第二十一話『公爵の裁定』
ボルカスが「看守長代理」に任命され、灰色谷に帰還した翌日。
谷には、まだ解放の熱狂と、未来への漠然とした不安が入り混じった、奇妙な空気が漂っていた。
「……本当に、俺たち、自由になれたのか?」
「ああ。ガルトも、あのムカつく看守どもも、牢屋の中だ…」
「でもよ、これから、どうなるんだ? あの『公爵様』ってのが、俺たちをどうするつもりか…」
仲間たちは誰ともなく広場に集まり、そんな不安を口にしている。
他ならぬボルカス自身、その不安の中心にいた。
(公爵様は、ワシを代理に任命した。だが、ワシらをどうするつもりなんだ…?)
その答えは、唐突にやってきた。
ゲートが開く音と共に、谷に緊張が走る。
乗り込んできたのは、ガルト配下の薄汚れた看守たちとは「格」が違う。
磨き上げられた鋼鉄の鎧を纏う、アークライト公爵の騎士たちだった。
「――『看守長代理』ボルカスは、どこだ」
馬の上から響く、一切の感情が乗っていない声。
ボルカスは、群衆の中から、背筋を伸ばして進み出た。
「ワシが、ボルカスだ」
騎士団の長と思われる、目に傷のある男は、馬上からボルカスを値踏みすると、無感情に告げた。
「昨日付で、貴様の代理任命は承認された。これより、権限の引き継ぎを行う」
「…承知した」
「ガルトの身柄と、残りの看守全員を、即刻、こちらへ引き渡せ」
――すぐに、ガルトが、地下牢から引きずり出されてくる。
「やめてくれ! いやだ! 離せ!」
その姿は、もはや、奴隷たちを恐怖で支配した看守長の威厳など、欠片も残っていない。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、みっともなく命乞いを繰り返す、ただの「豚」だった。
「ボルカス… 貴様!俺を売ったな! この恩知らずめが!
お、俺は、公爵様に、長年、忠誠を…! お、おお、そうだ! あの新しい鉱脈は、俺が…!」
ガルトが、最後の虚勢を張ろうとした、その瞬間。
「――黙れ。汚物」
騎士団長が、心底軽蔑した、という声で、吐き捨てた。
その一言で、ガルトの命乞いは、完全に止まった。
それを取り囲む、奴隷たち。
彼らを虐げ続けた「象徴」が、今、無様に引きずられている。
憎悪が、沸点を超えて、爆発した。
「…人殺し」
誰かが、そう呟き、足元の石を拾って、投げつけた。
ゴッ、と鈍い音がして、ガルトの額から血が流れる。
それが、合図だった。
「うおおおお!」
「俺の仲間を返せ!」
「ここで殺してやれ!!」
罵声と歓喜が、谷中に響き渡る。
石が、泥が、ガルトの無様な体に叩きつけられる。
騎士たちは、それを、まるで、面白い芝居でも見るかのように、静かに、眺めているだけだった。
「ひぃ、あ、あぐ…!」
ガルトは、その憎悪の嵐の中、虫けらのように、手荒く囚人用の馬車へと放り込まれた。
ボルカスは、その光景を、ただ、複雑な思いで見つめていた。
次に、ガルト配下だった、元看守たちが、広場に整列させられた。
彼らは、ガルトの末路を目の当たりにし、恐怖で、まともに立っていることすらできない。
(彼らも、ガルトに逆らえなかっただけだ。この谷の労働力として、再教育すれば…)
ボルカスは、一歩、前に出た。
「き、騎士団長殿。彼らも…」
ボルカスが、そう口を開きかけた、その時。
騎士団長は、その言葉を、冷ややかに遮った。
「裁定は、すでに、下されている」
騎士団長は、震える看守たちを見据え、宣告した。
「貴様らは、ガルトの不正を黙認し、アークライト公爵様の『資産(灰色谷)』の価値を毀損した。本来なら、ガルトと共に、即刻処刑されるべき、重罪だ」
看守の一人が、その場で、失禁した。
だが、騎士団長は、無慈悲に続けた。
「だが、折悪しく、公爵領は、かの『ガリア帝国』との戦線で、慢性的に人手が足りん」
(ガリア帝国…!)
ボルカスの背筋に、冷たい汗が流れた。
あの、残虐非道な、隣国。
「よって、貴様らには『名誉ある』罰を与える」
騎士団長は、その口元に、初めて、残酷な笑みを浮かべた。
「これより貴様らを、『懲罰兵』とする。灰色谷での地位、身分、その全てを剥奪し、帝国との国境線、最も過酷な最前線へ、即刻、送致する」
看守たちの顔から、血の気が、完全に失われた。
「死ぬまで、公爵様のために、戦え。それが、貴様らの、最初で最後の『有用性』だ」
奴隷たちは、その「完璧な正義の執行」に、歓喜の声を上げた。
「ざまあみろ!」
「死ぬまで、化物どもと戦い続けろ!」
ガルトは処刑され、看守どもは、地獄の最前線送り。
虐げられ続けた者たちにとって、これ以上ない結末だった。
だが、その熱狂の輪の中で、ただ一人。
ボルカスだけが、顔面蒼白のまま、その光景に、立ち尽くしていた。
彼は、昨日、アークライト公爵に感じた「未知の恐怖」の正体を、今、正確に、理解したのだ。
(……あの公爵の前では、「有用性」を失った者は、こうなるのだ)
ガルトは、不正によって利益を損なったため、「処刑」される。
看守たちは、黙認という形で「資産」を毀損したが、まだ「兵士」としての『有用性』が残っていたため、「使い潰される」。
(そして、ワシも…)
(もし、公爵様に命じられた「生産性向上」という『結果(有用性)』を出せなければ…)
(ワシも、あのガルトや看守たちと、同じだ)
ボルカスは、自分の胃が、まるで、氷の手で、鷲掴みにされたかのような、激しい痛みに襲われるのを感じていた。
旧体制は、今、確実に、終わった。
そして、それ以上に、冷徹で、無慈悲な、「新体制」が、始まったのだ。




