第十九話『灰色の夜明け』
夜明けと共に、灰色谷を覆っていた混沌は、徐々に形を変え始めていた。
天を突いていた炎の柱は勢いを失い、今はただ黒い煙が立ち上るのみ。
だが、谷を支配するのは、もはや恐怖だけではない。
一つの、畏敬に満ちた熱狂が、生まれつつあった。
その熱狂の中心にいるのは、カエル。
爆心地から生還した彼は、もはや以前の、憎しみに満ちた反逆者ではなかった。
その瞳には、神の御業を目の当たりにした者の、狂信的な光が宿っている。
彼は、呆然と立ち尽くす奴隷たちの輪の中心に立ち、震える声で、しかし力強く宣言したのだ。
「…見たか!これが、『怒れる大地の息吹』だ!
あの男…ゼニスは、ただの人間じゃねえ!
あの人は、俺たちを導くために遣わされた、真の…!」
カエルの、その、魂からの叫び。
それは、恐怖に打ちひしがれていた奴隷たちの心に、一つの驚くべき「解釈」を与えた。
あの爆発は、単なる天変地異ではない。
ゼニスという男が予告し、そして実行した奇跡なのだ、と。
その熱狂を、さらに確かなものにしたのは、エララの静かな言葉だった。
彼女は、カエルの傍らに立ち、震える奴隷たちに、あの古い歌――英雄が、大地の力で、侵略者を打ち破った物語――を、再び語り聞かせた。
「…そうさ。歌は、本当だった。
そして、あの若いお方は、その古の知恵を、再び、呼び覚ましてくださった…」
カエルの「目撃証言」と、エララの「物語による裏付け」。
この二つが組み合わさった時、奴隷たちの心の中の点と点が、線で結ばれた。
彼らは、改めて、崩落現場へと視線を向けた。
瓦礫の中から、信じられないものが姿を現していた。
虹色の、鉱脈。
朝陽を受けて、七色に輝く、未知の鉱石。
「…奇跡だ」
誰かが、呟いた。
「神が…いや、ゼニス様が、俺たちに、与えてくださった…!」
恐怖は、熱狂的な信仰へと変わっていた。
彼らは、もはやガルトを恐れていない。
彼らの視線は、ただ一点――ゼニスが囚われているはずの、懲罰房へと注がれていた。
早く、我らが指導者を、解放せねば、と。
静かに、しかし熱烈な視線が、その一点に集まっていた。
その、異様な熱狂の中心で。もう一つの、静かな断罪劇が、進行していた。
ガルトは、被害状況の確認に、再び崩落現場を訪れていた。
だが、実際のところ、どんな報告も彼の耳に届いてはいない。
ただただ、自失したように、崩落現場に立ち尽くしていた。
彼の支配の象徴であった鉱山の一部が、理解不能な力によって破壊された。
その事実は、彼の精神を蝕んでいた。
そこへ、ボルカスが、数人の屈強な古参鉱夫を伴い、静かに近づいていく。
彼の腕はまだ吊られているが、その瞳には、もはや墓守の諦観はない。
灰色谷の未来を背負う者の、冷徹な決意が宿っていた。
「看守長ガルト」
ボルカスの、静かだが、有無を言わさぬ声が響く。
ガルトは、虚ろな目で、彼を見上げた。
「貴様は、落盤による重要坑道の崩壊という職務怠慢の罪で、動けぬ。
これより古参監督のワシが、谷の秩序維持と領主アークライト様への報告責任を一時的に代行する」
それは、反乱の宣言ではない。
鉱山の規則に則った、緊急時における、権限の委譲要求だった。
「…何を、馬鹿な…」
ガルトが、掠れた声で反論しようとした、その瞬間。
ボルカスは懐から、一冊の、分厚い帳簿を取り出した。
彼が昨夜、命懸けで盗み出した、ガルトの心臓。
「そして、これは、貴様が長年にわたり行ってきた、横領の動かぬ証拠だ。
これも併せて、領主様へ報告させてもらう。…異論は、ないな?」
その帳簿を目にした瞬間、ガルトの顔色は変わった。
豚のような小さな瞳が、必死に、状況を計算するように、左右に揺れ動いた。
「な、な、なんだと!?なぜ貴様が――!!
