第五十話『価値の葬儀』
夏至の夜会。
王都の旧い権威が集うその宴は、旧体制の長が誇る、重く澱んだ伝統の香りに支配されていた。
だがその支配は、戦場の表と裏から、すでに侵食されていた。
開宴三十分前。
会場の裏口は、まさしく戦場だった。
ボルカスとカエルが、九十九個の木馬を積んだ荷車を押す。
その前に、最強の門番が立ち塞がった。
この裏口を統括する、支配人だ。
「…リリアナ様から、便宜を図るよう仰せつかっております」
支配人はプロの無表情で言う。
「…ですが、『ブツ(九十九個)』は確認させて頂く。我々はプロだ。…貴族様の夜会を、異臭で台無しにするわけにはまいりません」
「(…害虫…!)」
カエルが棍棒を握りしめる。ボルカスがそれを無言で制した。
ボルカスはゼニスの指示を思い出す。
「(…支配人が抵抗したら、これを渡せ)」
ボルカスは「九十九個」とも「一個」とも別の――「『百一個目』の瓶――を取り出し、支配人に差し出した。
「…支配人の分だ。…貴族の世話で荒れた手に使え。『戦場』を動かすのは、貴族ではなくあなたたちだ」
支配人は、「百一個目」を受け取る。
それは、香水ではなかった。
アルコールの清潔な香りと、聖母が混ぜたカミミの安らぎの香り。手荒れ防止のための、実用品だった。
支配人は、戦慄した。
「(…この男は…)」
「(…俺たちを労働力としてではなく、インフラとして認識している…!)」
彼は、「九十九個」の簡易版の蓋を開け、その安らぎの香りを嗅ぎ、確信した。
「(…これ(九十九個)は贅沢品ではない。…我々の仕事のための『清潔』な『武装』だ…!)」
「下」の掌握は完了した。支配人は完全にプロとして、全使用人に命じた。
「…全員、身に纏え。…『我々の戦場』が始まるぞ」
開宴五分前。
旧い香りが充満する会場そのものを、『金糸雀の籠』の影――楽団の裏の小部屋から、ゼニスとマルコが、見下ろしていた。
マルコは懐中時計を握りしめ、震えている。
「(「裏」の掌握、完了!…タイムテーブル『A』、実行!)」
「(…いや待て、なんで俺が貴族のパーティのタイムテーブルまで管理してんだよぉぉぉ!!)」
「…マルコ。『次』のベルまであと三十秒だ」
マルコのタイムテーブル通り、開宴のベルが鳴る。
開始からしばらくの間は貴族同士の社交が行われる。リリアナの登場はまだ先だ。
ギデオンはリリアナの控え室にいた。一個のスリーピング・シン。リリアナがそれを身に纏う神聖な瞬間を目撃する。
それは香りというよりも、『凝縮された安らぎ』、そのものだった。
リリアナが、クスリ、と妖しい笑みをこぼしながらギデオンに言う。
「…ギデオン様。震えておられますわよ?」
「…武者震いです、リリアナ様。」
「(…この「一個」を纏ったリリアナが「本物」すぎる…!この後に起きる衝撃は計り知れない…!)」
『頂点』の弾丸は、装填された。
宴が始まり一時間。
戦場は、貴族たちの会話に賑わいながら、旧い香りの、重い空気に支配されていた。
そして、その瞬間が訪れる。
第一の弾丸が、放たれた。
リリアナの登場だ。
旧い香りの重い空気を、一すじの光のように、『本物』の香りが貫いた。
第一波。
澱んだ空気に慣れきっていた貴族たちの鼻が、リリアナに一斉に向いた。
「(…なっ!?)」
「(…なんだこの安らぎと深みは…!?)」
「(…我々が纏う香りとは本質的に何かが違う…!)」
欲望が起動する。
『頂点』は熱狂に包まれ、貴族たちがリリアナに殺到した。
その熱狂に、ギルドの長が不快感を剥き出しにして割って入った。
旧い秩序の番人だ。危機の発生。
「…リリアナ様。その香りは異質にございます。我らが伝統を乱す、野蛮な香り。すぐにお改めください」
『頂点』の熱狂に、冷や水が浴びせられる。
伝統という言葉に、貴族たちの間に静かに動揺が広がる。
