第二十九話『ハイエナの首輪』
灰色谷から、半日。
サイラスが「表向き」の商談に使っていた、宿場町の、酒場の一室。
ボルカスは、一人、その部屋の、扉の前に、立っていた。
懐には、ゼニスから渡された、「武器」――ガルトの『裏帳簿』の、『写し』だけが、入っている。
(…あの『ハイエナ』を、ワシが、脅迫する…)
一瞬、長年、染み付いてきた「奴隷監督」としての、卑屈な「恐怖」が、蘇る。
彼の手が、無意識に、震えた。
だが、ボルカスは、その震える手で、懐の「『紙』」に、触れた。
「紙」が持つ、冷徹な「論理」の感触が、彼の指先から伝わってくる。
(…そうだ)
ボルカスの、震えが、止まる。
(ワシは、『怒り』で、交渉するのではない)
(ワシは、ゼニスが、設計した、「事実」を、あの男に、『執行』するだけだ)
彼の「恐怖」は、鋼のように冷たい、「怒り」へと、変わった。
ボルカスは、扉を、叩いた。
「――入れ」
中には、サイラスが、待っていた。
彼は、ボルカスが、「看守長代理」として、何の用で、来たのか、計りかねていた。
「ガルトの処刑」への「怯え」と、元・奴隷監督への「侮蔑」。
その、二つの感情が、入り混じった、いやらしい笑みを、浮かべて。
「これはこれは、ボルカス『代理看守長』殿。ガルト様亡き後、大変ですな。
こんな、薄汚い場所まで、一体、何の御用で?」
ボルカスは、挨拶も、世辞も、一切、返さなかった。
彼は、ゼニスから渡された「裏帳簿の写し」を、サイラスの目の前の、テーブルに、叩きつけた。
「…御託はいい。これを見ろ」
「…っ!」
サイラスは、その帳簿が、「ガルトのもの」だと、瞬時に理解し、顔色を変えた。
だが、彼は商人だ。
すぐに、虚勢の笑いを浮かべる。
「な、何の真似だ、これは!こんなもの、俺は、知らんな!」
ボルカスは、その、サイラスの、虚勢を、冷徹に、打ち砕く。
彼は、帳簿の、特定のページを、指差した。
「『蛇』の印。…あんたの『サイン』だな?」
「!」
「『シャベル』単価『大銅貨9枚』。『ツルハシ』単価『大銅貨3枚』」
ボルカスは、顔を上げ、サイラスの目を、射抜いた。
「この『三倍』の価格差を、あんたは、どう『説明』する?」
サイラスは、一瞬、顔色を変えた。
だが、すぐに、「商人」の、自信に満ちた、笑みを、浮かべた。
(…なんだ。その程度の、ことか)
「ボルカス殿、ご冗談を。それは『当然』です」
サイラスは、まるで、無知な子供に、教え諭すように、言った。
「『大銅貨3枚』のツルハシなど、数回、使えば、刃こぼれする『安物』。
私が納品していた『シャベル』は、ガルト様直々のご要望で、王都から取り寄せた『軍用規格の強化鋼』を、使用しておりました。品質が、違います。
価格が、違うのは、当然でしょう?私は、『灰色谷』のために、より『良い』ものを、納品していただけです」
完璧な、「言い訳」だった。
だが、ボルカスは、その「完璧な言い訳」を聞き、内心で、不敵に、笑った。
(…来た)
(…ゼニスの、予測通りだ)
ボルカスの脳裏に、昨夜の、ゼニスの、冷徹な「分析」が、蘇る。
―― サイラスは、『価格差』については、必ず嘘を用意している。
『品質が違う』『輸送費が違う』。その嘘と、真っ向から、議論するな。時間の無駄だ。
奴の嘘は、泳がせろ。そして、もう一つの犯罪――『ライ麦』を、叩きつけろ。
同じサインが、なぜ、そこにあるのか、と。
『二つの犯罪』を、『一つのサイン』で繋げ。それが、奴が絶対に言い訳できない、論理だ ――
(…そうだ。ワシは、『強化鋼』の『真偽』など、どうでもいい)
(ワシは、ただ、ゼニスと設計した、この「論理」を、『執行』するだけだ)
ボルカスは、サイラスの「言い訳」に、一切、反論せず、ただ、冷徹に、裏帳簿の、次の「ページ」を、めくった。
「ライ麦」の、横流し記録の、ページだ。
「…なるほどな。『強化鋼』か」
ボルカスは、顔を、上げた。
「では、この『ライ麦の横流し』記録に、なぜ、あんたの『S』のサインが、押されている?」
ボルカスは、テーブルに、身を、乗り出した。
「…『ライ麦』にも、『強化鋼』が、使われていたとでも、言うつもりか?」
「…っ!!」
