第五十五話『黄金の循環』
「血脈」開通から、数日が経過した。
灰色谷は、かつてない活気に包まれていた。
「腐敗」との戦争に勝利し、サイラスの荷馬車が王都へ向かうたびに、新たな「富」が約束される。
工場からは蒸気が上がり、鍛冶場からは鉄を打つ音が響く。
だが、その繁栄の中心にある「代理看守長室(CEOルーム)」だけは、凍りつくような緊張に支配されていた。
「……ゼニス!『現物』が限界だ!」
CFOギデオンが、血相を変えて机を叩いた。
彼は、増え続ける帳簿の山に埋もれかけている。
「……農民から『腐敗食料』を買い叩くために払ったライ麦。
サイラスへの報酬として渡したライ麦。
そして、『保存食』の原料として消費されたライ麦……!」
ギデオンは、悲鳴に近い声を上げた。
「金貨15枚分の備蓄が、底をつきかけている!
今の消費ペースだと、あと『一ヶ月』……いや、半月で倉庫が空になるぞ!」
ゼニスは、窓の外の活気ある工場を見下ろしながら、静かに答えた。
「……想定より早かったな。生産速度が上がりすぎたか」
「他人事みたいに言うな!在庫が尽きれば、俺たちが発行した『手形』はただの紙切れだ!
農民たちが『約束の麦をよこせ』と押し寄せてきたら、俺たちは詐欺師として吊るされるぞ!」
ギデオンは、脂汗を拭いながら、一つの「苦肉の策」を提示した。
「……だから、俺は『引換券(手形)』を本格的に流通させたい。
『今は現物がないが、収穫後に必ずライ麦と交換する』という、未来の約束手形だ。
これなら、現物がなくても経済を回せる」
「悪くない手だ。だが!」
ギデオンが叫ぶ。
「裏付けがないんだよ!今の畑を見てみろ!まだ芽が出たばかりだ!
『本当に収穫できるのか?』と疑われた瞬間、信用は崩壊する。
……今すぐ、誰が見ても明らかな『確実な生産の保証』が要るんだ!」
その頃。
工場の裏手では、別の悲鳴が上がっていた。
「……おいゼニス様!いい加減にしてくれ!」
工場長ロイドが、油まみれの顔で怒鳴り込んでくる。
彼は命令通り、「保存食用の樽」も「コンロ」も完璧に作り上げ、工場をフル稼働させていた。
だが、その成功こそが、新たな地獄を生んでいた。
「……『ゴミ』だ!ゴミがヤベェぞ!」
ロイドが指差した先には、工場の排水口から吐き出される、ドロドロとした茶褐色の液体が溜まっていた。
「アルコールを絞った後の、『麦の搾りカス(廃液)』だ!
毎日山のように出る!川に流せば下流の村が汚染されるし、積んでおけば腐って悪臭を放つ!」
ロイドは、頭を抱えた。
「燃やそうにも水分がありすぎて燃えねぇ!
このままだと、工場が自分の出した糞で埋まっちまうぞ!どうすりゃいいんだ!」
「在庫の枯渇」と「廃棄物の氾濫」。
システムが高速回転し始めたことで生じた、二つの「歪み」。
ゼニスは、その二つの報告を聞き、静かに立ち上がった。
「……ロイド。その『ヘドロ』を、樽に詰めろ」
「あ?どこに捨てる気だ?」
「捨てるんじゃない。『運ぶ』んだ」
ゼニスたちが向かったのは、灰色谷の外れにある農場エリアだった。
そこには、エララと、そしてリーナの姿があった。
リーナは、「保存食のレシピ開発」を完璧に遂行した後、ゼニスの指示で本来の役割――「農業」へと戻っていた。
だが、その表情は暗い。
「……無理よ、ゼニス」
リーナは、青々とした、しかし未だ背の低いライ麦の若芽を見て、首を振った。
「エララさんのおかげで、土は良くなったわ。でも、植物の時間は変えられない。
育って収穫できるまで、あと最低でも三ヶ月はかかるわ」
ギデオンが呻く。
「三ヶ月……!待てるか!その前に破産だ!」
ゼニスは、冷徹に命じた。
「リーナ。お前の『魔法』を使え。時間を早めろ」
「……!」
リーナの顔が、恐怖に強張った。
彼女は、かつて「霧の森」で犯した失敗を思い出していた。
「……嫌よ。あれは『略奪』なの!」
彼女は叫んだ。
「魔法で無理やり成長させれば、土の栄養を一瞬で吸い尽くしてしまう!
