第十四話『狂信の演説』
灰色谷は、静かな地獄から騒がしい地獄へと、その姿を変えていた。
飢えは、奴隷たちの最後の理性を、食い尽くしていた。
俺の排水計画がもたらした衛生環境の改善など、もはや、誰も覚えてはいない。
腹が満たされなければ、清潔な寝床など何の価値もない。
その単純で、絶対的な真実が、俺のシステムを内側から静かに侵食していた。
ボルカスに、警告された通りだった。
カエルは、この充満した不満の空気を、巧みに利用した。
彼はもはや、単なる暴力的な男ではなかった。
飢えた民衆の心を一手に掌握する、扇動家へと変貌していた。
その日、事件は配給広場で起きた。
奴隷たちが、いつにも増して小さく、硬くなった黒パンを手に、絶望した顔で、地面に座り込んでいる。
その、中央。
カエルは、一つの木箱の上に、仁王立ちになっていた。
「――見ろ、兄弟たち!」
彼の声が響き渡る。
その声には、不思議な熱がこもっていた。
「これが俺たちの今日の飯だ! 昨日よりも小さく、そして不味くなった! 違うか!?」
「そうだ!」
「石ころみてえだ!」
群衆から、怒号が上がる。
カエルは満足そうに頷いた。
そして、その指を、まっすぐに、俺に向けた。
俺は広場の隅で、その光景をただ、見つめていた。
「あの男を見ろ! 俺たちの、賢い、ゼニス様だ!」
その言葉には、毒が塗られていた。
「奴が看守長に尻尾を振るようになってから、俺たちの飯はどうなった!?
マシになったか!? いや、むしろ、悪くなっているじゃねえか!」
そうだ、そうだ、と、群衆が同調する。
俺のシステムが、分析する。
定義:単純な、二元論。
事実を巧みに歪曲し、民衆の憎悪を一点に集中させる、古典的な扇動術。
だが、そのあまりにも原始的な「論理」が、飢えた彼らの心には何よりも深く、突き刺さっていた。
「奴は言うだろう! 計算が、システムが、と!
だが、見ろ! 知恵や計算では、腹は膨れない!
あの看守長の犬になっても、パンの大きさは、変わらなかっただろうが!」
カエルは手に持っていた黒パンを、高く、掲げた。
「俺たちの敵は、看守長だけじゃねえ!
俺たちの飢えを見て見ぬふりをする、あの、冷たい『システム』そのものだ!」
その言葉に、群衆の目が、変わった。
絶望に濁っていた瞳が、狂信的な熱を帯び始める。
もはや、彼らは、一人一人の人間ではない。
飢えと怒りという、単一の感情で結ばれた、一つの巨大な「怪物」だった。
俺は、動けなかった。
俺の言葉は届かない。
俺の論理は、彼らの腹の音の前には、あまりにも無力だった。
――エラー。
重大な論理的欠陥を検出。
原因:感情パラメータ『飢餓』及び『怒り』の発生確率を過小評価。
結論:俺のシステムは、人間の最も原始的な欲望という『変数』を、計算に入れなかった。
美しく完璧なはずだった俺の設計図。
今、彼らの腹の音というたった一つの原始的な物理法則の前に、ただの紙切れとして崩壊していく。
これが俺の、統治者としての最初の、そして完全な「敗北」だった。
カエルは、その熱狂の頂点で、最後の、そして最も危険な宣言をした。
「もう、待つのは終わりだ! 俺たちには、力がある!
この谷の外れに、豚どもが俺たちから奪った食料を溜め込んでいる倉庫があるのを、俺は突き止めた!」
ガルトの、横流し品の保管庫のことだろう。
「今夜、そこを、襲う!
そして、俺たちのパンを、俺たちの手で、奪い返すんだ!」
うおおおおお!と、地鳴りのような、歓声が、上がる。
ダメだ。
もう、止められない。
ガルトは、この暴動を、待っている。
これを口実に、カエルたちを一掃し、俺に絶望を与える、絶好の機会だと考えているはずだ。
「――待て!」
俺は、叫んでいた。
理性を失った、怪物の群れの中へと、ただ、一人、歩みを進める。
「それは、罠だ! ガルトの、思う壺だぞ!」
だが、俺の声は、熱狂の渦の中に、虚しく、吸い込まれていった。
誰の耳にも、届かない。
カエルが、俺を、見下ろした。
その瞳には、情など、ひとかけらも、残ってはいなかった。
そこにあるのは、歪んだ、しかし、純粋な、
『俺だけが、この仲間たちを、腹を空かせたままにはしない』
という、悲しいほどの、使命感。
そして、その使命を邪魔する、裏切り者への、絶対的な、憎悪だけだった。
「黙れ、裏切り者!」
カエルは、そう叫ぶと、懐から、錆びついた、一本のナイフを、抜き放った。
そして、その刃を、まっすぐに、俺に、突きつける。
その瞬間。
俺の頭の中で、全ての計算が、静かに、完了した。
――判決:この行動の、最終的な受益者は、看守長ガルトである。
カエルは、自らの純粋な正義によって、ガルトのシステムの最も忠実な「駒」となった。
そして。
この谷の、唯一の希望だったはずの男が。
今、同胞の刃の前に、その命を、晒していた。




