第十七話『はじまりの炎』
夜の闇の中、カエルは一人、立っていた。
ボルカスによって懲罰房から秘密裏に解き放たれた彼は、ゼニスの常軌を逸した指示だけを頼りに、鉱山の最深部、第三層の、古い採掘坑へとたどり着いていた。
手にあるのは、一本の錆びついたツルハシ。
だが、今の彼にとってそれは、単なる道具ではなかった。
裏切り者と罵った男から託された、この谷の全ての運命を左右する最後の「刃」だった。
「――本当なんだろうな……」
彼の心の中で、葛藤と激しく戦っていた。
憎い。
あの、冷たい目で俺たちを計算の駒としか見ていない、あの男が。
だが、信じるしかない。
エララの、あの、静かな言葉を。
そして、暗闇の中で悪魔のような笑みを浮かべた、あの男の狂気的な確信を。
彼はゼニスに指示された一点を見つめた。
壁に走る微細な亀裂。
その奥に眠る、「怒れる大地の息吹」。
「……信じるぞ、裏切り者」
それは、呪いであり、そして、祈りだった。
カエルは、ツルハシを、高く、振り上げた。
そして、ありったけの、憎しみと、信頼を込めて、その一点に、振り下ろす。
――キンッ!
硬い、岩を打つ、甲高い音。
何も、起きない。
二度目。
――ガンッ!
火花が散る。壁は、びくともしない。
やはり、嘘だったのか。
あの男の、最後の悪あがきに、俺は、踊らされただけなのか…?
憎悪が、再び、彼の心を焼き尽くそうとした、その瞬間。
彼は、エララの顔を思い出した。あの、静かで、揺るぎない瞳を。
「…くそッ!」
彼は、三度目、最後の力を込めて、ツルハシを振り下ろした。
――ゴッ!
鈍い音が響き、ツルハシの先端が、亀裂の奥深くに、食い込んだ。
その、瞬間だった。
――ゴゴゴゴゴ……。
足元が、激しく、揺れた。
いや、違う。
地球そのものが、呻いている。
壁の亀裂から、シューーーッ!という、蛇が威嚇するような、甲高い音が、漏れ出し始めた。
それは、腐った卵のような、強烈な異臭を、伴っていた。
カエルは、ゼニスの、最後の言葉を、思い出していた。
『三度、打て。そして、全力で、走れ』と。
本能的な恐怖が、彼の全身を貫く。
彼は、振り返ることなく、出口へと駆けた。
闇の中を、ただひたすらに。
その、直後だった。
灰色谷の、全ての奴隷たちが、その音を、聞いた。
それは、落盤事故のような、鈍い音ではない。
天と地が、裂けるような、凄まじい「咆哮」だった。
地響きが、谷全体を、揺るがす。
寝床の壁が軋み、天井から土埃が降り注ぐ。
奴隷たちは、何事かと、恐怖に駆られて、寝床から飛び出した。
そして、彼らは、見た。
鉱山の、第三層に通じる、古い通気口から。
夜の闇を、真昼のように、照らし出す、巨大な「炎と蒸気の柱」が、天へと、昇っていくのを。
それは、彼らが、生まれて初めて見る、光景だった。
世界の法則を、完全に、逸脱した、圧倒的な、暴力。
まるで、大地という名の、巨大な竜が、怒りの息吹を、天へと、吐き出したかのような。
神話的で、あまりにも、美しく、そして、恐ろしい、破壊の光景。
奴隷たちは、声も出せずに、その場に、ひれ伏した。膝をつき、額を地面に擦り付け、ただ、震えることしかできなかった。
これは、人間の仕業ではない。
神の、怒りだ、と。
あるいは、古の英雄譚の、再来だ、と。
――その頃。
ガルトは、執務室で、その轟音と地響きに思わず椅子から跳ね上がった。
「…何事だ!?」
扉が乱暴に開かれ、血相を変えた看守が駆け込んでくる。
「看守長!大変です!鉱山の第三層で、原因不明の大爆発が!」
「……何だと!?」
ガルトの豚のような目が、信じられないというように、見開かれる。
「第三層だと?あそこは、もう何年も前に放棄したはず…!何が起きた!?答えろ!」
「そ、それが…まだ混乱していて…!とにかく、凄まじい火柱が…!」
ガルトの脳裏を、かつてない種類の混乱が襲う。
落盤ではない。
火薬を使った破壊工作?
いや、それにしては規模が大きすぎる。
まさか、あの鼠が…?
馬鹿な、ありえん。
奴は牢に繋がれたままだ。
彼の完璧な「蟻の巣」という名のシステムが。
彼の計算外の「変数」によって、制御不能なエラーを起こしている。
それはもはや、怒りではなかった。
自らの理解を超えた現象に対する、純粋で、冷たい。
「恐怖」だった。
「…現場へ行くぞ!全員、続け!」
混乱する頭を振り払い、怒鳴り声を上げると執務室を飛び出していった。
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カエルは爆心地から、命からがら、逃げ延びていた。
そして、坑道の出口付近で振り返り、自らが引き金を引いたその「奇跡」を、目の当たりにしていた。
天を突く、炎の柱。
大地を震わせる、神の咆哮。
彼の心の内で燃え盛っていたガルトへの怒りの炎は、そのあまりにも巨大な炎の前に、ちっぽけな灯火のようにかき消されていた。
これは、暴力ではない。
情熱でもない。
もっと、上位の。
世界の理そのものを書き換える、絶対的な「法則」の力。
あの男――ゼニス――は、これを、計算していたというのか?
この、神の御業を。
カエルの魂が、その場で、生まれ変わる。
憎しみも、疑念も、全てが焼き尽くされ、その灰の中から新しい感情が芽生えていた。
畏敬。
そして、絶対的な、信仰。
彼はもはや反逆者ではない。
神の奇跡をその身で体現した、献身的な「使徒」へと変貌していた。
彼は、炎に照らされた自らの手を見つめた。
この手で引き金を引いたのだ。
彼はゆっくりとその場に膝をつき、燃え盛る炎の柱に向かって、深く頭を垂れた。
それは、悔恨ではない。
新たなる主への、最初の、そして、永遠の誓いだった。




