第六話『天頂の名』
ボルカスの瞳に、あの微かな光が灯ったのを確認し、俺は、静かに頷いた。
交渉は、成立した。
あとは、証明するだけだ。
俺の「知識」が、この谷の「現実」を、凌駕することを。
「……勝手にしろ」
ボルカスは、それだけを吐き捨てると、腕を組み、壁に寄りかかった。
墓守の目が、俺の一挙手一投足を、値踏みするように見つめている。
俺は、まず、道具を探すことから始めた。
必要なものは、二つ。
一つは、可能な限り長く、硬い、木の棒。
もう一つは、支点となる、拳大の、硬い石。
奴隷たちが、遠巻きに、俺の奇行を眺めている。
その視線に、好奇心はなかった。
あるのは、侮蔑と、嘲笑だけだ。
「おい、見ろよ。1138番の奴、とうとう、気が触れたか」
「ヨハンが死んで、頭がおかしくなっちまったんだ」
「棒切れと石ころで、何をするってんだ。ままごとかよ」
その声は、俺の耳には届かない。
俺は、ただ、淡々と、完璧な道具を探し続ける。
思考は、完全に、物理法則の計算に没入していた。
求めるのは、最適な長さ、最適な強度、最適な形状。
それは、祈りではない。
ただの、計算だ。
十分後。
俺は、理想的な一本の樫の木と、支点にふさわしい花崗岩を見つけ出した。
俺は、その二つを、問題の巨大な岩盤の前へと運ぶ。
周囲の嘲笑が、さらに大きくなった。
その輪から少し離れた場所に、カエルの姿が見えた。
彼は、何も言わない。
ただ、腕を組み、氷のような目で、俺の子供の遊びを、見つめているだけだ。
俺は、誰に、何を言うでもなく、準備を始めた。
まず、花崗岩を、岩盤のすぐそばの、計算し尽くした一点に、深く埋め込む。
これが、支点。
次に、樫の木の棒を、その支点の上に乗せ、その先端を、岩盤の底の、最も力がかかりやすい隙間に、ねじ込んだ。
作用点。
そして、俺が立つべき場所、力点。
全てが、完璧な精度で、配置される。
その光景は、もはや、ただの準備ではなかった。
世界の法則を、自らの支配下に置くための、神聖な儀式。
俺は、まるで、神官のように、静かに、その場に立っていた。
嘲笑が、頂点に達する。
「おままごとは、もうおしまいかよ!」
誰かが、そう叫んだ。
俺は、ゆっくりと、樫の木の棒の、一番端に、両手をかけた。
そして、静かに、自らの体重を、預けていく。
最初は、何も起きなかった。
木の棒が、俺の体重で、わずかに、しなるだけだ。
岩盤は、まるで、地球の一部であるかのように、びくともしない。
「ハッ、やっぱりな!」
「無駄なことを……」
奴隷たちの、呆れた声。
ボルカスの、死んだような目が、わずかに、失望の色を浮かべたように見えた。
カエルの唇が、嘲りの形に、歪む。
俺は、構わず、さらに、ゆっくりと、力を込めていく。
全身の筋肉を、効率的に連動させ、一点に、集中させる。
その、瞬間だった。
――ギギギ……。
あり得ない音が、響いた。
それは、木の軋む音ではない。
岩が、岩に、擦れる音。
地球が、悲鳴を上げるような、音。
嘲笑が、凍りつく。
全ての奴隷が、言葉を失い、音の発生源を、凝視する。
岩盤と、地面の間に、一条の、黒い亀裂が走るのが見えた。
そこから、パラパラと、乾いた土が、こぼれ落ちる。
「……う、そだろ」
誰かが、かすれた声で、呟いた。
俺は、最後の力を、込めた。
膝を使い、テコの先端を、地面へと、押し下げる。
――ゴゴゴゴゴ……!
地響きのような、轟音。
あの、山のように巨大な岩盤が。
ゆっくりと、しかし、確実に。
持ち上がった。
ミリ単位の、奇跡。
そして、訪れる、完全な静寂。
だが、それは、ただ音が消えたのではない。
この谷の奴隷たちが、生まれて初めて、自らの常識が、目の前で、暴力以外の何かによって、粉々に砕け散る音を聞いたのだ。
彼らの瞳から、嘲笑が消える。侮蔑が消える。
そして、その空っぽになった場所に、生まれて初めて、「理解を超えたもの」に対する、原始的な感情が、芽生えていた。
それは、畏れ。
そして、ほんのわずかな、信仰の、始まりだった。
俺は、ゆっくりと、テコから手を離す。
岩盤が、再び、轟音と共に、元の位置へと落ちた。
だが、結果は、変わらない。
証明は、終わった。
俺は、二つの視線を感じていた。
一つは、ボルカスのものだ。
俺は、彼の方を見た。
彼の、あの死んだ魚のような目は、そこにはなかった。
大きく、見開かれた瞳。
その奥に宿るのは、もはや、「興味」ではない。
自らの常識、絶望の哲学、この谷の絶対的なルール、その全てが、目の前で、たった一本の棒によって、粉々に砕け散る様を目の当たりにした、純粋な。
「畏怖」。
そして、もう一つ。
遠巻きに見ていた、カエルの視線。
彼の瞳に宿るのは、「侮蔑」ではなかった。
自らが信奉してきた、「暴力」という名の、唯一絶対の神が。
全く別の、理解不能な、「力」の前に、その絶対性を失ったことへの。
「警戒」。
そして、自らが、決して持ち得なかった、その力への、黒い。
「嫉妬」。
これが、最初の答えか。
孤独の中で描いた、俺の設計図が、初めて、世界に肯定された、最初の瞬間。
それは、まだ、熱狂ではない。
だが、確かに、俺の胸の、あの冷たい穴を、ほんの少しだけ、埋める、温かいものだった。
静寂を破ったのは、ボルカスだった。
その声は、震えていた。
「……お前は、一体、何者だ?」
その問いは、俺の魂の核心を突いていた。
俺は、何者か?
奴隷1138番。
違う。それは俺が捨て去るべき、古い枷の名だ。
俺はもう、番号ではない。
モノではない。
俺は、この絶望の谷底から。
世界の法則の、最も高い場所を目指すと決めた。
天頂を。
その決意こそが、俺の、新しい名だ。
「――ゼニス」
俺は、静かにそう名乗った。
それは、自らの生き方を定義する儀式でもあった。
「俺の名は、ゼニス。奴隷1138番だった男だ」
そのたった一言が、この谷の古い法則が死んだことを告げていた。
ボルカスの瞳から、墓守の光が、完全に消える。
そして、カエルの嫉妬に満ちた瞳の奥に、その名が刻み込まれるのが分かった。
俺は、心の中で、こう付け加える。
あなたたちと同じ、ただの奴隷だ。
だからこそ、あなたたちの王になれる。




