第二十話『看守長代理』
灰色谷に新しい時代の訪れを感じさせる、静かな夜明けだった。
それを確かなものにするため、最初の一歩を踏み出さねばならない。
ボルカスは自覚していた。
『領主アークライト様へ報告責任の一時的な代行』
今こそ実行に移す時だ。
だが、覚悟を決めた一方で、腹の底には、鉛のような重い不安が渦巻いていた。
アークライト公爵。
ガルトですら、その代理人に過ぎない、雲の上の存在。
ガルトという男は、理屈の通じぬ、暴力と気まぐれの塊だった。
ならば、その主は?
もっと、理不尽で。
もっと、残酷なのではないか?
報告の内容は、正しい。
俺に、罪はない。
だが、そんな理屈が、絶対的な権力者の前で通用する保証など、どこにもないのだ。
俺の内心の葛藤を見透かしたように、ゼニスは続けた。
「ボルカス。あんたが報告すべきは三つだ。この崩落事故のこと、新しい鉱脈の兆候、そして、ガルトの不正。シンプルに告げればいい」
「…ああ、分かっている」
「貴族というのは、基本的に『利益』にしか興味がない。ガルトの横領で損なっていた利益がこれから回復される、という報告だ。咎などあるはずもない…できるな?」
ゼニスの瞳は、どこまでも冷静だった。
その計算を信じるしかない。
俺は、こくりと頷いた。
恐怖はある。
だがそれ以上に、この谷を俺たちの手で正常化させねばならぬ、という使命感が俺の足を支えていた。
「……承知した。ゼニス。この谷の未来のため、この役目、必ずや、果たしてみせる」
恐怖に震える自分を叱咤し、深く頭を下げた。
ゼニスは、そんな俺の肩を、一度だけ、静かに叩いた。
――半日後。
俺は、アークライト公爵の館の前に、一人、立っていた。
灰色谷の泥と埃にまみれた我が身が、場違いにもほどがある。
俺は、これから起こりうるあらゆる理不尽を想定し、覚悟を決め、門をくぐった。
案内されたのは、巨大な執務室だった。
壁一面の本棚。
床に敷かれた深紅の絨毯。
そして、部屋の奥。
黒檀の巨大な机の向こうに、その男は座っていた。
アークライト公爵。
ガルトのような、下品な肥満体ではない。
むしろ、その肉体は削ぎ落され、怜悧な光を宿す瞳と、きつく結ばれた唇が、彼の知性と冷酷さを物語っていた。
「――灰色谷からの、報告だそうだな」
静かだが、腹の底に響く声。
俺は、動じることなく、恭しく、しかし堂々と一礼した。
「は。奴隷監督を務めております、ボルカスと申します」
「聞こう。手短にだ」
公爵は、一切の感情を顔に出さない。
値踏みするような視線が、俺の頭のてっぺんから爪先までを射抜く。
(……ここだ。集中しろ)
俺は、ゼニスと打ち合わせた通りに、淡々と、そして正確に報告した。
まず、鉱山で発生した崩落事故。
次に、その復旧過程で、新しい鉱脈の「兆候」が見つかったこと。
そして、看守長ガルトの長年にわたる横領の罪。
彼の怠慢と今回の事故を関連付ける考察も付け加え、最後に証拠となる帳簿を提出した。
報告が終わるまでの時間、アークライト公爵は、ただ一度も、瞬きすらしなかったように思う。
彼の視線は俺という存在を通り越し、その報告の裏にある「利害」だけを正確に計算しているようだった。
やて、長い沈黙が、部屋を支配した。
俺は、裁定を待つ使者として、ただ、まっすぐに公爵を見据え続けた。
どんな理不尽な言葉が飛んでくるか、全身の神経を研ぎ澄ませて。
「…ガルトめ。私の信頼を裏切り、私腹を肥やしていたか。万死に値する」
静かな、だが氷のように冷たい怒りが、その言葉に滲んでいた。
だが、その怒りは、すぐに消えた。
彼は差し出された帳簿を手に取ると、数ページを素早くめくり、そして、ピタリと指を止めた。
「…なるほど。横領によって、生産性が本来あるべき水準を大きく下回っていた、と」
彼の興味は、もはやガルトの罪にはない。
灰色谷という「資産」の、未来の価値にだけ向けられていた。
アークライト領はガリア帝国との国境線を抱えている。
慢性的なリソース不足に悩む彼にとって、この鉱山は、非常に重要な生命線なのだ。
彼は帳簿を閉じると、最終的な判断を下すように、俺を見据えた。
「ガルトの処遇は、私が決める」
「は」
「それまで、だ。ボルカス。貴様を、『看守長代理』に任命する」
――看守長代理。
「灰色谷の生産性を、正常化させろ。いや、向上させろ」
俺は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
怒声でも、罵倒でも、ましてや暴力でもない。
あまりに、合理的。
あまりに、冷静な「命令」。
ガルトとは、全く違う。
だからこそ、底が見えない。
「……期待は、していないがな」
最後の一言は、侮蔑というよりも、事実の通達に近かった。
俺は、動じることなく、深く、一礼した。
「御意」
館を出た時、空はすでに茜色に染まっていた。
想像していたような、理不尽な結末は、訪れなかった。
だが、安堵感はない。
代わりに、ずしりと重い責任と、未知の恐怖が、俺の両肩にのしかかっていた。
(看守長代理、か…)
あの公爵は、ガルトとは違う。
だが、だからこそ、恐ろしい。
あの男の前では、わずかな失敗も、許されないだろう。
あの瞳は、『利益』を生まぬ者を、即座に『不用品』として処分する瞳だ。
(とんだことになった…)
これから始まる日々を思い、俺の胃はキリキリと悲鳴を上げていた。