……ふ、ふん。ただの帳面ではないか。それがどうした?
大方薄汚い貴様らが偽造でもしおったのだろう?」
彼は、虚勢を張り、ボルカスを睨みつける。
周囲の看守たちは状況が飲み込めていない。
ボルカスは動じない。
彼は、帳簿の一ページを開き、ガルトの目の前に突きつける。
そこに記されていたのは、特定の月日と、横流しされたライ麦粉の量、そして、取引相手だった。
「ほう…?そうか。
では、この日付の、貴様の私室への『搬入記録』と、谷の外への『極秘の搬出記録』。
そして、この奇妙な『暗号』。
それらすべてを領主アークライト様の前で詳らかにしても、貴様自身が申し開きできるのだな?」
ガルトの額に、脂汗が、玉のように噴き出した。
ボルカスがどこまで掴んでいるのか、計りかねているのだ。
ついに、平静を保てなくなって、叫んだ。
「貴様ら!何をぼさっとしている!こいつらは反逆者だ!捕らえろ!撃て!」
だが、看守たちは、動かなかった。
彼らは、ガルトの明らかな狼狽と、ボルカスの揺るぎない確信から、何が真実か理解した。
何よりも、周囲を取り囲む数百の奴隷たちの燃えるような憎悪の視線に、もはや戦意を喪失していた。
「…なぜだ…なぜ、動かん…!」
ガルトは、信じられないというように、わめく。
そして俯く看守たちを見て、悟った。
自らが築いてきた「システム(恐怖による支配)」が、たった一冊の「帳簿(証拠)」と、長年虐げてきた「民衆(憎悪)」によって、完全に無力化されたことを。
彼が最も恐れていたのは、死ではない。
「権威」と「システム」を失うことだった。
そして今。
彼は、その両方を、同時に失ったのだ。
ガルトの顔から、全ての血の気が失われた。
「ああ…あああ…」
呻き声を漏らしながら、糸が切れた操り人形のように、その場に、みっともなく、膝から崩れ落ちた。
こうして、旧支配者の時代は、その醜悪な断末魔と共に、あっけなく、しかし確実に、終わったのだ。
混沌が収束し、新しい朝陽が、谷を照らし始める。
その光の中で、俺は、迎えに来てくれた奴隷たちとともに、広場へと合流する。
ボルカスは、俺の前に進み出ると、深く、頭を垂れた。
「……ゼニス。まずは礼を言わせてくれ。
⋯ありがとう。お前のおかげで絶望の日々は終わった。灰色谷は変わる。
さあ、ガルトは排除した。看守たちも、武装解除させた。
……次はどうする?」
その言葉は、事実上の、主導権の譲渡だった。
周囲に集まっていた奴隷たちが、息を呑んで、俺たちのやり取りを見守っている。
彼らの瞳には、恐怖も、憎悪もない。
ただ、新しい指導者への、絶対的な期待だけが、宿っていた。
俺は、ボルカスの目を見た。
彼は、もはや奴隷ではない。
この谷の未来を、俺と共に背負う覚悟を決めた、最初の「臣下」だ。
俺は静かに、最初の「宣言」を発した。
「終わりではない。これは、始まりだ」
俺の視線の先には、虹色に輝く鉱脈と、無限の可能性を秘めた新しい「国」の、最初の設計図が広がっている。
「ボルカス。あんたの最初の仕事は、『看守長代理』として、この谷の秩序を維持すること。
そして、領主アークライトに、正確に、報告することだ。
この崩落事故のこと、新しい鉱脈のこと、そして…」
俺は、ボルカスが差し出した、あの裏帳簿を手に取り、静かに付け加える。
「この、ガルトの『罪状』の全てをな」
その言葉に、ボルカス、そしてそれを聞いていたカエルやエララたちが、息を呑む。
彼らは、まだ知らない。
俺が今放ったこの一手が、単なるガルトへの断罪ではない。
領主アークライトという、次なる巨大なシステムに対する、最初の「布石」であるということを。




