第五十七話『静かなる心臓』
爆破から、数日が過ぎた。
灰色谷の風景は、一変していた。
川沿いにあった巨大な水車は、無惨な瓦礫の山となり、撤去された。
代わりに設置されたのは、巨大な「十字の棒」だ。
その棒には、数十人の奴隷たちがしがみつき、泥まみれになりながら、円を描いて歩いている。
「押せぇ!足を止めるな!」
「休めば、工場の火が消えるぞ!」
ゼニスの怒声が響き、奴隷たちが苦悶の声を上げながら、重い棒を押し続ける。
それは、産業革命以前の、ただの「肉体労働」の光景だった。
その様を、少し離れた丘の上から、監視者グレイが見下ろしていた。
「……フン。哀れなものだ」
グレイは、冷ややかに鼻を鳴らした。
「システムなどとほざいていたが……結局、物理を失えば、こうなる。
所詮、人間など『肉体』に過ぎん」
彼は、奴隷たちの苦しげな表情と、必死に鞭を振るう(フリをしている)ゼニスを見て、「完全な敗北と服従」を確認した。
これならば、もう監視する必要もない。
彼は興味を失い、踵を返して去っていった。
グレイの姿が見えなくなった、その瞬間。
ゼニスが、鞭を下ろした。
「……行ったか」
彼は、奴隷たち――マルコやボルカスたちに向かって、声を潜めて告げた。
「……いいか、全員。
絶対に、『足』を止めるな。だが、力は抜いていい。
……そのまま、『リズム』を、刻め」
ゼニスは一人、工場の裏手にある、目立たないマンホールを開けた。そこは、かつて、彼とボルカスが命懸けで掘り抜いた、「旧排水路」への入り口だった。
梯子を降りると、湿った冷気と共に、油と鉄の匂いが鼻をつく。地下空洞。そこには、ロイド、ギデオン、リーナが集まっていた。
彼らの前には、ロイドが極秘に鋳造していた「二つの巨大なシリンダー」が転がっている。だが、誰もが困惑していた。「筒」と「棒」だけで、どうやって失われた「水車」の代わりになるのか、想像もつかないからだ。
ロイドが、焦燥しきった声で吠えた。
「……ゼニス様!説明してくれ!こんな『筒』で、あの巨大な工場の動力を生み出すだと!?正気の沙汰とは思えねえ!」
「安心しろ…正気だ」
ゼニスは、松明の明かりの下で、羊皮紙を広げた。そこには、単純だが奇妙な構造図が描かれていた。
「……いいか、全員。よく聞け。俺たちが造るのは、『爆発』でも『蒸気』でもない。……『呼吸』する心臓だ」
「……呼吸?」
ゼニスは、二つのシリンダーを指差した。
「空気は、温めれば『膨張』し、冷やせば『収縮』する。この筒の『底』を火で炙り、中の空気を膨張させて、ピストンを押し上げる。押し上げられた空気は、『上』にある冷たい水で冷やされ、収縮してピストンを引き戻す」
ゼニスは、両手で、膨らんだり縮んだりするジェスチャーをした。
「吸って、吐いて。吸って、吐いて。この『温度差』による空気の往復運動を、クランクで『回転』に変える。……それが、『スターリングエンジン』だ」
原理は、あまりにも単純だった。だが、単純ゆえに、実現は困難を極める。
ロイドが、即座にその「弱点」を見抜いた。
「……理屈はわかった。だが、そりゃ机上の空論だ!」
ロイドは、スパナを床に叩きつけた。
「『空気』だぞ!?鉄と鉄の隙間から、空気が漏れちまう!少しでも漏れれば、『呼吸』は止まる!圧力が逃げて、ただの鉄屑だ!今の俺の技術じゃ、ミクロン単位の密閉加工なんてできねぇ!」
技術の限界。産業革命初期の、「加工精度」の壁だ。空気を閉じ込める「完全な密室」が作れない。
「……どけ、ロイド」
その時、背後から静かな声がした。CFO、ギデオンだった。彼は、いつもの帳簿ではなく、古びた「工具箱」を手にしていた。
