第二話『老婆の歌』
――開廷を宣言する。
俺の精神は、静まり返った法廷にいた。
被告は、俺。
奴隷1138番。
罪状は、昨日犯した、致命的な判断エラー。
その結果、個体名ヨハンは、生命活動を停止した。
検察席には、俺がいた。
心を捨て、「機械」として生きることを選択した、かつての俺が。
その冷徹な瞳が、俺を射抜く。
『検察側、冒頭陳述を行う』
かつての俺の声が、思考に響く。同時に、俺の網膜の裏に、昨日の光景が、証拠映像として再生される。
再生映像1:俺が、ヨハンのパンを受け取る、スローモーション。
再生映像2:それを見ていた看守の口元が、ニヤリと歪む、クローズアップ。
再生映像3:俺が庇われ、ヨハンの頭蓋が砕ける、無慈悲な瞬間。
『――結論。
ヨハンの死は、被告の非合理な感情ノイズが招いた、必然の結果である』
定義:正論。
反論の余地はない。
だが、弁護席にも、俺がいた。
ヨハンの、あの温もりを知ってしまった、今の俺が。
震える声で、反論を試みる。
『弁護側、反論。
エラーは、被告のシステムに生じたのではない。この世界そのものが、バグだ。
仲間が理不尽に傷つけられるのを見て見ぬふりをする、この灰色谷の生存戦略こそが、許されざるエラーであると主張する』
『詭弁だ』
検察官の俺が、一蹴する。
『生存確率の最大化。それが、我々に与えられた唯一のタスクだ。
他の全てはノイズ。お前は、ノイズに耳を傾けた。だから、ヨハンは死んだのだ』
その通りだ。
俺の計算が、間違っていた。
俺が、パンを受け取ったりしなければ。
ぐるぐると思考が回る。
出口のない、論理の牢獄。
有罪。
有罪。
有罪。
その声が、俺の魂を、少しずつ削っていく。
その時だった。
――ララ、ラ……。
どこかから、微かな歌が聞こえてきた。
なんだ?
思考に割り込んでくる、耳障りなノイズ。
俺は、意識を、ゆっくりと現実へと浮上させた。
薄暗い、奴隷たちの寝床。
俺は、壁に背を預け、膝を抱えていたらしい。
手の中には、まだ、昨日のパンが握られている。
既に、石のように硬くなっていた。
歌声は、隅の方から聞こえてくる。
そこには、数人の子供たちが、一人の老婆を囲むようにして座っていた。
奴隷303番。個体名、エララ。
老婆だ。
労働力としての有用性は、谷で最も低い。
いつ廃棄されてもおかしくない、無価値な個体。
彼女が、皺だらけの顔で、子供たちに歌を語り聞かせている。
検察官の俺が、即座に断じる。
『無意味なノイズだ。無視しろ。我々の裁判を続けるぞ』
『……』
『どうした、弁護人。反論はないのか』
『……あの子供たちの、目を見ろ』
俺は、エララの歌に聞き入る子供たちを見た。
灰色谷で生まれ、灰色谷で死んでいくはずの、希望を知らないはずの子供たち。
その瞳が。
飢えと絶望しか映したことのなかったはずの、その小さな瞳が。
きらきらと、輝いていた。
まるで、夜空の星を、初めて見つけたかのように。
――エラー。
――エラー。
論理と、現実が、一致しない。
定義:エララの歌。
価値:ゼロジュール。エネルギー保存の法則に反する、無価値な音波の振動。
定義:子供たちの瞳の輝き。
価値:測定不能。
質量も、エネルギーも持たないはずの「輝き」が、明らかに、彼らの精神状態にプラスのベクトルを発生させている。
なんだ、これは。
俺の知る物理法則が、目の前で、歪んでいるのか?
無価値なはずの音波が、人間という名の複雑なシステムに作用し、観測可能なプラスエネルギーを生み出している。
そんな馬鹿な。
それは、魔法じゃないか。
俺のシステムが、初めて、解析ではなく、「恐怖」に近い感情を弾き出した。
『……くだらない』
検察官の俺が、吐き捨てる。
『感傷だ。一瞬の気休めに過ぎん。
そんなもので、腹は満たせるか? 看守の鉄棍を防げるか? 無価値だ!』
『だが、現に、子供たちは救われている……!』
弁護人の俺が、叫ぶ。
『腹じゃない。心が、だ! ヨハンが言っていた通りだ!』
『心だと? そんな非合理なもののために、命を危険に晒すのが、お前の正義か!』
『……!』
そうだ。
ヨハンは死んだ。
歌で、人は救えない。
では、どうすればよかった?
正解は、なんだった?
答えが、出ない。
俺の法廷が、激しい論戦で、ショート寸前になる。
まさに、その時。
エララの、しゃがれた、しかし、凛とした歌声が、俺の魂の扉を、叩いた。
「――王よ、あなたは民の腹を満たすのか?」
その一節は、俺の思考に突き刺さった。
「――それとも、魂を満たすのか?」
――思考が、停止した。
腹か、魂か。
検察官も、弁護人も、言葉を失って立ち尽くす。
その問いは。
その選択肢は。
俺の法廷には、存在すらしなかった。
――俺が、創らなければならないのか。
この、狂った世界の、全く新しい「法」を。




