第四十一話『価格と価値』
霧の森の小さな小屋。
「…この『お婆ちゃん(エララ)』をよこしなさい!」
「「…は?」」
リーナの、常軌を逸した要求が突きつけられ、ゼニスとギデオンは揃って言葉を失っていた。
最初に我に返ったのはギデオンだった。
彼はリーナの要求を冷静に振り返り、そして拒絶した。
「…おいゼニス。話にならん。こいつは狂人を通り越して、ただの強欲な馬鹿だ」
ギデオンはゼニスに吐き捨てた。
そしてリーナに向き直る。
「…30%だと?ふざけるな。お前は、原料を供給するだけだ。
その原料に器を与え、背徳という価値を与え、金糸雀を見つけたのは、俺だ」
ギデオンは指を二本立てた。
「お前の取り分は、譲歩して、20%。…それが合理的だ」
だが、リーナはその提案を鼻で笑った。
「…『合理的』?」
彼女はギデオンを心底軽蔑した目で見つめた。
「…魔法の価値も分からない、商売人は黙ってて」
「…っ!」
ギデオンの眉がひきつる。
リーナはゼニスに向き直った。
「30%は譲らない。…だけどそれ以上に、絶対に譲れないのが、二つ目の条件よ」
彼女はエララの手を掴む。
「…この『お婆ちゃん(エララ)』をよこしなさい」
ゼニスは、最大の壁に直面していた。
彼がエララをこの森に連れてきた理由。
それは、彼女の雑草に関する経験知が、リーナという新リソースを獲得するために合理的だと判断したからだ。
だが今、リーナは、そのエララを物としてよこせと要求している。
(…まずい)
思考が高速で回転する。
(…30%は交渉の余地がある。だが『エララ』は…)
(…ここで俺が、エララを取引材料として扱えば)
(…俺はガルトや、かつて俺が憎んだ『旧世界』と同じだ)
ゼニスは決断した。
彼はギデオンとリーナの両方を黙らせるように、静かに口を開いた。
「…リーナ。二つ目の条件は…受け入れられない」
「…は!?」
リーナの顔が怒りに染まる。
「なら交渉決裂よ!帰りなさい!」
「…おいゼニス!」
ギデオンが慌ててゼニスを制止しようとする。
「原料が手に入らないぞ!」
「リーナ。…勘違いするな、交渉は続いている」
ゼニスはリーナの目を真っ直ぐに見据えた。
「エララが欲しいという、あんたの要望には応えられない。
「…だが、本当に欲しいのは、エララという『個人』ではない。彼女が持つ土の『知識』だ。…違うか?」
「…っ!」
リーナは図星を突かれ言葉に詰まる。
「あんたは学者だろう。…知識は独占するな。共有しろ」
ゼニスはリーナに第三の選択肢を提示した。
「…リーナ。あんたが俺たちを利用するんじゃない。…俺たちがあんたを利用するのでもない。
灰色谷に来い」
「…はぁ!?」
リーナは耳を疑った。
「あの最果ての奴隷鉱山に、私に住めというの!?」
「ああ」
ゼニスは即答し、畳み掛けた。
「…あんたが求める『すべて』がそこにある。
あんたが欲しいのは、エララの知識か?…彼女は、そこにいる。
あんたが欲しいのは、カネ(研究費)か?…ギデオンが金貨を持って、そこにいる。
あんたが欲しいのは、実験場か?…ロイドが超高温の炉の準備してそこにいる」
ゼニスは、リーナが抱えている、枯れた小麦の鉢植えを指差した。
「…あんたが一人でこの森で枯らせている小麦(研究)。
…それも、チームでやろう」
リーナは、ゼニスの合理的な提案に、戦慄していた。
(…灰色谷に来い…?)
(…『カネ』も『技術』も『販路』も…そして『知恵』も…)
(…すべてあのカオス(灰色谷)に集約されている…?)
(…こいつ(ゼニス)、私をチームに組み込む気…!?)
彼女は、学者だ。
合理的な、「正解」を提示されぐうの音も出ない。
だが、彼女のプライドが、それを素直に認めさせない。
そのリーナの葛藤の瞬間。
今まで黙って、リーナの枯れた小麦の鉢植えを見つめていたエララが、リーナの前に進み出た。
エララは、ゼニスの交渉など聞いていなかった。
「…あの、リーナさん」
「…な、なによ!」
「…その子」
エララはその鉢植えを愛おしそうに見つめた。
「…とっても『愛されて』いるのねぇ」
「…!」
リーナは息を呑んだ。初めて言われた言葉だった。
「…でも、だから、少し苦しかったのねぇ」
エララは、リーナが完璧に計算した、あの粘土のような土を、そっと指で撫でた。
「…あなたの愛情が重すぎて…息ができなかった」
「…あ…」
「…灰色谷にいらっしゃい」
エララは彼女の手を取り、優しく微笑んだ。
「…あそこには、孫たちが掘り返した、お布団みたいにふかふかの土がありますから」
「…その子と一緒に『お引っ越し』してきましょう。…ね?」
その合理的な提案でもなく。
高圧的な値切りでもなく。
土の物理性でもなく。
『愛が重すぎた』
『ふかふかの土がある』
という、自分と、自分の『研究(小麦)を全肯定する、エララの非合理な一言に。
…学者の最後のプライドが崩壊した。
「…う…うわああああん!」
リーナは子供のように声を上げて泣き出した。
「(エララに泣きつく)…そ、そうよ!私はただ『完璧な小麦』を作りたかっただけなのに…!誰も分かってくれなかったぁ!」
「…ええ、ええ」
エララはその痩せた背中を優しくさすった。
「…わかっておりますよ。…ずっと一人で頑張ってこられましたねぇ…」
ギデオンはそのカオスな光景を見て、口を開け、呆然としていた。
(…は?…なんだこれ?…『交渉』はどうなった…?)
ゼニスだけが冷静にその「光景」を分析していた。
(…『金貨(合理)』でも『脅迫(論理)』でもない)
(…『共感(非合理)』が『魔女』を堕としたか)
ゼニスは、泣きじゃくるリーナと、それをあやすエララに向かって告げた。
「…リーナ。契約成立だな。…利益は30%。それでいい」
「(驚愕)!?おいゼニス!」
ギデオンが叫んだ。
「30%を飲むのか!?20%で十分だ!」
「(ギデオンに小声で)…ああ」
ゼニスはエララを見た。
「…30%でリーナ(魔法)とエララ(知恵)、二人分だ。
…手に入れた価値を考えろ。…十分合理的な投資だろ」
「…っ!」
ギデオンは押し黙った。
だが、彼は即座に、財務大臣の顔に戻った。
「…チッ」
ギデオンは、ゼニスを、睨みつけた。
「…分かった。その30%は、R&D(研究開発費)と、人材獲得コストとして、一括計上してやる」
「だがな、ゼニス」
ギデオンは、リーナと、彼女が抱える枯れた小麦を指差した。
「…リーナ(と、鉢植え)が灰色谷に来る、ということは。
宿舎も、食費も、研究設備も、すべてこっち(灰色谷)が負担する、ということだ。
…そのコストを計算しても、なお、お前の言う合理的な投資なんだろうな?」
ゼニスは少しの間考え、自分に言い聞かせるように、こう言った。
「…そうなるように、設計するだけだ。」
ゼニスが皆に告げる。
「帰るぞ、灰色谷へ。…みんなが待っている」
リーナは泣き腫らした目でエララの手を握りしめた。
そして何よりも大事そうにあの「枯れた小麦の鉢植え」を抱きかかえ灰色谷へと歩き出した。




