡立て、身体を擦った。
「……すげぇ! 泡だ! 泥が……脂が、溶けていく!」
カミミの爽やかな香りと共に、長年染み付いていた垢が、ボロボロと落ちていく。
洗い流した後の肌は、キュキュッと音がするほど清潔で、しかもグリセリンのおかげでしっとりとしていた。
「……俺の肌……こんな色、してたんだ……」
風呂から上がったマルコは、ピカピカに輝いていた。
その顔は、湯上がり特有の紅潮で、幸せそうに緩んでいる。
それを見た他の労働者たちが、どよめいた。
「……おい、マルコか? お前、なんか……光ってねぇか?」
「……臭くない! むしろ、いい匂いがするぞ!」
「……みんな、入れ!」
マルコは叫んだ。
「……これは『洗浄』じゃねぇ! 『再生』だ!!」
・
・
・
その夜。
大浴場は、芋洗い状態の盛況だった。
「……極楽だぁ……」
「……背中流してくれ!」
「……おいカエル! 湯船で泳ぐな!」
男湯では、ボルカスやロイドたちが、裸の付き合いで馬鹿騒ぎをしている。
女湯からは、リーナとエララの楽しそうな話し声が聞こえてくる。
CEOルームで、ゼニスはその賑わいをBGMに、書類仕事をしていた。
風呂上がりのギデオンが、さっぱりとした顔で入ってくる。
髪は濡れており、肌艶は見違えるほど良い。
「……どうだ、CFO。これでも『無駄遣い』か?」
「……いや。認めよう」
ギデオンは、自分の腕の匂いを嗅いだ。微かに石鹸の香りがする。
「……衛生環境の向上は、疾病リスクを下げる。医療費の削減だ。
それに何より……」
ギデオンは、机の上に置きっぱなしにしていた「書きかけの手紙」を手に取った。
「……これなら、あいつを呼べる」
ギデオンの声には、もはや迷いはなかった。
「……あいつの肺を蝕む瘴気など、ここにはない。
あるのは清潔な湯と、石鹸の香り……そして、生きていくための活力だ」
ギデオンは、ペンを取り、手紙の続きを一気に書き上げた。
そして、封蝋をする。
「……ゼニス。サイラスに伝令を出してくれ。
……『迎えに行け』と」
「……ああ、分かった」
ゼニスは、満足げに頷いた。
清潔という名の「文明」は完成した。
そして、そのインフラが整ったことで初めて、ギデオンは妹を呼ぶという「リスク」を取る決断を下したのだ。
「……待ってろよ、ルナ。
……ここが、お前の新しい『療養地』だ」
ギデオンは、窓の外の星空を見上げ、妹の無事を祈った。
だが、彼はまだ知らない。
彼が守ろうとしているその最愛の妹が、
この清潔で合理的な谷にとって、最も「厄介な異物」になることを。




