第五十一話『紙屑と戦争』
金糸雀の籠・テラス。
価値の葬儀を終え、リリアナは未だ恍惚に濡れた共犯者の目で、ゼニスに向き直った。
「…実に見事な物語でしたわ、ゼニス様」
「…ですが、旧体制はまだ死んでおりません」
「…わたくし、たまらなく次が、見たくなりましたわ。…織物ギルドも、葡萄酒ギルドも…すべて、葬ってさしあげまして?」
その言葉に、ギデオンが歓喜に打ち震えた。
「(…香水の次は、織物と酒…!)」
「(…灰色谷のシステムを使えば、独占できる…! 莫大な利益が…!)」
ギデオンは震える手で、CFOとしての勝利の証――
『スリーピングシン』:独占販売契約書の羊皮紙を、リリアナに差し出した。
「(歓喜)…リリアナ様! まずはこれに、ご署名を!」
リリアナが、「…フフッ、可愛らしい商人様ですこと」と、ペンを取ろうとした、その瞬間。
ゼニスが、その契約書の上に手を置いて止めた。
「…待ってください」
「(絶句)…なっ!? ゼニス、お前…!」
「…(ピクリ)…あら?」
ゼニスは、その熱を無視し、ギデオンに向き直る。
「…ギデオン。…その契約書は間違っている」
「(絶叫)…何が間違っている! これは我らの利益の結晶だ!」
「…利益が小さすぎると言っている」
「(…は?)」
ゼニスはリリアナに向き直る。
その目は商人の目ではない。次の戦場を見据えていた。
「…リリアナ様。…俺たちは香水を売るのではない」
「…古いギルドを、破壊するシステム、そのものを売る」
「…貴女は客になるのではない。…この物語の、投資家になるのです」
「……」
リリアナは、その規格外の回答に、一瞬目を見開き…
次の瞬間、
「…フフッ…」
「…クフフフフ…! アハハハハハハ!!」
歓喜に打ち震え、喉を鳴らして笑った。
「…これよ! これこそが、わたくしが見たかった、本物の物語…!」
リリアナは、ギデオンが持っていた独占販売契約書を、美しい指先で「邪魔だ」と言うように、横に押しやった。
彼女は傍らの支配人から、白紙の羊皮紙とペンを受け取る。
「…ゼニス様。…小さなカネの話は邪魔ですわね」
「…灰色谷と金糸雀の籠は、…対・オルティス、全面同盟を締結いたします」
「…さあ、この白紙に、次の物語の盟約を…」
リリアナが、その白紙の同盟書にサインをしようとした、その瞬間。
「――お待ちいただきたい」
氷のように冷徹な声が響き渡った。
王室監査官が、衛兵を引き連れ現れた。
「(…オルティスの犬…? なぜ、ここに…)」
監査官はリリアナを一瞥し、
次に、(押しのけられた)ギデオンの小さな契約書と、
(サインされる直前の)リリアナの白紙の同盟書を、
見て、初めて薄く笑った。
「…祝杯と新たな契約ですか。…それは少し、早すぎたようだ」
監査官は、冷徹に事実を告げる。
「…王室からの、第一の通達です」
「…貴公らの領地(=アークライト領)が、旧体制に対し敵対行為を行ったと、認定されました」
「…よって、アークライト公爵領全域に対し、全面経済封鎖を発令します」
「(絶句)…けい、ざい、ふうさ…!?」
監査官は、次にリリアナに向き直る。
「…第二の通達。リリアナ、あなたの反逆行為を認定しました」
「…よって、金糸雀の籠の全ての、通信ラインを、遮断します」
「…貴女は王都の籠の中、…誰とも話せず、孤独に幽閉される」
「(…(眉をピクリと動かす)…)」
飢餓と、情報の断絶。
完璧な二つの反撃だ。
監査官は最後に、
ギデオンが震えながら見ている小さな契約書と、
リリアナがサインできずに止まっている白紙の同盟書、
その二つの羊皮紙に目をやった。
「…経済封鎖で物流は止まる。情報遮断で通信も止まる」
「…その契約書も同盟書も、…輸送できず連絡も取れない、等しく紙屑だ」
「…灰色谷の勝利は、たった一日で終わったな」
監査官は一礼し、衛兵と共に去っていく。
衛兵の一部が残り、リリアナを軟禁する。
ゼニスたちは追い出された。
灰色谷への帰路。
狂人たちの雰囲気は最悪だ。
ギデオンは、勝利の果実であったはずの紙屑(=小さな契約書)を握りしめ、死んだ魚の目をしている。
「…なんだったんだ…! 俺たちの勝利は…!」
「…経済封鎖…!? …飢餓に逆戻りだ…!」
マルコも絶望している。
「…リリアナ様が捕まった!? 王都の情報が入らない…! 同盟もクソもねぇ!」
その絶望の中心で、ゼニスだけが冷静だった。
灰色谷に着くと、アークライトの親衛隊が待っていた。
「…公が、代理看守長室(CEOルーム)にて貴様らをお待ちだ。…即刻、出頭せよ」
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灰色谷・代理看守長室(CEOルーム)。
玉座にはアークライトが座っていた。
彼は腕を組んでいない。激怒もしていない。
ただ、氷のように冷たく静かな目で、ゼニスたちを見ていた。
彼は、灰色谷の勝利も、監査官の訪問も、経済封鎖も、リリアナの幽閉も、
――彼の別のルートで、全て知っていた。
ギデオンが震えながら口を開こうとする。
「…アークライト公! これは、その…!」
「――黙れ」
アークライトの地を這う一言が、ギデオンの声を圧し殺した。
彼の目はギデオンを無視し、ゼニスだけを射抜いていた。
「…奴隷、1138番」
「…お前の勝利は、一日で紙屑になった」
「…旧体制を統括するのは宰相オルティスだ。…奴は、お前を殴ったのではない。…俺の領地と、俺の目を潰した」
ゼニスの表情は変わらない。
それを見て、アークライトは淡々と続ける。
「…故に、お前は死なない。お前は、殺すよりも利用する価値ができた」
「…奴らは、俺の所有物に手を出した。お遊びは終わりだ」
「…戦争の時間だ」
アークライトは玉座からゆっくりと立ち上がる。
「…お前の失態の代償は死ではない。お前は俺の道具として、結果で払え」
「…カネはやらん。紙屑になった勝利に価値は無い」
「…代わりに、戦争の原資をくれてやる」
アークライトは、自らの指から公爵家の印章指輪を引き抜き、
――ゼニスの足元に投げ捨てた。
「…俺の印だ。これで、俺の領地の全てを徴発することを許可する」
「…食料も鉄も人も…この封鎖された領地から全てを搾り出し、戦争をしろ」
「…いいか。お前に全権を与える。一年くれてやろう」
「…その代わり、三つの枷をはめる」
「…枷、その一」
「…この一年で、オルティスの経済封鎖を打ち破る、新たな食料システムを構築しろ」
「…枷、その二」
「…オルティスの情報遮断を突破し、王都のリリアナと再接続する、新たな通信システムを構築しろ。…あれは、俺の目だ」
「…そして、最後にして最大の枷だ」
アークライトの氷の目が、鋭くゼニスを射抜く。
「…お前が構築る、そのシステムは、」
「…この俺が、完全に支配できるものでなければならない」
三つの戦線。
食料、情報、そして、支配。
ゼニスは、床の印章指輪をゆっくりと拾い上げ、
握りしめ、初めて答えた。
「…承知した、主人」