ギデオンは、わずかに揺らいだその空気を、敏感に察知した。
「(…(冷や汗)…!くそっ、あの老害が出しゃばってきやがった…!)」
指揮所でその危機を見ていたマルコが小声で叫ぶ。
「…ゼニス!害虫だ!弾丸が止められるぞ!」
「……マルコ。案ずるな、支配人が動く。『ゼロアワー』だ」
満を持して、第二の弾丸が放たれる。
ギルドマスターが野蛮を叫んだその直後。
指揮者(=支配人)の合図で、『九十九個』を纏った使用人たちが、一斉に次の料理を運び、動揺する貴族たちの間を縫うように動き回った。
戦場は、『頂点』の「本物」と『底辺』の「簡易版」に挟み撃ちにされた。
価値の逆転が始まる。
動揺していた貴族たちが気づきはじめた。
貴族A「(…あれ?)」
貴族B「(…この使用人の香り…リリアナ様の香りと似ていますわ…?)」
貴族C「(…リリアナ様の方が圧倒的に力強い。だが…この会場そのものが一つの香りに染まっていく…?)」
そして、彼らは、自らを省みる。
自分が纏う、旧い香りを。
リリアナ(頂点)の香りは、『上質』。
使用人(底辺)の香りは。『安らぎ』。
では、自分の香りは…?
皮肉にも『葬儀』の執行は、その旧い価値の中心にいるギルドマスター自身の、最後の失言によって行われた。
「…貴様ら!この香りは何だ!使用人までが異臭を放っているではないか!」
その瞬間、ギルドマスターの近くにいた一人の貴婦人が。
そっと鼻を押えて、言い放った。
「…いやですわ。ギルドマスターが仰る伝統の香り…。古くさくて重くて…」
「…なんて悪臭なの!?」
その言葉をきっかけに、騒めきが一気に会場中に伝播する。
ゼロアワーだ。
ギルドの権威が今、音を立てて崩壊した。
旧い価値が、死んだ。
貴族たちは、悪臭から逃げるように、新たな価値(=リリアナ)に再び殺到した。
「リリアナ様!」
「我々にもその「本物」をお譲りください!」
指揮所から、悪臭の中心で価値の死体と共にギルドマスターが立ち尽くす様を、ゼニスとマルコが見下ろしていた。
「…これが、価値が死ぬってことなのか…?」
「…ああ。葬儀は完了した。次の戦場が幕を開ける」
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夜会は終わった。
狂人たち――ゼニス、ギデオン、ボルカス、カエル、マルコは、灰色谷への帰路に就こうとしていた。
「…お待ちください」
リリアナだった。
少し離れた場所に支配人を侍らせている。
彼女は祭りの後の喧騒から離れ、彼らの前に立っていた。
彼女の仕草は一部の隙もなく品に溢れているが、恍惚としたその表情から、興奮が滲み出ていた。
「…ゼニス様。お見事です。本当に素晴らしい『物語』でしたわ。」
「…恐れ入ります。リリアナ様こそ、お見事な立ち居振る舞いでした」
「今宵、香水ギルドは間違いなく死にました。彼らの信は失墜し、上客である貴族たちが振り向くことは、二度とないでしょう。」
クスクスと、悪戯っぽく笑う。
「これからしばらく、王都は『スリーピング・シン』の話題で持ちきりでしょうね。わたくしたちは、実物はもちろん、情報さえ流すことはありませんから、余計にね」
ギデオンがその言葉にピクリと反応すると、その姿を見て面白そうに笑った。
「ご安心ください、CFO様。スリーピング・シンは『金糸雀の籠』で独占的に購入いたします。詳しい話は後ほど支配人と」
そこまで言うと、再びゼニスに向き直る。
「…ですが、『旧体制』はまだ死んでおりません」
その目は既に貴婦人のそれではなく、『共犯者』のものになっていた。
「この国を退屈なものにしている元凶が、ね。…わたくし、今宵の物語を愛でるだけでは満足できませんの。たまらなく、『次』を見たくなりましたわ」
彼女は、ゼニスに新たな契約を提示するのだった。




