第六十話『査定という名の盟約』
約束の「一年」が、訪れた。
灰色谷は、静まり返っていた。
工場の稼働音だけが、規則正しく響いている。
だが、その静寂は「恐怖」ではない。
これから訪れる、運命の裁定を待つ、心地よい緊張感だった。
代理看守長室(CEOルーム)。
そこには、この谷を変えた狂人たちが勢揃いしていた。
中央には、CFOギデオン。
彼は、分厚い革表紙の帳簿を、宝物のように抱えている。その手は、武者震いでわずかに震えていた。
その隣には、正装(といっても、一番マシな作業着だが)に身を包んだ、ボルカス、ロイド、リーナ、エララ、マルコ。
そして、窓辺にはゼニス。
彼は、いつものように冷徹な瞳で、谷の入り口を見下ろしていた。
「……来たぞ」
ゼニスの言葉と同時に、谷のゲートが開く。
現れたのは、アークライト公爵。
そして、その背後には監視者グレイと、武装した親衛隊。
だが、今日の彼らは「武器」を持っていない。
代わりに、恭しく「黒い箱」を捧げ持っていた。
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アークライトが、上座につく。
張り詰めた空気の中、最後の「査定会議」が始まった。
「……報告を聞こう」
アークライトの声は、感情を排した氷のように冷たい。
ギデオンが一歩進み出る。彼は、震える手で帳簿を開き、脂汗を浮かべながら告げた。
「……ご報告いたします。
本年度、灰色谷が採掘した鉱石、および公爵領へ納入した、銃、弾薬、保存食、及び燃料……。
経済封鎖中につき支払い保留となっている、全ての『正規の市場価格』で換算した売掛金総額は……!」
ギデオンは、息を呑み、その絶望的な数字を叫んだ。
「……金貨、『三千枚』相当!!灰色谷として前年度計上した利益に換算して、『三十倍』でありますッ!!
……現在の公爵家の国庫には、支払い不可能な額でありますッ!!」
静まり返る室内。
金貨三千枚。それは、一地方領主の国家予算にも匹敵する、天文学的な数字だった。
「産業革命」が生み出した、圧倒的な富の暴力。
封鎖され、疲弊した現在のアークライト家にとっては、破産宣告に等しい数字だった。
産業革命が生み出した物量は、公爵家の財政すらも押し潰すほどだった。
親衛隊たちが、動揺を隠せずざわめく。
だが、アークライトだけは、眉一つ動かさなかった。
「……ほう」
彼は、短く呟いた。
「……金貨三千枚分の『借金』か。……仕方あるまい」
アークライトは、ゆっくりと立ち上がった。
そして、ゼニスの前へと歩み寄る。
「……奴隷、1138番」
「……は」
「一年前。私はお前に『利益を出せ』と命じた。
だがお前は、私の軍隊を救う代わりに、私に『返せない借金』を背負わせた」
アークライトの目が、鋭く光る。
「……我々の首根っこを押さえたつもりか?」
室内に、緊張が走る。
マルコが「ひぃっ」と息を呑む。処刑か、と誰もが思った。
だが、次の瞬間。
アークライトの口元に、初めて、明確な「笑み」が浮かんだ。
「……だが、悪くない商売だ。
金がないなら、『現物』で払うしかないな」
アークライトは、親衛隊に目配せをした。
捧げ持たれていた「黒い箱」が、ゼニスの前に置かれ、開かれる。
中に入っていたのは――
真新しい、「領主の外套」と、「男爵の記章」。
そして、一枚の「羊皮紙」だった。
「……奴隷1138番は、本日をもって死んだ」
アークライトが、宣言する。
「……立て、ゼニス。
借金のカタだ。……これより貴様を、『アークライト公爵領・灰色谷男爵』に叙する」
「……!!」
どよめきが、爆発した。
「平民」への解放ではない。
負債を帳消しにするための、「領土割譲」に近い措置。
それは、ゼニスという「債権者」に対する、対等な取引だった。
「……そして、そこにいる者たちよ」
アークライトは、ギデオンたちを見渡した。
「……貴様らも、本日をもって『奴隷』ではない。
灰色谷男爵の『家臣』として、その身分を保証する」
「お、おおお……!」
ボルカスが、男泣きに崩れ落ちる。
マルコが、カエルと抱き合って喜ぶ。
エララが、静かに手を合わせる。
解放だ。
彼らは、自分たちの手で、「自由」を勝ち取ったのだ。
だが。
ゼニスだけは、浮かれてはいなかった。
彼は、差し出された「男爵の記章」を見つめ、静かに問うた。
「……公爵閣下。……ただの『返済』では、ありませんね?」
「……くくっ、察しがいいな」
アークライトは、羊皮紙――「任命書」を、指で弾いた。
「……裏を見ろ」
ゼニスが裏面を見る。
そこには、びっしりと「制約」が記されていた。
『第一条:灰色谷の独自技術は、国家機密とする』
『第二条:技術の領外持ち出しは、反逆罪とみなす』
『第三条:生産される全ての兵器・物資は、アークライト家が独占購入権を持つ』
アークライトが、ゼニスの耳元で囁く。
「……お前は『自由』になった。
だが、お前の『脳』は、私のものだ。
……灰色谷を『経済特区』として認める。自治権もやろう。教会や王都の干渉も、私が防波堤となって防いでやる」
アークライトの瞳が、支配者の色を帯びる。
「……その代わり。
お前は、一生、この『黄金の檻』の中で、私のためだけに富と武器を生み出し続けろ。
……それが、新しい『契約』だ」
それは、奴隷の首輪よりも遥かに強固な、
「共犯者」としての、逃れられない鎖。
ゼニスは、数秒、沈黙した。
そして、静かに笑った。
「……合理的です」
ゼニスは、男爵の記章を手に取り、自らの胸につけた。
「……私の望みは、この『システム』を守り、育てること。
あなたが最強の『パトロン(防壁)』となってくださるなら……この檻、悪くありません」
「……よかろう。契約成立だ」
アークライトとゼニス。
支配者と設計者。
二人の怪物が、固い握手を交わした。
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その夜。
灰色谷は、かつてない祝祭に包まれていた。
ロイドが造った酒(スピリタスを薄めたものだが)が振る舞われ、リーナの育てた麦で作ったパンが山積みになり、エララの料理が並ぶ。
誰もが歌い、踊り、自由を噛み締めている。
ゼニスは一人、CEOルームのバルコニーから、その光景を見下ろしていた。
夜風が、心地よい。
一年前、泥水をすすり、絶望の中で計算していた日々が、嘘のようだ。
「……終わったか」
ふと、首元に手をやる。
そこにあったはずの、冷たい鉄の感触はもうない。
「……いや」
彼は、胸元の「男爵の記章」に触れた。
「……始まったんだ」
奴隷としての生存競争は終わった。
だが、これからは、「領主(設計者)」として、この谷と、この国を守り抜くための、より巨大で、冷徹な戦争が始まる。
ゼニスは、夜空を見上げた。
満天の星。
神などいない、物理法則だけの、美しい宇宙。
「……見ていろ。
俺は、この谷を……世界を変える『心臓』にしてみせる」
神なき世界の設計者は、静かに誓った。
その瞳には、次なる設計図が、すでに描かれていた。
第二幕、最終回!第二幕もご愛読ありがとうございました!
平民を通り越して、まさかの貴族w
ゼニスと灰色谷を囲い込むための、アークライト公爵の腹黒戦略です。
徐々に権力を持つゼニスと仲間たちが今後どのような道を辿るのか、第三幕も是非お付き合いください!




