第四十四話『破壊と創造』
新設された製麦所で、ボルカスは自らの存在意義をかけて、ゼニスに食い下がっていた。
ボルカスの声は悲痛だった。
「…ぜ、ゼニス!待ってくれ!『糖化』とは何だ!?
なぜ最高品質の食料を水浸しにする必要があるんだ!」
彼は、荷馬車に積まれた黄金の山を振り返る。
「…俺がこの黄金を手に入れるためにどれだけ…!
何より、坑夫たちはこれを待っているんだ!パンを待っているんだぞ!」
そのボルカスの隣で。
CFOもまた青い顔で震えていた。
(…金貨15枚が水に溶けていく…!)
(…あのカエルの悪夢が再び…!あの時は『間接的なコスト』だったが、今度は『本物のカネ』だ!)
ギデオンはゼニスを睨む。
(…だが待て。…こいつはあの、腐った麦で金を生んだ…)
(…俺はCFOとして信じるしかない…!信じるしかないが、胃が…!)
ゼニスは、その二人の「胃痛」を冷徹に見据えた。
「…ボルカス。お前は、調達部門長だ。
食料を管理する、なまぬるい倉庫番ではない」
ゼニスはボルカスの悲痛な叫びを一蹴した。
「…俺は、食料を破壊すると言っているのではない。進化させると言っている。
…これが理解できないなら」
ゼニスは自ら、ライ麦の重い袋を担ぎ上げた。
「…お前はここで、降格だ」
「…!」
ゼニスは躊躇いなくその黄金を、浸水槽(水浸しの床)にぶちまけた。
黄金が泥水に沈む。
ボルカスはその光景に、絶句した。
「…あ…あ…」
錬金術は始まった。
それは、絶望から始まった。
第一工程:「浸水」。
ゼニスは呆然と立ち尽くすボルカスと彼の(元)部下たちに命じる。
「…全ての麦を水に浸せ。…そして二日待て」
ボルカスは屈辱に唇を噛み締めた。
「…『降格』…」
その一言が、彼のプライドを、粉々にした。
彼は無言で鍬を掴むと、自ら水浸しの床に降り立ち、ただ、命令を実行した。
食料が水を吸い、腐敗へと向かっていくようにしか、彼には見えない。
第二工程:「発芽」。
二日後。
水を飽和点まで吸った麦は、今度はロイドが設置した「温かい床」に広げられた。
炉の廃熱が通るその床は、生ぬるい熱気を帯びている。
「…ここからが本番だ」
ゼニスは、地獄の底にいるような顔のボルカスに告げた。
「…ボルカス。お前の仕事はこの麦が腐らないよう、呼吸させることだ」
「…こきゅう…?」
「ああ」
ゼニスは、ロイドが設計した廃熱の通気口を指差す。
「この熱を使い、一日四回、この麦の山を攪拌しろ。…命を吹き込むんだ」
ボルカスは、意味が分からないまま鍬を手に、その濡れた麦の山に分け入った。
それは地獄のような重労働だった。
水を吸った麦は、鉛のように重い。
生ぬるい熱と湿気が立ち込め、呼吸も苦しい。
「…クソッ…!クソッ…!」
ボルカスは汗まみれになりながら、ただ麦を攪拌し、空気を送り込み続けた。
(…ゼニスめ…!これが進化か…!?ただの拷問じゃないのか…!)
だが、奇跡は、重労働の三日目の朝に起きた。
「…ん…?」
ボルカスは、その日も死んだ魚のような目で製麦所に入った。
だが、彼はすぐに異変に気づく。
「…匂いが…違う…」
昨日までの、あのムッとする、腐敗の一歩手前の湿った匂いではない。
なんとも言えない、混沌とした熱気と、甘い匂いが充満している。
彼は麦の山に駆け寄った。
「…なんだ…?これは…」
腐るはずだった麦から、小さな白い芽が、無数に一斉に吹き出していた。
それは、腐敗の光景ではなかった。
命、そのものの光景だった。
「…ゼニス…」
ボルカスが振り向くと、いつの間にかゼニスがそこに立っていた。
「…分かったか、ボルカス」
ゼニスの声には確信があった。
「俺たちは、こいつら(麦)を騙したんだ。水と熱で、春が来たと勘違いさせた」
ゼニスは、その白い芽を一粒摘み上げた。
「…こいつらは、成長するために自らが持つデンプンを、糖に分解する鍵を、体内で一斉に放出した」
(…『デンプン』?『糖』…?)
言葉の意味は分からなかった。
だが、ボルカスの中で何かが繋がった。
(…腐らせる、ではなく…育てる…?)
(…俺のこの三日間の攪拌は、拷問ではなく、育成だったというのか…!?)
第三工程:「乾燥」。
芽が完璧に揃ったその瞬間。
ゼニスが叫んだ。
「…ボルカス!全員でその芽を、ロイドの乾燥室に放り込め!
『成長』を『止める』んだ!」
「おおっ!」
ボルカスは、今やゼニスの完璧な部下として動いた。
乾燥室では、工場長が腕を組んで待っていた。
「…チッ。やっと来たかこの臭ぇモヤシが!」
ロイドは、ボルカスたちが運び込む「緑麦芽」を一瞥する。
「…廃熱の準備はとっくにできてるぞ!一気に焙煎してやる!」
発芽した麦は、ロイドの炉から送られてくる、完璧に制御された廃熱で一気に乾燥させられる。
芽の成長は止まり、糖化の鍵だけが麦の中に閉じ込められた。
数時間後。
作業は終わった。
ボルカスは、その乾燥し、焙煎された黄金色の麦(=麦芽)を、一粒手に取る。
彼は恐る恐るそれを口に入れた。
「…!甘い」
腐敗の酸味ではない。
明らかに砂糖のそれとは違う、穀物の高貴な甘みが、口の中に広がった。
「…甘い…」
ボルカTスは戦慄いた。
「…ゼニス…。これは糖だ…!食料が糖に進化した…!」
「…どれ」
ギデオンも、その一粒を口に放り込み、目を見開いた。
「…金貨15枚が甘くなったぞ…!…つまり『利益』になる!」
ボルカスとギデオンが、その甘い麦芽の山を前に、歓喜する。
その製麦所に、三つの「影」が現れた。
①「エンジン」の到着。
エララが、ゼニスに命じられた「大事な瓶」を抱えてやってくる。
瓶の中では蜜を食い尽くした澱が、ぶくぶくと泡を立てている。
「…ゼニス様。この子たち、蜜を飲み干して、どうやらひどくお腹を空かせているようです…」
②「工場」の完成。
ロイドが、乾燥室の熱を調整しながら叫んだ。
「…おい、ゼニス様!麦芽の準備はできたか!こっちはとっくにできてるぞ!」
ロイドが指差す先。
彼の「最高傑作」。
あの醜い化物とは比べ物にならない、ピカピカの「連続式蒸留器」が鎮座している。
③「もう一つの原料」の到着。
そしてリーナが、エララに寄り添い、共にやってきた。
彼女の手には、収穫したカミミと眠り花の、エッセンスが入った小瓶が握られている。
「…ゼニス!私のこれはいつアルコールと混ぜるの!?」
糖化麦芽。
培養酵母。
連続式蒸留器。
香料。
全てが揃った。
ゼニスはその光景を見据え、灰色谷のチームを見据えて、静かに告げた。
「ボルカス、麦芽を砕け。エララ、酵母を放て。…錬金術の時間だ」




