第二十二話『マルコの奇妙な新世界』
俺の名はマルコ。
灰色谷で暮らす、いわゆる、まあ、奴隷だ。
ガルトと元看守たちが「処理」された翌日。
灰色谷には、歓喜よりも、むしろ、冷え冷えとした恐怖が漂っていた。
昨日は興奮のあまり気づかなかったが、時間が経って現実が見えてきたからだ。
俺も、仲間たちと広場の隅で震えていた。
(「有用性」…か)
(ガルトも看守も、「不用品」だから、ああなったんだ…)
(じゃあ、…俺たちは…?)
ガルトから解放されたとはいえ、俺たちは所詮「奴隷」だ。
アークライト公爵という所有者の「資産」でしかない。
生かすも殺すも所有者次第。
まさにその所有者がとった行動は、俺たちの先行きを不安にさせた。
そんな絶望的な空気を切り裂いて、ボルカスさんが、広場の中心に立った。
その顔は昨日、騎士団を見送った時よりも、さらに青白く、まるで死人のようだった。
「い、いいか、お前たち!」
ボルカスさんは、裏返った声で絶叫した。
「俺は、『看守長代理』だ! だが、それは、公爵様が、俺たちを『試している』ということだ!」
「ひぃ…!」
「ご、ご期待に応えねば…!」
「我々も『不用品』として…処理されるぞぉ!」
その絶叫は、恐怖の伝播だった。
俺たちはただ、恐怖に震えることしかできない。
「だ、だから! 今日から、この俺が、お前たちを厳しく指導する! いいな!」
ボルカスさんは必死の形相だが、その瞳は完全にイッてしまっている。
(……ボルカスさん、顔色ヤバいな…)
(あの人、まともに寝てないんじゃ…)
俺は、新しい指導者の姿に、尊敬よりも先に、純粋な心配が湧き上がるのを感じていた。
そして、その「心配」が「困惑」に変わるのに、そう時間はかからなかった。
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翌朝。
俺たちは、奴隷時代のクセで、夜明けと共に広場に集まっていた。
そこへ、ボルカスさんがデカい木箱を抱えてやってきた。
ドスン、と地面に置くと、その上に立つ。
「ゴホン…これより、看守長代理として、朝礼を行う!」
ボルカスさんは、懐から一枚の木の皮を取り出した。
「まず、第一! 規律の徹底! 私語は慎め! そこ!列を詰めろ!」
(うわあ…)
俺は、思わず顔をしかめた。
そのセリフ…あのムカつく看守どもが言ってたのと、全く同じじゃないか!
「第二! 報告の義務! 異常を発見した者は、直ちに俺に報告すること! 隠蔽は許さん!」
(ボルカスさん、テンパりすぎだろ…。責任感が悪い方に出ちゃってる…)
皆も、恐怖よりも「面倒くささ」と「哀れみ」の滲んだ顔で、顔を見合わせている。
その、白けた空気を切り裂いたのは、静かな声だった。
「――ボルカス」
いつの間にか、ゼニスが、広場の隅に立っていた。
「その朝礼は『無駄』だ」
「なっ…!?」
ボルカスさんの顔が、カッと赤くなる。
「む、無駄だと!? ゼニス、お前は分かっておらん!
組織に必要なのは、秩序だ! 規律だ! このままでは、公爵様に『有用性』を示せん…!」
「ボルカス」
ゼニスは首を横に振り、冷徹な瞳でボルカスさんを射抜いた。
「恐怖による統制は、短期的な秩序を生むが、長期的な生産性を著しく低下させる」
「ぐっ…」
「アークライト公爵は『結果』しか見ない。この朝礼は、利益を生まない。よって、廃止しろ」
「し、しかし…! しかしだな…!」
必死に反論しようとするボルカスさんだったが、「公爵」というワードが胃に突き刺さったようだった。
「……承知、した」
ボルカスさんは、メモをくしゃりと握りしめ、胃を押さえて木箱から降りた。
(よく分からんが、朝礼がなくなったのはラッキーだな)
(それにしても、ボルカスさんは様子がおかしかったけど大丈夫か…)
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様子がおかしいのは一人だけじゃなかった。
朝礼が解散し、鉱山での作業が始まった。
もちろん、看守の監視はない。
俺たちは、ボルカスさんの指示に従って、新しい採掘ルートの整備を始めている。
そこへ、ゼニスが現場の視察にやってきた。
声をかけようと、作業を止めて近づく。
その瞬間。
カエルが鬼のような形相で俺の前に立ちはだかった。
「待て!」
「え?」
「それ以上、ゼニス様に近づくな!」
カエルは、どこから持ってきたのか、丸々とした棍棒を構え、完全に「戦闘態勢」に入っていた。
「ゼニス様の半径三メートル以内は、『聖域』だ! 許可なく立ち入る者は、俺が、排除する!」
「はぁ!?」
いや、俺だよ! マルコだよ!?
昨日まで一緒に飯食ってたじゃねえか!
俺は、ゼニスに作業の進捗を報告しようとしただけなのに、カエルに「不審者」として本気で威嚇されている。
「いや、カエル、ちょっと落ち着いて…」
「問答無用! 貴様、ゼニス様に害をなすつもりか!」
(こいつも大概ヤベェな…!)
