第十三話『不協和音』
あの仕掛けられた崩落から一週間が過ぎた。
俺とガルトの間に奇妙な「協定」が結ばれたことを、奴隷たちはまだ知らない。
知っているのは、俺が看守長に呼び出され、五体満足で帰還し、新品のツルハシを手にした事実だけだ。
その事実は、俺の周囲に畏怖と関心を集めていた。
一方で、カエルとその仲間たちの視線は、日に日に冷たさを増していく。
俺たちの生活は、表面的には確実に向上していた。
排水計画は、ボルカスという絶対的な信頼を得たリーダーの下、驚くべき速度で進展した。
寝床の空気にもはや腐臭はなく、土の匂いを取り戻している。
それは、革命などではない。
ただ、人間が、最低限、尊厳を持って眠るための、当たり前の環境。
俺たちの、ささやかな、しかし、確かな希望だった。
だが、その希望に影が差し始めるのに、たいして時間はかからなかった。
変化は、配給のパンから始まった。
ただでさえ石のように硬かったあの黒パンが、日に日に小さく、そして硬くなっていく。
まるで、水分という水分を、全て、奪われたかのように。
口に入れれば砂を噛むようにボソボソと崩れ、喉を焼くように通り過ぎていく。
スープはさらに悲惨だった。
かつてはまだ、野菜の屑が浮かんでいた。
だが、今ではただの泥水だ。
温かいというだけの泥水。
それを啜るたびに、奴隷たちの瞳から光が一つ、また一つと消えていく。
俺は、直観的に理解していた。
ガルトの悪意が働いている。
これは、谷の外から仕掛けられた、見えざる「経済戦争」に違いない。
外部の食料供給ルートに働きかけ、干渉しているのだろう。
奴の目的は定かではない。
純粋な嫌がらせか、あるいは、この飢餓を利用して何か企んでいるのか…。
いずれにせよ、このままではまずい。
衛生環境の改善という「希望」が、「飢餓」という抗いがたい本能の前に、容易くその価値を失っていく。
この構造を論理的に理解はできる。
だが、証明する術も、対抗する手段もない。
純粋で巨大な壁の前で、初めて感じる無力感を味わっていた。
そして、その無力感は奴隷たちの間に、最も危険な「毒」を撒き散らし始めた。
彼らの怒りは、直接的な原因であるガルトには、向かわない。
見えざる外部の敵にも。
行き場のない憎悪は、たった一つの分かりやすい的、――俺に集中した。
「なあ、おかしいと思わねえか?」
寝床の隅で、奴隷たちが、ひそひそと、囁き合っている。
「ゼニスが監督をけしかけて何かやり始めてからだ。飯が少なく、不味くなったのは」
「ああ。看守長に魂を売り渡したって噂だぜ」
「自分だけ、たらふくいい飯でも食ってんじゃねえのか?」
俺がもたらしたはずの「希望」が、今まさに、仲間たちの「憎悪」へと、変わり始めている。
その現実に、焦りを感じ始めていた。
その夜だった。
ボルカスが一人、俺の元を訪れた。
腕の怪我もまだ完治していない。
「……ゼニス」
その響きには深い苦悩と、何よりも心配の色が滲んでいた。
「あんたも噂は耳にしてるだろ。
俺は疑わねえ。俺の命は、あんたに救われた。
それは、一生、忘れん」
「……」
「だがな。仲間たちの腹は、正直だ」
ボルカスの言葉の一つ一つが、まるで墓石のように重い。
「このままじゃ不満は抑きれん。カエルの奴らもいつ暴発してもおかしくない」
俺の目を、真っ直ぐに、見据えた。
そしてこの谷の最も過酷で、最も普遍的な真実を俺に突きつける。
「このままじゃ、あんたは仲間を全部失うぞ。
そうなれば、支配者はお前さんをどうする?
…もう、用済みだ」
俺は、初めて、知ったのだ。
飢えよりも、暴力よりも、何よりも、恐ろしい、統治者だけが、その身に受ける、呪い。
民衆の「支持」を、失うという、恐怖を。




