第四話『机上の革命』
俺が地面に描き終えた設計図を、カエルは、腕を組んだまま黙って見下ろしていた。
その眉間には、深い皺が刻まれている。
彼の背後には、同じように血の気の多い奴隷たちが数人、訝しげな顔で立っていた。
沈黙を破ったのは、カエルだった。
その声は、低く、疑念に満ちている。
「……おい、1138番」
俺を番号で呼ぶ。
「これは、一体なんの真似だ?」
俺は立ち上がることなく、地面の設計図を見下ろしたまま答えた。
声に、感情は乗せない。
事実だけを、端的に。
「排水計画だ。この寝床は、構造的に汚水が溜まりやすい。
結果、病の発生率が他の区画に比べて17%も高い。この計画を実行すれば、そのリスクを計算上2%未満に抑えることができる」
「……はいすい?」
カエルが怪訝な顔で、その言葉を繰り返す。
「それが、どうしたってんだ?」
「健康な肉体。それが、我々の最初の資産になる。全ての戦いは、そこから始まる」
俺の言葉に、カエルの背後にいた奴隷の一人が、馬鹿にしたように鼻で笑った。
カエルはその男を手で制すると、一歩前に出た。
そして、俺の目の前にしゃがみ込む。
その瞳は、怒りとも呆れともつかない、複雑な色をしていた。
「……お前、本気で言ってるのか?」
「俺は常に合理的だ」
「合理的、だと?」
カエルの声に、温度がこもり始める。
「なあ、1138番。俺たちに必要なのは、そんなチマチマしたお勉強ごっこか? 違うだろうが!」
カエルは地面の設計図を、泥のついた指で無造作に叩いた。
「そんな紙切れ一枚で、俺たちの首輪が外れるのか!」
「……外れない」
「看守どもを、殺せるのか!」
「……殺せない」
「だったら、何の意味があるんだよ! こんなもん!」
叫びと共に、カエルは俺が描いた設計図を、足でめちゃくちゃに踏みつけた。
完璧な幾何学模様が、ただの汚れた土へと戻っていく。
だが、俺の心は動かない。
俺は静かに顔を上げた。
初めてカエルの目を、正面から見る。
「カエル。お前の怒りは理解できる。だが、それはただの自殺行為だ」
「自殺? 違うね。これは『反逆』だ。
お前がやっているのは、『改善』だ。
俺たちは首輪を外したいんだ。居心地のいい首輪が欲しいわけじゃねえ!」
「……!」
カエルの言葉が刃となって、俺の論理を切り裂く。
俺は、唇を噛み反論を試みる。
「ヨハンの死を無駄にしないために。俺は、勝率100%の戦い以外するつもりはない」
「……100%、だと?」
カエルは心底信じられないという顔で、俺を見た。
「てめえはそんな安全な場所から、血も流さずに革命家を名乗るのか。
笑わせるな。お前のそれは革命じゃねえ。ただの『経営』だ」
その瞬間、俺は理解した。
俺とカエルは同じものを見ているようで、全く違う場所に立っているのだと。
彼は、目の前の「壁」を拳で殴りつけて壊そうとしている。
俺は、その壁の「設計図」そのものを手に入れようとしている。
俺の言葉は、彼には届かない。
彼の渇望は、俺の論理では満たせない。
――エラー。
名称:論理的正当性の共有不全。
原因:対象個体の感情パラメータが、予測値を大幅に超過。
俺のシステムが、これまで経験したことのない種類の静かな警報を鳴らす。
ヨハンの時は理解不能な「熱」だった。
だが、これは違う。
熱ではない。
むしろ、絶対零度に近い、完全な断絶。
定義:孤独。
有用性:ゼロ。むしろ、マイナス。
思考能力を著しく低下させる危険な精神汚染。
だが、削除できない。
この胸にぽっかりと空いた冷たい穴を、俺のシステムはどうすることもできなかった。
「……もういい」
カエルは吐き捨てるように言うと、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳から熱が消えている。
氷のように冷たい軽蔑だけが、そこにあった。
「お前のままごとに付き合う気はない」
彼は俺に背を向けた。
そして、後ろに控えていた仲間たちに顎をしゃくる。
「行くぞ。俺たちは、俺たちのやり方でやる」
仲間たちが頷き、彼の後に続く。
去り際に、カエルは一度だけ、こちらを振り返った。
その目はもはや、仲間を見る目ではなかった。
障害物を見る目だった。
「……邪魔をするなよ」
その言葉は刃となって、俺たちの間に見えない線を引いた。
友情の終わりではない。
同じ理想を目指す二人の革命家の、内戦の始まりを告げる冷たい宣言だった。
俺は一人、その場に残された。
足元には、無残に踏みつけられたただの土。
俺の、最初の設計図。
……そうか。これが、最初の答えか。
世界というシステムを書き換える。
その前にまず、『仲間』という、最も非合理で最も予測不能なシステムの『バグ』を、俺はどうにかしなければならなかったらしい。




