第五話『最初の賭け』
カエルが去った後、俺は一人その場に立ち尽くしていた。
胸に空いた、冷たい穴。
『孤独』と名付けられた、危険なシステムエラー。
だが、感傷に浸っている時間はない。
カエルに受け入れられないなら、別の道を探すまでだ。
俺のターゲットは、決まっていた。
灰色谷の、もう一人の権力者。
古参監督、ボルカス。
俺は鉱山の第三層、最も古く、最も崩落の危険が高い区画へと向かった。
ボルカスはいつもそこにいる。
岩盤を支える古い木の支柱を、一本一本金槌で叩いて、その音を確かめている。
それが彼の仕事だった。
彼は俺の足音に気づいても、顔を上げようとはしない。
ただ、乾いた音が薄暗い坑道に響くだけだ。
「……監督」
俺が声をかけると、金槌の音がぴたりと止んだ。
ボルカスはゆっくりと、こちらを振り返る。
その顔には、深い皺がまるで谷の地図のように刻まれている。
瞳は死んだ魚のそれだ。
光も、熱も、何もない。
「……何の用だ、1138番」
その声は、岩が擦れるように乾ききっていた。
俺は、単刀直入に切り出した。
「排水計画を立案した。実行には、あんたの権限が必要だ」
俺は懐から、昨日木の皮に書き直した設計図を取り出し、彼に差し出した。
ボルカスは、それに一瞥もくれなかった。
「……やめておけ」
彼はそれだけ言うと、再び支柱に向き直る。
「無駄だ」
金槌の音が再開する。
カン、カン、と。
まるで、俺の言葉など最初から聞こえていなかったかのように。
俺は彼の前に回り込み、その視界を遮った。
「無駄ではない。この計画が実行されれば、病による労働力の損失は――」
「失せな」
ボルカスは、俺の言葉を遮った。
「そういう話は、もう、聞き飽きた」
彼は、金槌を置くと近くの岩にどかりと腰を下ろした。
そして、死んだ目で俺を見上げる。
「十年前にも、五年前にも、お前みたいな奴がいた。誰もが新しい道を掘ろうとした。
そして誰もが、自分の掘った穴で死んでいった。
…小僧。お前には、あの支柱が、何に見える?」
ボルカスは、古い木の支柱を指差した。
「…鉱山を支える、支柱だ」
「違うな」
彼は、乾いた笑みを浮かべた。
「あれは墓標だ。夢を見た馬鹿どもが、最後に立てた、な。
俺の仕事は、新しい墓標を立てることじゃない。古い墓標が、これ以上、仲間を巻き込んで腐り落ちねえように、叩いて回ることだけだ。俺は、墓守なんだよ」
その言葉は、この谷の絶望そのものを言語化したものだった。
彼はサディストではない。
知りすぎているのだ。
希望という病が、どれだけ多くの仲間を殺してきたかを。
定義:ボルカスの精神状態。
完全な『無関心』。
論理的説得に対する絶対的な耐性を持つ。
カエルとは全く異なる種類の、壁。
情熱は、論理で冷却できるかもしれない。
だが、この全てを諦めきった氷の壁の前では。
俺の言葉は、無力だった。
この男を動かすには、論理を超えた別の『何か』が必要だ。
希望ではない。
信頼でもない。
この男の凍てついた心のその奥底に、まだわずかに残っているはずの理性の光。
いや、光ですらない。
かつて彼が技術者であった頃の、古い、古い『OS』。
そのたった一つの『脆弱性』に、直接語りかける。
俺は今から、この男の魂をハッキングする。
俺は、ゆっくりと周囲を見渡した。
そして一つのものを指差す。
坑道の入り口を半分塞いでいる、巨大な岩盤。
どう考えても人力で動かせる大きさではない。
「――監督」
俺の声のトーンが変わったことに、ボルカスがわずかに眉をひそめる。
「俺は、この岩盤を木の棒一本で動かしてみせる」
ボルカスの死んだ魚のような目が、初めて俺を正面から捉えた。
その瞳には、嘲りが浮かんでいる。
「……正気か、小僧」
「正気だ。物理法則に基づいた、純粋な計算の結果だ」
「ふん。計算ね」
俺は、賭けに出た。
「もし動かせたら、俺の計画にあんたの権限を貸してほしい」
それは、あまりにも不遜な挑戦状だった。
奴隷が、監督に。
子供が、大人に。
理想が、現実に。
ボルカスは、呆れたようにため息をついた。
そして立ち上がろうとして――その動きが、一瞬止まる。
彼の死んだ魚のような目に。
ほんの一瞬だけ。
俺の言葉が、彼の魂の分厚い絶望の氷を突き破り、その奥底で化石になっていたはずの「何か」を叩き起こした。
それは、希望ではない。
信頼でもない。
ただ、純粋な。
かつて彼が、一人の技術者として世界の理と向き合っていた頃の。
『――本当に、可能なのか?』
という、呪いのように美しい問い。
墓守が、全力でその問いを殺そうとしている。
だが、技術者が、その問いに魅入られている。
その、ほんの一瞬の魂の戦いが、彼の瞳に、彼自身も忘れていた、
『興味』という名の、光を灯した。
 