俺が本気で引いていると、その「聖域」の中心から、またもや、あの冷静な声が響いた。
「カエル」
「はっ! ゼニス様! お任せください、この俺が、不審分子を…!」
「おまえの行動は、俺という『リソース』の孤立を招き、指示系統の効率を低下させている」
ゼニスは、淡々と分析結果を告げた。
「警備範囲を、半径十メートルに『拡大』しろ」
「はっ!」
「そして、俺に近づく『有用な人材』の動線は確保しろ。それ以外の者は、威嚇を許可する」
「はっ! さすがですゼニス様! 『聖域』を拡大し、不審分子を排除しつつ、有用な人材を通します!」
(違う、そうじゃない!)
俺とボルカスさんの心の叫びが、完璧にシンクロした。
ボルカスさんは、再び、胃を押さえてうずくまっている。
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そして、昼食時。
様子のおかしさは、クライマックスを迎えた。
これまで昼飯といえば、カビ臭い黒パンと、色のついた塩水だけだった。
だが、今の食事は違う。
温かいシチューと、ふかふかの白パン。
もちろん、ガルトが溜め込んでいた食糧庫を、ゼニスとボルカスさんが解放してくれたのだ。
こんなにうまい飯は久しく食っていない。
…涙が出そうだ。
「うめぇ…」
「生きてるって感じがするな…」
俺たちは、広場で車座になり、感動とともに談笑を楽しんでいた。
その時だった。
ゼニスが、広場の中心に、スッと立った。
その場の全員が、彼の次の言葉に注目する。
「お前たち」
静かな、だが、よく通る声。
「この『昼食』は、非効率だ」
――は?
広場が、凍りついた。
俺は、思わず、口に含んだシチューを噴き出しそうになった。
(は?)
(効率?)
(飯食ってるだけなんだが?)
(この人、ついに頭がおかしくなったのか?)
俺の中で、ゼニスへの「畏敬」が、「ガチの困惑」に変わった。
「これより、コミュニティの生産性向上のため、昼食時間の『最適化』を導入する。
食事は二十分。私語は禁止。食後の休息は十分間の『パワーナップ(短時間仮眠)』に統一する」
ボルカスさんが口をパクパクさせている。
カエルだけが「なんと合理的な!」と感涙にむせんでいる。
地獄か。ここは。
「さ、さすがゼニス様…何か、深いお考えが…」
「そうだ、俺たちには理解できない、何か、こう、すごい…」
仲間たちが、必死にこの状況を理解しようと、混乱している。
その、絶望的な空気を、救ったのは――エララだった。
彼女は、静かに立ち上がると、ゼニスの前に進み出た。
「ゼニス様」
「エララか。どうした。最適化に対する意見か?」
「いいえ」
エララは、優しく、穏やかに微笑んだ。
「あなたがたが、命懸けで取り戻してくださったのは、『非効率な時間』ではございませんよ」
「……?」
「『分かち合う時間』でございます」
ゼニスの瞳が、初めて、わずかに揺れた。
「昔の歌にもございます。
『パンは、半分こにして食べるのが一番おいしい。喜びが、二倍になるからだ』…とね。
皆で分かち合う時間こそ、皆の何よりの希望なのですよ」
広場に、沈黙が落ちる。
ゼニスは、エララの言葉を、超高速で分析しているようだった。
やがて、彼は、ゆっくりと口を開いた。
「……エララの発言により、コミュニティの『士気』が、34.8%上昇した。
…論理的破綻だが、事実だ」
彼は、まるで難解な数式が解けたかのように、一つ頷いた。
「……承知した。エララの提言の有効性を検証する。
『分かち合う時間』の導入を実験的に許可する。
ただし、生産性低下が観測された場合、即座に最適化の導入を再検討する」
「「「うおおおお!! エララ、すげぇ!!」」」
俺たちは、心の底から、喝采の叫びを上げた。
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その日の作業終わり。
色々なことがありすぎて、俺はもう、疲れ果てていた。
胃痛で青ざめている「代理看守長」。
棍棒をピカピカに磨いている「聖域の門番」。
一人で「分かち合う効用…喜びの乗算…非合理な士気…」とブツブツ分析している「最高指導者」。
(…この谷、マジで、大丈夫か?)
俺は、配給された夕食のシチューを、ぐったりしながら口に運んだ。
ガルト時代とは比べ物にならない、肉と野菜がたっぷり入った、熱いシチューだ。
その、温かさが、疲れた体に、じわりと、染み渡っていく。
(……あれ?)
俺は、そこで、ふと、気づいた。
(……なんで、飯がこんなに美味いんだ?)
それは、ガルトの食糧庫を解放したから、だけじゃない。
このシチューには、ガルト時代には絶対に入っていなかった、奇妙な根菜や、香草が入っている。
俺は、シチューの湯気が立ち上る器を見つめながら、首を傾げた。
この谷で、俺の知らない何かが、静かに、確実に、動き始めている。
そんな、奇妙な「予感」が、胸をよぎっていた。




