第五十六話『見えざる手と砕かれた歯車』
「神経」が繋がり、そこから一ヶ月という時間が流れた。
灰色谷は、かつてない「熱」に包まれていた。
工場の煙突からは絶えず白煙が上がり、巨大な水車は力強い水音を立てて回り続ける。その動力は、ロイドが整備したシャフトを通じて、製粉、攪拌、鋳造、すべてのラインに命を吹き込んでいた。
広場では、エララが子供たちに「甘い焼き菓子」を配り、ボルカスが荷馬車に積み込まれる樽の数を、誇らしげに数えている。
飢えはなく、寒さもなく、明日への恐怖もない。
ゼニスが構築した「システム」は、この谷に「繁栄」という名の果実をもたらしていた。
サイラスの荷馬車は、一台から五台へと増えた。
それらは「腐らない食料」と「酒」を満載し、飢えた王都の闇市場へと、奔流のように流れ込んでいた。
灰色谷・CEOルーム。
ここだけは、熱気とは違う、張り詰めた「冷気」が支配していた。
「グレイ殿。リリアナ様からの『注文書』です」
ギデオンが、汗ばむ手を隠すように、震えを殺して帳簿を読み上げる。
「『赤ワイン(=市場の警戒)』が『5(=中程度)』。『綿花(=兵士)』よりも『鉄(=農具)』の相場が上がっているとのことです」
監視者グレイは、手元の記録書にペンを走らせながら、満足げに頷く。
「……ふむ。王都も復興へ向けて農具を求めているか。平和なことだ。
よし、鉄の増産を許可する。……順調だな、ギデオン」
「は、はい……恐悦至極に……」
ギデオンは深々と頭を下げる。だが、その眼下で、ゼニスと交わす視線は、全く別の「会話」をしていた。
(……『赤ワイン5』。オルティスの私兵団が動いている)
(……『鉄』の相場上昇。敵は、農具ではなく『武器』を増産している)
表向きは「平和な商売の報告」。
裏では「切迫した軍事情報の共有」。
この、首の皮一枚で繋がった「二重会話」こそが、今の灰色谷を守る唯一の生命線だった。
ゼニスは、窓の外の平和な光景を見下ろしながら、内心で独白する。
(……構築できている。経済も、情報も、アークライトの信頼も。このまま行けば、あと半年で……我々は『対等』になれる)
その頃。
王都、宰相公邸「静寂の間」。
そこは、灰色谷の喧騒とは対極の、窒息しそうなほどの「静寂」に支配されていた。
中央の巨大な机に、一人の老人が座っている。
宰相・オルティス。
彼は、持ち込まれた報告書に目もくれず、ただ、虚空を見つめていた。
「……報告します」
密偵が、震える声で告げる。
「闇市場における食料価格が、計算より『5%』下落しています。……供給が、止まりません」
「……」
オルティスは、ゆっくりと口を開いた。
「封鎖から二ヶ月。本来なら餓死者が出始め、暴動が起きる頃だ。
だが、市場には『腐らない肉』と『酒』が溢れている。
……『無』から『有』は生まれない。どこかに巨大な『生産源』がある」
彼は立ち上がり、壁に掛けられた地図へと歩み寄る。
その目は、感情のない深淵だった。
「これほどの規模を維持するには、人力や家畜ではない、巨大な『動力』が不可欠だ。
24時間、休まず動き続け、熱と運動を生み出し続ける、強靭な『心臓』……」
彼の枯れ木のような指が、地図上のある一点――「灰色谷」の川沿い――で止まる。
「……川沿いか。ならば、『水車』だな?」
密偵が息を呑む。
「は、はい!荷馬車の轍を逆探知させたところ、灰色谷に巨大な水車施設が確認されました!」
オルティスは、興味なさそうに鼻を鳴らした。
「……小賢しい『鼠』が。私の盤上で、頼みもしない『エラー』を弾き出している」
彼は机の上の「赤い羽ペン」を手に取り、地図上の灰色谷に、無造作に、しかし残酷なほど力強く、「×(バツ)」を刻み込んだ。
「……『修正』する。
工作員に伝えろ。その『心臓』を止めろ。
手段は問わん。……『物理的』に、粉砕しろ」
・
・
・
灰色谷。
正午を過ぎ、工場の稼働音が心地よいリズムを刻んでいた。
ゼニスはCEOルームからその光景を見下ろし、確信していた。
システムは完成した。あとは時間をかければ、勝てる。
その、慢心とも言える一瞬の隙。
CEOルームで、ゼニスが次の指示を出そうとした、その時だった。
ドゴォォォォォォォン!!!!
腹の底に響くような轟音が、谷全体を揺さぶった。 衝撃波で窓ガラスがビリビリと震え、棚の書類が雪崩のように崩れ落ちる。
「なっ……!?」
ゼニスが窓辺に駆け寄る。 その目に映ったのは、信じがたい光景だった。
川沿いから、どす黒い爆煙が立ち上っている。
かつて、ロイドたちが命懸けで作り上げ、産業革命を支え続けてきた、あの巨大な水車が。 基部からへし折られ、無惨に砕け散り、川へと崩れ落ちていく瞬間だった。
バキバキバキッ……ドボン!!
水しぶきが上がり、巨大な輪が回転を止める。 そして、訪れたのは――「静寂」だった。
キィン……スン……。
シャフトの回転が止まり、鉱山の換気が止まり、工場のラインが停止する。 市場の賑わいさえも、凍りついたように消え失せた。 谷の鼓動が、物理的に、止まったのだ。
マルコが、顔面蒼白で部屋に飛び込んでくる。
「ゼ、ゼニス!! 水車が……!! 動力炉が、やられた!! 工作員の自爆攻撃だ!!」
「……!!」
ゼニスは手すりを強く握りしめ、唇を噛む。
(工作員……!? どこから侵入した!? 情報統制は完璧だったはずだ!)
その狼狽を、隣に立つ監視者グレイの、氷のような声が遮った。
「……当然の報いだな」
「……何?」
グレイは、崩れ落ちた水車を冷ややかに見下ろしていた。 そこには驚きも焦りもない。あるのは、「戦場」を知る者だけが持つ、残酷な納得だけだった。
「お前は『商売』を広げすぎた。 王都へ続く荷馬車の列。市場に溢れる物資。 ……それは、オルティスに対し、『我々の心臓はここにある』と、大声で叫んでいたも同然だ」
「……ッ!」
ゼニスの脳裏に、誇らしげに出発していったサイラスの荷馬車の列がよぎる。 血の気が引いていく。 そうだ。システムを巨大化させ、血管を太くしすぎた結果、その脈動が、敵に位置を教えてしまったのだ。
グレイは、ゼニスに向き直り、言い放った。
「これは事故ではない。『制裁』だ。 所詮、貴様の『システム』など、圧倒的な『暴力』の前では、紙切れ同然。 ……守る力なき繁栄など、砂上の楼閣に過ぎん」
反論できなかった。 水車を失った今、灰色谷の全機能は停止した。
これは、「経営の失敗」ではない。「敗北」だ。
ゼニスは、ギリリと歯を噛み締める。 積み上げた論理が、たった一撃の暴力で崩れ去る音を聞いた。
『経営』の時間は終わった。 ――ここからは、血の味がする『本物の戦争』だ。




