第十八話『チェックメイト』
灰色谷は、混沌の坩堝と化していた。
天を突く炎の柱は、未だ衰えることなく燃え盛り、夜の闇を不気味なオレンジ色に染め上げている。
地響きは断続的に続き、怯えた奴隷たちの悲鳴と、祈りの声が、谷間に木霊していた。
看守たちは完全に統制を失っていた。
何が起きたのか理解できず、ただ右往左往するばかりだ。
一部の者は恐怖に駆られて持ち場を放棄し、一部の者は、ひれ伏す奴隷たちに八つ当たりするように棍棒を振り回していた。
その、地獄のような混乱の、真っ只中で。
一人の男が、影のように、動いていた。
ボルカスだ。
彼は、爆発の衝撃とそれに続く看守たちの混乱を最大限に利用し、誰にも気づかれることなく、鉱山の深部からガルトの執務室へと続く、古い抜け道へと滑り込んでいた。
彼の心臓は、胸の中で、激しく鼓動していた。
失敗すれば、死。
いや、死よりも惨い結末が待っているだろう。
だが、彼の足取りに迷いはなかった。
ヨハンの顔が、飢えて死んでいった仲間たちの顔が、彼の背中を押していた。
執務室の前にたどり着いた。
見張りはいない。
ほっと胸を撫でおろすと、懐から使い古された一本の細い金属棒を取り出した。
古い坑道で、時折、固着した扉をこじ開けるために使っていた道具だ。
錠前はこの谷でよく見る、旧式の単純なもの。
長年の経験から、その構造的な弱点は知っている。
息を殺し、金属棒を鍵穴に差し込むと、指先の感覚だけを頼りに、内部のピンを、一つ、また一つと、押し上げていく。
…カチリ、
と、小さな音が響いた。
錠前は、音もなく、開いた。
室内は、主の不在を物語るように、静まり返っていた。
壁に飾られた拷問器具が、蝋燭の光を受けて鈍く光っている。
そして、部屋の隅には、あの、不気味な蟻の巣のガラスケース。
ボルカスは一直線にその台座へと向かった。
ゼニスとの打ち合わせ通り、台座の側面を探る。
――あった。指先に、わずかな引っかかり。
慎重にそれを押し込むと、台座の一部が音もなくスライドした。
その奥には、革で装丁された、分厚い一冊の帳簿が、鎮座していた。
ボルカスは震える手でそれを掴み取る。
間違いない。
ガルトが、長年にわたって記録してきたであろう、横領の、動かぬ証拠だ。
彼は、ページを僅かにめくり、そこに記された数字――水増しされた奴隷の数、横流しされた食料の量――の、あまりの巨大さに改めて戦慄した。
素早く帳簿を懐に隠すと、来た道を素早く、しかし慎重に引き返す。
ミッションは、完了した。
あとは、この「爆弾」を、適切な場所へと届けるだけだ。
その頃、ガルトは己の目を疑っていた。
第三層へ続く坑道は完全に崩落し、猛烈な熱風と、異臭を放つガスが噴き出している。
死傷者の数はまだ把握できないが、甚大な被害であることは間違いなかった。
「…一体、何が起きたのだ…?」
彼の傍らにいた看守の一人が、震える声で言った。
「か、看守長…これは、まさか…あの、言い伝えの…?」
「馬鹿を言え!」
ガルトは、怒鳴りつけた。
だが、その声には、いつもの威圧感はなかった。
彼の心の奥底にも、説明不能な現象への原始的な恐怖が芽生え始めていた。
神の怒り?
古代の呪い?
混乱と、恐怖と、そして自らの支配が根底から揺さぶられているという屈辱的な焦り。
ガルトは生まれて初めて、自らの「庭」が制御不能になるという事態に直面し、狼狽していた。
「…戻るぞ!体勢を立て直す!」
彼は、部下たちに命令を下すと、忌々しげに現場を後にした。
彼の頭の中は、この異常事態の原因究明よりも、自らの立場を維持するための計算で一杯だった。
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どれほどの時間が過ぎただろうか。
遠くで聞こえていた、爆発音と、人々の叫び声は、徐々に、遠のいていた。
俺は、懲罰房の暗闇の中で、ただ、待っていた。
自らが仕掛けた、0.01%の賭けの結果を。
――ガリリ、と。
鉄格子が、開く音。
現れたのは、ボルカスだった。
その顔は、煤と汗で汚れていたが、その瞳には、確かな光が宿っていた。
ボルカスは、乱れる呼吸もそのままに、こう言った。
「……やったぞ、ゼニス。
戻ってきたガルトと鉢合わせそうになったが…間一髪、抜け道に逃げ込めた。
大成功だ…!」
彼は懐から、一冊の分厚い帳簿を取り出し、俺の目の前に、置いた。
俺は、それを受け取り、ページを開く。
そこに記されていたのは、ガルトの、長年にわたる、冷徹で醜悪な犯罪の記録。
そして、この谷で死んでいった、数えきれない仲間たちの、声なき告発だった。
俺の口元には、笑みが、浮かんでいた。
――勝った。
もはやガルトの目を気にする必要もない。
俺は、一人、懲罰房から、外へと、歩み出る。
夜明けが、近づいていた。
東の空が、わずかに白み始めている。
眼下にはまだ燻る煙と、呆然と立ち尽くす、あるいは、夜明けの光に祈りを捧げる奴隷たちの姿があった。
俺は、その混沌と静寂が入り混じる新しい世界の始まりを見下ろした。
その口元に、冷たく、そして、絶対的な「勝利」の確信を宿した笑みを、浮かべながら。
この瞬間、この谷の古い法則は確かに死んだのだ。
その手には、旧支配者を断罪する、まさに裁きの雷が握られている。
その視線の先には、自らがこれから築き上げるべき新しい世界の、最初の設計図だけが広がっていた。




