第三話『最初の設計図』
俺の魂の法廷は、静寂に包まれていた。
第二話で突きつけられた、エララの歌という名の、異質な問い。
『――王よ、あなたは民の腹を満たすのか? それとも、魂を満たすのか?』
その問いの前で、検察官の俺も、弁護人の俺も、等しく言葉を失っていた。
俺たちの法廷には、そのどちらか一方を選ぶという「法」しか存在しなかったからだ。
腹を満たせば、魂が飢える。
魂を満たせば、腹が飢え、看守に殺される。
どちらを選んでも、待っているのは破滅。
詰みだ。
この法廷そのものが、出口のない牢獄だった。
『……もう、やめにしないか』
沈黙を破ったのは、弁護人の俺だった。
その声は、ひどく、か細い。
『どちらを選んでも、俺たちはヨハンを救えない。我々の論争は、無意味だ』
『……』
検察官の俺は、反論しない。
彼の冷徹な瞳が、初めて、揺らいでいるように見えた。
彼の信奉してきた「有用性」という絶対の法が、エララの歌と子供たちの瞳によって、その絶対性を失ってしまったからだ。
そうだ。
もう、やめにしよう。
この不毛な裁判を。
俺は、ゆっくりと、被告席から立ち上がった。
そして、検察官と弁護人の間――一段、高い場所へと歩を進める。
裁判官の席へ。
二人の俺が、驚愕の目で見上げてくる。
俺は、その二人を、静かに見下ろした。
かつての俺と、今の俺を。
どちらも、俺だ。
どちらも、必死だった。
この、狂った世界で、生き延びるために。
だが、もう、お前たちに判断を委ねることはしない。
俺が、判決を下す。
『――静粛に』
俺の声が、法廷に響く。
それは、検察官のように冷徹でもなく、弁護人のようにおびえてもいない。
ただ、静かで、揺ぎない声だった。
『これより、最終弁論を執り行う』
俺は、まず、検察官の俺に向き直る。
『検察官。お前の主張は、正しい。俺の感傷が、ヨハンを殺した。それは、紛れもない事実だ』
検察官の俺が、息を呑む。
次に、弁護人の俺に向き直る。
『弁護人。お前の主張もまた、正しい。この世界そのものが、狂っている。これもまた、事実だ』
弁護人の俺が、唇を噛む。
俺は、もう一度、二人を見渡した。
『だが、お前たちは、二人とも、根本的な間違いを犯している』
『……なんだと?』
検察官と弁護人の声が、重なる。
俺は、静かに、宣言した。
『――有罪なのは、ヨハンでも、俺でもない。この世界の間違った『システム』そのものだ』
その瞬間、法廷の空気が、震えた。
二人の俺が、目を見開く。
『腹か、魂か。その二者択一を迫ること自体が、このシステムの根本的な欠陥だ。我々は、腹も魂も、両方を満たす権利がある。なぜ、そのための新しいルールを、俺たちの手で創ろうとしない?』
『……!』
『諦めるな、かつての俺よ。絶望するな、今の俺よ。俺たちの武器は、暴力でも、感傷でもないはずだ』
そうだ。
俺には、武器がある。
この牢獄で、唯一、誰にも奪われなかった、たった一つの財産。
それは、前世で培った、人類史の全て。
科学、経済、歴史、戦術……。
それらは、もはやバラバラの知識ではない。
俺の頭脳の中で、一つの巨大な『設計図』として、再構築されている。
世界を、人間を、社会を、一度、原子レベルまで分解し、より良く、より強く、再構築するための、青写真が。
俺は、今まで、その武器を、自分の延命のためだけにしか使ってこなかった。
だが、もう違う。
ヨハンが、エララが、子供たちが、教えてくれた。
この力は、他者のために使ってこそ、本当の価値を持つのかもしれないと。
『――これにて、閉廷とする』
俺が木槌を振り下ろす幻を見た。
それは、古い法を断罪する音ではない。
新しい世界の、最初の条文が刻まれた音だった。
俺は、ゆっくりと目を開けた。
現実に引き戻される。薄暗い、奴隷たちの寝床。
だが、俺の目には、もう、世界は違って見えていた。
腐った空気。
澱んだ水たまり。
非効率なベッドの配置。
全てが、改善すべき「課題」として、俺の網膜に映る。
俺は、立ち上がった。
そして、おもむろに、地面に落ちていた、一本の木の枝を拾う。
手の中には、まだ、ヨハンのくれた、硬いパンが握られていた。
それを、大切に、懐へしまう。
そして、俺は、汚れた地面に、膝をついた。
木の枝を、コンパスのように使い、静かに、最初の線を引く。
一本の、まっすぐな線を。
次に、角度を計算し、もう一本の線を引く。
円弧を描き、補助線を引く。
俺が描いているのは、この劣悪な寝床の環境を改善するための、最も効率的な排水計画の、ほんの一部分。
水がどこから来て、どこへ流れ、どうすれば、病の発生リスクを最小限に抑えられるか。
そのための、完璧な、幾何学模様。
ざわ、と周囲の奴隷たちが、息を呑むのが分かった。
何事かと、数人が、遠巻きにこちらを見ている。
その中に、カエルの姿もあった。
彼は、腕を組み、眉間に深い皺を寄せながら、俺が地面に描く、不可解な模様を、じっと見下ろしていた。
それは、ただの線ではなかった。
この、光の届かない谷の底で、カエルが生まれて初めて目にする、
全く別の法則で動く、異質な世界の、きらめきだった。
その瞳には、警戒と、ほんのわずかな、理解を超えたものを見るような、畏怖の色が浮かんでいた。