「……ギデオン?金貸しに何ができる」
「……金貸しじゃない」
ギデオンは、工具箱を開いた。中に入っていたのは、最高級の「なめし革」と、数種類の「オイル」。
「……ここからは、『元・スラムの革職人』の仕事だ」
「なっ……?」
「ロイド。お前の鉄が『硬すぎる』なら……『生き物』で埋めればいい」
彼は上着を脱ぎ捨て、革を切り出し始めた。その手つきは、計算高いCFOのそれではない。かつて「ゴミ」から「芸術品」を生み出していた、職人の手だった。
ギデオンは、革をオイルに浸し、ピストンの側面に丁寧に巻き付けていく。
「……革は、生きている。油を吸えば膨らみ、乾けば縮む。鉄の隙間を、革が呼吸するように埋めるんだ」
彼は、革を巻いたピストンを、シリンダーに差し込んだ。
「……『吸いつく』が、『滑る』。……この『手触り』だけが、かつての俺の、唯一の『価値』だった」
ギデオンが、ピストンを押し込む。
――シュゥ……。
空気が漏れる音ではない。完璧に密閉された空気が、滑らかに圧縮される音。
ロイドが、目を見開いた。
「……気密が……保たれてる……?」
「呼吸」を逃さない、完璧な肺が完成した。
ロイドは、ニヤリと笑い、ギデオンの肩を叩いた。
「……へっ。金勘定だけじゃなかったんだな、相棒」
「ふん。……さあロイド。肺はできた。次は『骨』だ」
ギデオンに促され、ロイドは地下の闇から、煤けた鉄の塊を引きずり出した。 それは、爆破された水車の残骸から回収した、ひしゃげた「主軸」と、欠けた「歯車」だった。
「……こいつらは死んじゃいねぇ。俺が鍛え直した」
ロイドは、シャフトを二つのシリンダーの上に架け渡した。 そして、ピストンから伸びる棒を、シャフトのクランクに接続する。
ガキン、と重い金属音が響く。
ゼニスが、その構造を指差して解説する。
「……わかるか。 ピストンが『呼吸』して上下に動く。 その縦の動きが、このクランクを通じて、シャフトの『回転』に変わる」
ゼニスは手で回すジェスチャーをした。
「このシャフトが回れば、ギアが回る。 ギアが回れば、地上の工場に動力が伝わる。 ……死んだ水車の魂が、この地下で蘇り、再び工場を動かすんだ」
ロイドが、愛おしそうにシャフトを撫でた。
「……任せとけ。 水車の無念は、俺がこの『回転』に乗せて晴らしてやる」
気密は確保された。次は、「冷却」と「燃料」だ。
ゼニスは、シリンダーの上部を指差した。
そこは、地下水路の冷たい水に浸かっている。
「……冷却水は、ここにある」
ゼニスは、かつてこの水路を掘った時のことを思い出す。
あの時、ボルカスと交わした、「この谷を変える」という最初の契約。
「……過去が、未来を冷やす。
……無駄なことは、一つもなかったな」
そして、ゼニスは、ロイドに「燃料タンク」への注入を命じた。
ロイドが持ち上げた樽。
そこから注がれたのは、薪でも石炭でもない。「透明な液体」だった。
ギデオンが、悲鳴を上げた。
「おい!待てゼニス!それは……『スピリタス』だぞ!」
それは、彼らが必死に売りさばき、金貨を稼いでいた「高純度アルコール」そのものだった。
「……『金貨』を燃やす気か!?正気か!?」
「……正気だ」
ゼニスは、冷徹に答えた。
「薪や石炭を燃やせば、『煙』が出る。匂いもする。
地上にいるグレイに、一発でバレる」
ゼニスは、アルコールの揺らめく液面を見つめた。
「……だが、アルコールは『完全燃焼』する。
煙も出ない。匂いもない。……そして、熱量は高い」
「だ、だが……コストが……!」
「ギデオン。……『金貨』を燃やして、『動力』を買うんだ。
……減価償却しろ、CFO」