サイラスの、顔面から、血の気が、引いた。
「キックバック」は、言い訳が、できた。
だが、「横流し」は、言い訳が、できない。
二つの犯罪が、「同一人物」によって行われたという、動かぬ証拠。
サイラスは、ここで初めて、「真の崩壊」を起こした。
「ひっ…!」
彼は、椅子から、転げ落ちるように、床に膝をついた。
「ま、待ってくれ…!あれは、ガルト様に、命令されて…!逆らえなかったんだ!俺は、悪く…!」
ボルカスは、その、ひれ伏す、かつての「ハイエナ」を、冷徹に、見下ろした。
(…ゼニスの、言う通りだ。こいつは『罪人』だが、『利用価値』が、ある)
「…サイラス。お前には、道が、二つある」
「み、道…?」
「一つは、今すぐ、俺が『原本』を、アークライト公爵閣下に、提出する。
…お前は、ガルトと、同じ、『処刑台』だ」
「そ、そんな…!やめ、やめてくれ…!」
「もう一つの、道だ」
ボルカスは、冷酷に、告げた。
「…我々の、『投資家』になれ」
「…と、投資家…?」
ボルカスは、ゼニスと詰めた「要求」を、突きつける。
「我々が、昨夜、この『裏帳簿』から『算定』した。お前が、この一年で、我々から『盗んだ』、その総額」
ボルカスは、指を、立てた。
「…合計、『金貨50枚』」
「ご、金貨50枚!?」
「だが、我らが主、ゼニス様は、慈悲深い。お前の全財産を、今すぐ奪う気は、ない」
「…!(ゴクリ)」
「今すぐ、我々への誠意として、『金貨10枚』を、『初期投資』として、差し出せ」
サイラスの、目が、泳いだ。
「き、金貨10枚!?そ、そんな…!無理だ!ガルト様に、ほとんど、持っていかれたんだ!今、動かせるのは、『金貨3枚』が、やっとで…!」
ボルカスは、その「嘘」を、論破しない。
ただ、黙って立ち上がり、ドアノブに、手を、かけた。
「…そうか。交渉、決裂だな。
…アークライト公爵閣下に、謁見してこよう」
「ま、待て!待ってくれ!」
サイラスは、ボルカスの足に、泣きながら、しがみついた。
「払う!『金貨10枚』!必ず、払う!…『3枚』は、今、ここに、ある!残りの『7枚』は…!
資産を、清算する!み、三日…!三日だけ、待ってくれ!」
ボルカスは、初めて、そこで、足を、止めた。
「…いいだろう。『手付金』として、『金貨3枚』は、今、ここで、受け取る」
サイラスは、震える手で、懐から、重い、革袋を、差し出した。
ボルカスは、それを受け取り、重さを、確かめる。
「残りの『7枚』は、三日後だ。
…もし、お前が、逃げるか、あるいは、一分でも、遅れれば。
その瞬間に、お前の『処刑』が、確定する」
ボルカスは、ドアを開ける直前、サイラスに、最後の「首輪」を、はめた。
「お前が持つ『すべての販路』を使え。我々が、これから創り出す『新製品』を、お前のルートで、売り捌くんだ。
…その『売上』で、お前の『負債』を、返済するがいい」
ボルカスは、「裏帳簿の写し」を、床に、投げ捨てた。
「その『写し』は、くれてやる。『原本』は、我らが主の手にある。
お前が、『投資』を怠り、『返済』を滞らせれば…その瞬間に、お前の『処刑』が、確定する」
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ボルカスは、「戦果」を手に、灰色谷へ、帰還した。
その顔には、もはや恐怖はなく、任務を完遂した戦士の、疲労と、誇りだけが、あった。
執務室では、ゼニスが、待っていた。
ボルカスは、その「戦果」を、机に、叩きつけるように、置いた。
「…ゼニス、やったぞ。『金貨50枚』の『投資』と『販路』、確保だ。
…そして、これが手付金の、『金貨3枚』だ。残りの『7枚』は、三日後に入る」
ゼニスは、「金貨3枚」の「重み」を、確かめるように、頷いた。
「ボルカス、上出来だ。『始める』には、十分だ」
ゼニスは、部屋の隅で、待たせていた、鍛冶職人のロイドを、手招きした。
ゼニスは、ロイドに、その「金貨3枚」を、投げてよこす。
「ロイド。この『カネ』で、これを、造れ」
ゼニスが、机に広げたのは、『蒸留器』の、設計図だった。
「期限は、残りの『7枚』が、届くまでの、『三日間』だ」