土地は死に、出来上がるのは中身のない『スカスカの実』だけ……。
それに、こんな広大な畑全体に魔法をかけたら、私の魔力が尽きて死んでしまうわ!」
それは、技術者としての、誠実な拒絶だった。
魔法は万能ではない。等価交換だ。
「時間」を買うには、「莫大なエネルギー」という対価が必要なのだ。
ギデオンとロイドが、絶望的な顔を見合わせる。
「……詰み、か」
沈黙の中、ゼニスだけが、静かに口を開いた。
「……ロイド。持ってこい」
ロイドが、荷車に積んできた樽を降ろす。
蓋を開けると、強烈な発酵臭が漂った。あの、工場の「産業廃棄物」だ。
「うげっ……臭ぇ!」
「ゼニス!こんなゴミを畑に捨てたら、麦まで枯れちまうぞ!」
全員が顔をしかめる中、ゼニスはリーナを見た。
「リーナ。『鑑定』しろ」
「……え?」
「その『ゴミ』の中に、何が入っているか。お前の目で確かめろ」
リーナは、嫌々ながらもそのドロドロの液体に近づき、魔力を集中させた。
……その瞳が、驚愕に見開かれる。
「……これ……!」
彼女は、震える手で液体をすくい上げた。
「……窒素……リン……カリウム……!?それに、発酵で分解されたアミノ酸の塊……!?」
ゼニスが、解説する。
「蒸留の過程で、アルコールは抜けた。
だが、麦が持っていた『栄養素』は、消えたわけじゃない。
全てこの『残りカス』の中に、極限まで濃縮されて残っている」
ゼニスは、ロイドとギデオンを見渡した。
「これはゴミじゃない。……植物にとっての『超・高カロリー食』だ」
方程式が、繋がる。
『エララの土(ふかふかの寝床)』
『ロイドの廃液(圧倒的な栄養)』
『リーナの魔法(時間の加速)』
ゼニスは、リーナに告げた。
「……この『廃液』を土に撒けば、土壌の栄養価は限界突破する。
その状態で、お前の『魔法』を使え。
土から栄養を奪うのではない。溢れかえった栄養を、無理やり麦に押し込むんだ」
「……!」
リーナの脳内で、計算式が組み変わる。
「……それなら……!土は痩せない!むしろ肥える!
私の魔力は、成長の『スイッチ』を入れるだけでいい……!
……いける!私も倒れない!」
魔女の目に、狂気じみた研究者の光が戻った。
「ロイド!ギデオン!樽をひっくり返して!」
「う、うぉぉぉ!?」
リーナの指揮の下、ロイドたちが工場の「ゴミ」を畑にぶちまける。
黒い液体が、エララの作った土に染み込んでいく。
リーナが、畑の中心に立ち、両手を広げた。
今回は、悲鳴を上げない。
彼女は、指揮者のように優雅に、大地へと命令を下した。
「……『飽食』!」
翠の光が、畑を奔る。
その瞬間。
ボコッ、ボコッ、と土が脈動した。
ひざ丈ほどだった若芽が、見る見るうちに天へと伸びていく。
茎は太く、葉は青々と茂り、そして――
サワァァァァ……。
風が吹いた。
そこには、一瞬前まで存在しなかった、「黄金の波」が広がっていた。
たわわに実った、重厚なライ麦の穂が、波打っている。
「……すげぇ……」
ロイドが、汚れた手で顔を覆った。
ボルカスが、震える手で、その穂を一つ掴む。
殻を割ると、中からパンパンに詰まった、宝石のような麦粒が現れた。
「……実ってる。……しかも、以前の倍の大きさだ……!」
ギデオンが、畑の真ん中で、膝から崩れ落ちて笑い出した。
「……ははっ……!
おい、ゼニス。計算していいか?
工場の『ゴミ』が出るたびに、この『収穫』ができるなら……」
「ああ」
ゼニスは、黄金の海を見渡した。
「……俺たちの『通貨(ライ麦)』は、『無限』になった」
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灰色谷の広場に、収穫されたばかりのライ麦が、山のように積み上げられた。
その圧倒的な「物量」を前に、農民も、労働者も、言葉を失っている。
ギデオンが、羊皮紙の束――『ライ麦手形』を掲げた。
もはや、誰もその紙切れを疑わない。
目の前にある「無限の麦」が、その価値を絶対的に保証しているからだ。
「……循環の完成だ」
ゼニスは、CEOルームからその光景を見下ろしていた。
1.農業で「麦」を作る。
2.工場で「酒」と「保存食」を作る。
3.それを販売し、外貨を稼ぐ。
4.工場の「廃棄物」が肥料となり、再び「麦」を育てる。
無駄が一切ない。
外部からの供給が止まっても、内部だけで永遠に富を生み出し続ける、
完璧な「経済生態系」。
これこそが、灰色谷の繁栄の「心臓」だった。
ゼニスは、静かに呟いた。
「……勝てる。このシステムがあれば、経済封鎖など、恐るるに足らない」