ギデオンは、呻き、そして、諦めたように笑った。
「……クソッ。……高くつく『動力』だぜ」
準備は整った。
点火役は、リーナだ。
彼女は震える手で、マッチを擦った。
「……お願い。……動いて」
彼女が火を近づけると、ボッ、と「青白い炎」が、シリンダーの底を舐めた。
音はない。煙もない。
ただ、純粋な「熱」だけが、シリンダー内の空気を膨張させる。
――ヌッ……。
熱せられた空気が膨張し、ピストンを押し上げる。
その動きが、フライホイールを半回転させる。
――スッ……。
押し上げられた空気は、上部へ移動し、地下水で冷やされる。
収縮し、ピストンを引き下げる。
熱による膨張。水による収縮。
その温度差だけを動力に変える、理論上の「永久機関」。
スターリングエンジン。
「ヒュン……」
ホイールが回る。
「ヒュン……ヒュン……」
加速する。
だが、爆音はない。
蒸気機関のような、荒々しい排気音もない。
「ヒュンヒュンヒュンヒュン……」
それは、巨大な生物の「呼吸音」のように。
静かに、しかし力強く、地下の闇の中で回り始めた。
・
・
・
地上。
キャプスタンを押していたマルコは、背中に奇妙な感覚を覚えた。
「……あれ?」
今まで、重くて動かなかった棒が。
急に、背中を「グンッ!」と、押してきたのだ。
「……き、来た……!」
マルコは、足元の地面の下を想像し、戦慄した。
「……『透明な巨人』が、押しやがった……!」
地下の回転運動が、シャフトを通じて、地上のキャプスタンに伝わったのだ。
もはや、奴隷たちが押す必要はない。棒は、勝手に回っている。
だが、このままでは「音が静かすぎる」。
そして、「棒が勝手に回っている」ことが、遠目のグレイにバレてしまう。
いつの間にか戻ってきたゼニスが、小声で指示を出した。
「……歌え。……音を、消せ」
エララが、頷いた。
彼女は、リズムに合わせて、手を叩き始めた。
そして、歌い出す。
かつて、第二話で、絶望の中で口ずさんだ、あの英雄譚を。
「♪王よ~、あなたは~、民の腹を満たすのか~」
奴隷たちが、それに合わせる。
「♪それとも~、魂を満たすのか~(ドンドン!)」
彼らは、棒にしがみつき、必死に押している「フリ」をした。
だが実際は、エンジンの強大なトルクに身を任せ、くるくると回っているだけだ。
それは労働ではない。
巨大なメリーゴーランドに乗った、休息と遊戯の時間だった。
「♪深き谷底~、龍を誘い~」
「♪遂に放つ~、谷に眠る~、怒れる大地の息吹~!」
歌声が、エンジンの「ヒュンヒュン」という駆動音を、完璧にかき消していく。
かつては無力だった歌が。
今は、最強のシステムを隠す、「迷彩」となっていた。
遠くの丘で、グレイがそれを見ていた。
彼は、奴隷たちが苦し紛れに労働歌を歌い、死に物狂いで棒を押していると、「完全に誤認」した。
「……苦しんでいるな。やはり、恐怖こそが秩序だ」
彼は、満足して、その場を去った。
CEOルームの窓辺。
ゼニスは、その光景を見下ろしていた。
工場は、再び動き出していた。
地下からの動力は、シャフトを通じて、すべてのラインに命を吹き込んでいる。
だが、煙突から煙は出ていない。水車も回っていない。
外からは、「死んだ工場」にしか見えない。
ゼニスは、青い炎の残像を瞳に宿し、アークライトのいる方角を見据えた。
「……見たか、アークライト。お前たちの『物理』は、音を立てて破壊する」
ゼニスは、自らの胸に手を当てた。
そこには、静かに、しかし熱く脈打つ鼓動がある。
「だが、俺たちの『システム』は、音もなく、世界を回す」
「……これが、『静かなる心臓』だ」




